パリサイ人シモン家の宴
[Le Repas chez Simon le Pharisien]


2024年5月31日(金)10:00をもちましてURLは下記の通り変更になります。
https://arisada.wjg.jp/france/Simon.html

聖書のなかの女性たち
「罪深い女」の塗油の物語は、ルカによる福音書では、イエスが宣教活動に入った比較的初期のできごととしている。
イエスがファリサイ派のシモンの家に招かれて食事をしている時、一人の招かれざる客、「罪深い女」が現れた。

『あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。』(ルカ 七・36-38)

当時の習慣では、客を招いた家には、客に会うために誰でも自由に入ることができたという。また、 食事の作法は、レオナルド・ダ・ヴィンチが画いた「最後の晩餐」のように、食卓に食物を置き、椅子に腰かけて食べるのではなく、履物をぬぎ、体を横たえ、右手で食物をとって食べた。この席では、 イエスは左手をクッション、あるいは肘かけ台の上に置いてもたれつつ、横たわつていたと思われる。 (「食事の席に着く」はギリシア語では「アナクリノー」、「もたれる」「横になる」意味) 突然の訪問者も、たやすく「後ろからイエスの足もとに」近寄れたわけである。
男性たちの食事の宴に女性が突然入って来る、それだけで人々を驚かせたことであろう。しかも、その女性は「罪深い女」としてよく知られている人物であった。多分、 好奇、軽茂、非難、拒否等の視線が集中したことであろう。女性はイエスのうしろに座り、沈黙のまま、涙を流していた。涙はイエスの足にこぼれ、しとどに瀰らした。当時の女性は、長い髪を編んで頭の上に結ったり、金や宝石などの飾りをつけてよそおうことを好んだらしい。(ペトロの手紙 三・3) 飾りをはずし、結い上げていた髪を解き、女性は長く美しい髪で、ゆっくりと、丁寧にこぼれた涙をぬぐった。ぬぐい終ると、 イエスの足にくりかえし、くりかえし接吻し、もって来た香油を塗った。イエスは女性のするままにさせていた。
イエスを招いたシモンは、ファリサイ派の人、といわれている。ファリサイ派の人がなぜイエスに「一 緒に食事をしてほしい」と願ったのかは明らかにされていない。評判の高い宣教者イエスの教えも聞いてみようか、と思ったのか、あるいは、 イエスの名声に少しでもあずかりたい、と思ったのか… イエスは「人を偏り見ることなく」招きに応じたのであろう。
招待者のシモンは、この席でも相変わらずファリサイ派的メンタリティの中にあったようである。 シモンはロに出すことはしなかったが、心の中では、女性が「罪深い女」であることが許せず、イエスへの塗油も接吻も、ただ忌まわしい状景に見えたらしい。イエスにも不信感をもって、内心「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と 考えていた。
ここから女性の来訪、塗油の意味が明らかにされてくる。

『そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、 シモンは、「先生、おっしやってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。1人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。ニ人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」。シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。 赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。』(ルカ 七・40-48)

イエスは、女性が多くの愛を示したことは、すでに大きな赦しが与えられているからだ、と言うのである。
女性がどういう経過を辿って「罪深い女」になったかは語られていないし、また、それを問う必要もないだろう。避け難く追いつめてきたきびしい運命、町の人々の冷たく、意地悪い眼差し、共同体からのはじき出し… そのような仕打ちをうける悲しさ、□惜しさは、高価な香油を買える経済的余裕をもつようになつても、いささかも癒されることはなかつたに相違ない。女性は苛酷なめぐり合わせを呪い、冷たい仕打ちをする人々を憎んだこともあつたであろう。また、幾人もの男性たちをつまずかせた記憶が、棘の痛みを伴って心の中を駆け巡ることもあったかもしれない。女性は宣教者イエスの評判を耳にした。そして、自ら求めて教えを聞くようになり、娼婦であることの罪、人間の罪に気づかされた。罪の自覚と回心のあとに来るかもしれない深刻な「飢え」との心内葛藤をのりこえ、女性は「メシア」と信じるようになったイエスの前で罪を痛悔し、赦しを与えられた。(「五百デナリオンの赦し」である)そして、信仰のある、新しい人生への歩みを始めていた、と考えられる。
イエスが食事に招かれてシモンの家にいることを知り、女性は大きな赦しへの感謝と崇敬をあらわすため、香油を奉献しようとやって来た。イエスの後ろに座った時、女性は自分の内に大きな変化が起こつているのに気づいたのではなかろうか。それまで人々から冷たい眼を向けられると、弱気になつてくずおれそうになつたり、強気で反発するなど、心が揺れ、騒いだのに、この時はそのどちらでもない、大きな安らぎに包まれて、心が平和に風いでいるのを感じていたから。
それまで体験したことのない心の内に自ら気づいた時、涙が溢れた。
涙はあたたかく溢れ続け、イエスの足を濡らした。女性は結い上げていた髮を解き、足を濡らした涙をぬぐった。美しく豊かな髮は女性の魅カを引き立ててきたもの、彼女はそれを充分承知しながら、 大事に、念入りに手入れをしてきたのであろう。その髪で、ためらうことなく溢れ落ちた涙をぬぐい、 イエスの「足に接吻」することを続けたのであつた。
当時、客を迎えた家では、下僕が水で客の足を洗い、特に高貴の客には主人が接吻し、頭に油を塗って丁重に迎えたようである。女性は最も低く、卑しい奴婢の作法をもって、しかも沢山の愛をこめて歓迎の挨拶をしてくれた― 大きなきな罪を赦され、 新しい生を得た感謝と喜びの涙でイエスの足をすすいだこと、大事に手入れを続けてきた美しい髮で、ためらうことなく足をぬぐつたこと、くりかえし歓迎の接吻をしたこと、やっと手に入れた高価な香油を、惜しげもなくすベて奉献したこと、 (「頭」ではなく、「足」に塗油したのは、「罪深い女」であつたことへの遠慮、ないし、謙遜だったかもしれない)--イエスは女性の行為の一つ1つに感謝と熱い愛の心を読みとり、それらをすべてうけいれたのであった。
シモンはイエスを食事に招き、「先生」と呼んで一応敬意を示すが、女性が示したような、大きく、 豊かな愛のこもつた歓迎の挨拶はしなかった。それどころか、内心では「罪深い女」として女性を忌 まわしいものに思い、イエスにも不信を抱いたのであった。
金貸しから借金を帳消しにしてもらつた額の多い者が、少ない者より多く金貸しを愛する、と答えたシモンに、「そのとおりだ」と認め、女性がイエスに示した愛の大きさから、すでに「多くの罪を赦されたこと」は明らかだ、とイエスは言う。それは回心した「罪深い女」を擁護し、慈しむ言葉である。また同時に、律法の定めに型通りに従って、娼婦や遊女を「罪深い女」と安易にきめつけて軽蔑するファリサイ派の人々の人間観を糺す言葉、律法を守ることだけにこだわり、神を愛することの少ないファリサイ派の人々には、神の愛、神の赦しもまた少なくしか与えられないことを指摘する言葉でもあった。
このあと、イエスは人々の前で、改めて女性に、「あなたの罪は赦された」と宣言し、人々が「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考える中、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(七・48-50)と言って女性を去らせた。女性は神を信じることによって自身の罪に気づき、罪を痛悔することによって大きな赦しを与えられ、新しい、安らぎの生を得た― 女性の熱い信仰があるところに神の救いの手がさしのべられたことを人々の前に明らかにしたのである。「行きなさい」とは、それまでの罪深い生き方、疎外と孤立の暮らしから去り、愛のある共同体、愛のある交わりに入ることを意味するものと思われる。女性が行った先は、もとのあたたかい家族の中であったろうか。人間らしい交わりのできる新しい共同体であったろうか。

出典:「聖書のなかの女性たち」 渋川久子 (著) 玉川大学 出版部


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