旅の栞(トルコ)
6月28日
イスタンブール [İstanbul]
『トプカプ宮殿 [Topkapı Sarayı]』
2024年5月31日(金)10:00をもちましてURLは下記の通り変更になります。
https://arisada.wjg.jp/turkey/newpage17.html
トプカプ宮殿 [Topkapı Sarayı] 征服者メフメット2世は、1465年に、イスタンブール旧市街の東端の、マルマラ海へと突き出した小高い岬の上に位置するこの地に、新たに宮殿を造営し始め、1478年にそれが完成した。 そして彼は新しい宮殿に住居を移した。 (旧宮殿の跡地は19 世紀にはオスマン帝国陸軍省が使い、現在はイスタンブール大学となっている) 新宮殿 (イェニ・サライ) は、この時から、帝都の中心、帝国の中心となり、国政の中心となるとともに、19世紀前半まで、歴代スルタンの住居としても使われた。 この宮殿の最も広く、一般に知られた名称であるトプカプト宮殿の名は、後代になってつけられた通称で、その由来は、トプカプト宮殿のある岬の東北端、宮殿岬と呼ばれる地点近くの宮殿外壁に、海に面して設けられた一つの門にある。 この門 (カプ) [kapı] は、その前に礼砲用の大砲 (トプ) [top] が据えられていたため、「大砲の門」 の呼び名をもっていた。 18世紀中葉に、この門の近くに木造の離宮が建てられ、「大砲の門の宮殿」 と名付けられた。 この宮殿は、後に焼失したが、19世紀初頭に入り、本体である新宮殿 [Yeni Saray] の方が、トプカプ宮殿と呼ばれ始め、この呼び名が定着していった。 ![]() |
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アフメット3世の泉 [III. Ahmet Çeşmesi] (15:58) トプカプ宮殿 "皇帝の門" 前の広場に建設した最も豪華な泉。 建設年:1728年 建設者:アフメット3世 建築家:ミマール・アフメット・アー 「東北東」MAPLay. 1 j |
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アフメット3世の泉 [III. Ahmet Çeşmesi] (1855年) 出典:Eski İstanbul Fotoğrafları Arşivi |
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Bab-ı Hümayun (Saltanat Kapısı) 「皇帝の門」 (15:59) トプカプト宮殿の約70万㎡に及ぶ広大な敷地は、小高い城壁で囲まれている。 この外壁の正門が、「皇帝の門」 ![]() 「北東」MAPLay. 1 k |
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ハギア・イレーネ聖堂 [Aya İrini] / 聖イレーネ博物館![]() アヤソフィア博物館同様、 聖イレーネ博物館 はもとは教会で、イスタンブールに建てられた最初の教会だった。 4世紀にコンスタンチヌス帝が建築を命じ建てられたハギア・イレーネは、532年に焼失し、後にユスチニアヌス帝によって再建された。 その後、740年に地震で損傷を受け、コンスタンティノス5世によって修復されている。 この建物は、キリスト教以前の寺院の敷地跡に建っている。 現在は、コンサートホールとして使われている。 「北北西」MAPLay. 1 l |
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第一の中庭 [I. Avlu] (16:00) マルマラ海越しに見える対岸は、ウスクダラ地区。 「帝王の門」 から 「中門」 までが、宮廷の第一の中庭 ![]() 「東」MAPLay. 1 m |
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ハギア・イレーネ聖堂 [Aya İrini] / 聖イレーネ博物館![]() アヤソフィア博物館同様、 聖イレーネ博物館 はもとは教会で、イスタンブールに建てられた最初の教会だった。 4世紀にコンスタンチヌス帝が建築を命じ建てられたハギア・イレーネは、532年に焼失し、後にユスチニアヌス帝によって再建された。 その後、740年に地震で損傷を受け、コンスタンティノス5世によって修復されている。 この建物は、キリスト教以前の寺院の敷地跡に建っている。 現在は、コンサートホールとして使われている。 「北西」MAPLay. 1 n |
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第一の中庭 [I. Avlu] 左下の建物は、ハギア・イレーネ聖堂。 前方の門は、挨拶の門。 (撮影年不明) 出典:istanbulium.net |
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挨拶の門 [Bâb-üs Selâm Kapısı] / 中門 [Orta Kapı]![]() 左右をとがった塔で飾られた 「挨拶の門」 は 「中門」 とも呼ばれ、トプカプト宮殿本体の入口と言える。 この門は、外廷の職員で、スルタンに直属の、門衛長と門衛たちによって、守られていた。 中門から中には、特に許された者のみが、入ることが出来た。 普通は下馬せねばならない 「帝王の門」 を、騎乗して入る特権を与えられた大官貴顕たちも、中門の前で、下馬せねばならなかった。 中門を馬に乗ったままで通過することは、スルタンの特権であった。 「北北東」MAPLay. 1 o |
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挨拶の門 [Bâb-üs Selâm Kapısı] (1855年) 出典:Eski İstanbul Fotoğrafları Arşivi |
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挨拶の門 [Bâb-üs Selâm Kapısı] / 中門 [Orta Kapı]![]() 第二の城壁で囲まれた部分が、トプカプト宮殿の本体を成す。 この城壁の門が 「挨拶の門」 、ないしは単に 「中門」 と呼ばれ、宮殿の本体は、外廷 [Birun] 、内廷 [ Enderun] 、後宮 [Harem] の3つの部分から構成されていた。 (下図参照) 「北北東」MAPLay. 1 p |
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色分けされた3つの構成部分は、建築構造上の構成部分であると同時に、宮廷の組織の構成部分ともなっていた。 外廷は宮殿の構造的外郭であるとともに、国政の場でもあった。 これに対し、内廷と後宮は、ともにスルタンの私的生活の場であり、内廷は男性の居所であるのに対し、後宮は女性の居所であった。 |
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第二の中庭 [II. Avlu ]![]() この中庭では、様々の宮廷の儀礼が行われたため、議会広場 [Divan Meydanı] とも呼ばれていた。 「北北東」MAPLay. 1 q |
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スルタンの台所 [Matbah-ı Amire]![]() 木立の向こうにある建物は、トプカプト宮殿全体の職員たちの台所 ![]() ![]() 「東南東」MAPLay. 1 q |
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協議会 [Divan]![]() この塔の下には、オスマン帝国の国政の中心である御前会議のための会議場と、国政関係の諸施設が位置していた。 「北」MAPLay. 1 r |
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正義の塔 [Adalet Kulesi]/[Divan Kulesi]![]() この塔の下には、オスマン帝国の国政の中心である御前会議のための会議場と、国政関係の諸施設が位置していた。 「北北東」MAPLay. 1 s |
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正義の塔 [Adalet Kulesi]/[Divan Kulesi]![]() この塔の下には、オスマン帝国の国政の中心である御前会議のための会議場と、国政関係の諸施設が位置していた。 「北北東」MAPLay. 1 t |
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ハレムの入口 (車門)![]() 厳重に隔離されたハレムと外界をつなぐ門は、三つあった。 その一つは、「ドーム下の間」 の西隣にある車門 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「北」MAPLay. 1 u |
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黒人宦官*の像 (16:20) * 宦官 (カンガン) は、 去勢を施された官吏。 |
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Harem Topkapi Palace plan 参考資料:Wikimedia Commons |
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ハレムの黒人宦官*の中庭 [Harem Ağları Taşlığı]![]() ハレムは、スルタンの妻妾や子供達の居住区で、部屋数は400ほどの施設だった。 現在公開されているのは、1階のみで、その中でも保存状態のよい部屋のみ。 壁は組積造で、タイルや大理石を貼っているが、天井や2階の床は木造で造られている。 特に、壁全面を飾る装飾タイルは絶品ばかりで、オスマン帝国のタイル芸術の粋を集めた建物となっている。 中央に見える塔は、正義の塔 [Adalet Kulesi] 。 「南南西」MAPLay. 1 v * 宦官 (カンガン) は、 去勢を施された官吏。 |
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ハレムの黒人宦官*の中庭 [Harem Ağları Taşlığı]![]() ハレムは、スルタンの妻妾や子供達の居住区で、部屋数は400ほどの施設だった。 現在公開されているのは、1階のみで、その中でも保存状態のよい部屋のみ。 壁は組積造で、タイルや大理石を貼っているが、天井や2階の床は木造で造られている。 特に、壁全面を飾る装飾タイルは絶品ばかりで、オスマン帝国のタイル芸術の粋を集めた建物となっている。 中央に見える塔は、正義の塔 [Adalet Kulesi] 。 「南南西」MAPLay. 1 v * 宦官 (カンガン) は、 去勢を施された官吏。 |
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ハレムの黒人宦官*の中庭 [Harem Ağları Taşlığı]![]() 宦官として黒人が選ばれた理由は、去勢が不十分で、もし子供が出来た場合でも皮膚の色で識別出来る利点があった。 「南西」MAPLay. 1 v * 宦官 (カンガン) は、 去勢を施された官吏。 |
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ハレムの玄関 [Harem Cümle Kapısı]![]() この鏡は、18世紀ヴィクトリア女王によって贈られた。 ここには、台が置かれていて、調理場から運ばれてきた食事が、ここで分配されていた。 スルタンとスルタンの家族以外は、全て同じ食事を摂っていた。 右手の出入り口は、皇太后の中庭への出入り口。 「北西」MAPLay. 1 w |
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ハレムの玄関 [Harem Cümle Kapısı]![]() この鏡は、18世紀ヴィクトリア女王によって贈られた。 ここには、台が置かれていて、調理場から運ばれてきた食事が、ここで分配されていた。 スルタンとスルタンの家族以外は、全て同じ食事を摂っていた。 右手の出入り口は、黒人宦官の中庭に通じている。 「南東」MAPLay. 1 w |
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女奴隷の中庭 [Cariyeler Taşlığı]![]() ハレムはスルタンが変わる度に、ハレムも女官の数も変わり、女官の数は、少ない時で300人、多い時は1500人くらい居た。 スルタンが亡くなると、定年になり、それまで稼いだお金を元手にスルタンの家来と結婚し、ハレムを出て行くのが一般的であった。 庭に面して女官たちの部屋があり、女官たちは掃除や洗濯などの仕事をしていた。 また、 ここには、女官たちの ハマム (浴場) [Hamam] もある。 「南西」MAPLay. 1 x |
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女奴隷の中庭 [Cariyeler Taşlığı]![]() スルタンに世継ぎが生まれると、一人を世継ぎとして指名した後、もう一人を予備としてを残し、残る男児は全て殺された。 予備として残された男児も、反乱を避けるため、隔離された状態に置かれた。 一見、残酷に見えるが、治世のため方便であった。 「南西」MAPLay. 1 x |
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女奴隷の中庭 [Cariyeler Taşlığı]![]() 女官の中には、スルタンに振り向いてもらえず、恨みからスルタンを殺害する女官もいた。 そのため、防備が一番手薄になる浴室は鉄柵で囲まれていた。 ハレムには、多くの国から女性が集まり、他国の文化や言語が集まる教育の場として役立っていた。 女性たちはハレムで教育を受け、そのうち、スルタンの寵をうけたものと、彼女たちへの奉仕者に二分された。 教育を受けた女性たちは王子を教育し、育てていった。 勿論、王子を教育するための学者もいたが、女性たちは、主に礼儀や他国語を教えていた。 そのため、スルタンは数カ国語を話すことが出来た。 因みに、スルタンが肉体関係をもつ相手は、スルタンの母親が決めていた。 「南」MAPLay. 1 x |
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ヴァーリデ・スルタンの暖炉![]() スルタンの母親の居間 [Valide Sultan Dairesi] への、回廊に設けられた暖炉。 右手に見える通路を行くと、スルタンの母親の居間がある。 ハレムはスルタンの母親が支配しており、回廊にまで暖炉が設けられている。 「西」MAPLay. 1 y |
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スルタンの母親の間 [Valide Sultan Dairesi]![]() ヴァーリデ・スルタンの居間。 「東北東」MAPLay. 1 z |
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スルタンの母親の間 [Valide Sultan Dairesi]![]() ヴァーリデ・スルタンの居間。 一段高くなった所に食事のための部屋がある。 MAPLay. 1 z |
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スルタンの母親の中庭 [Valide Sultan Taşlığı]![]() ヴァーリデ・スルタンの中庭。 「北北東」MAPLay. 2 A |
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ハレムの会議室/暖炉のある部屋 [Harem-i Hümâyûn / Hall with the Hearth]![]() この部屋は、スルタンの寵をうけた女性や、スルタンの妹のなど、身分の高い女性達の会議室。 壁面の傘の様な設備は、暖炉の上部、右側壁の黒っぽい設備は噴水の上部。 この部屋の右手 (南東) にスルタンの寵をうけた女御 [Kadın Efendi] たちの居住区 [Kadın Efendi Daireleri] がある。 「北東」MAPLay. 2 B |
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ムラト3世の部屋 [III. Murad Has Odası]![]() 壁に沢山ある、お椀を伏せたような凹みは、オイル・ランプを置くところで、真っ暗の中、灯りを灯すと、ベッドルームはロマンチックな雰囲気に包まれた。 「北」MAPLay. 2 C |
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ムラト3世の部屋 [III. Murad Has Odası]![]() この水場は、音響効果を目的に設けられたもので、嘗ては、水の滴り落ちる音を楽しむと、同時に外部への会話の漏洩を防いでいた。 「西南西」MAPLay. 2 C |
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ムラト3世の部屋 [III. Murad Has Odası]![]() 真ん中には暖炉、その左右にベッドが設えられている。 この部屋はとても音響効果がよいく、手を叩くと大きく反響する。 「東」MAPLay. 2 C |
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対の東屋 [Çifte Kasirlar] / 鳥かご [Kafes]![]() 似た構造の2部屋が、連なっている一角で、鳥かご [Kafes] とも呼ばれている。 オスマン朝の王子たちは、16世紀末まで、幼年期には後宮で暮らしたが、10代半ばになると、傳育掛に伴われて地方に知事として赴き、帝王学を学んだ。 こりは有能な後継者養成に役立ったが、後継者争いの激化をもたらし、16世紀末に廃止された。 以後王子たちは、後宮の 「鳥かご」 と呼ばれる一画に幽閉された状態で、教育を受けるようになり、ほぼ年長者順にスルタンに擁立されるようになった。 このため、兄弟間の皇位争いの戦争はなくなった。 しかし、後宮の女人と宦官のみに囲まれた不安な幽囚生活は、帝王学と正反対の結果を生み、精神に異常を来すスルタンさえ現れた。 オスマン朝では、第4代皇帝(在位: 1389年 - 1402年)バヤズィット1世時代以来、新スルタンが即位すると、その兄弟は皆処刑される慣行が成立していた。 「北東」MAPLay. 2 D |
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対の東屋 [Çifte Kasirlar / Twin Kiosk*]![]() スルタンの母親になれば、絶大な権力を得る事が出来るため、スルタン位を何としても我が子に確保しようと、妃たちの間で争いが生じた。 とりわけ熾烈となってのは、スレイマン の世継ぎの地位をめぐる妃たちの争いで、マヒデヴラン と ヒュッレム の二人の女人は激しく争った。 奴隷として スレイマン1世 に献上された ヒュッレム は、すぐに主人である スレイマン1世 の注意を惹いて、スレイマン の第2側室となった。 この時点で ヒュッレム にとっての敵は、スレイマン1世 の母后 と第1側室 マヒデヴラン 及び ヒュッレム の最初の所有者であったといわれる大宰相 イブラヒム・パシャ の3人であった。1534年 スレイマン1世 の母后が死去すると マヒデヴラン は ヒュッレム の陰謀によって スレイマン の不興を買い、息子の ムスタファ と共に宮殿を追われた。 イブラヒム・パシャ も処刑された。 その結果、ヒュッレム はもはやライバルがいなくなった スレイマン の皇后としての地位を得た。 「北北東」MAPLay. 2 E * 売店などをさして用いられる Kiosk (キオスク) は、トルコ語の キョシュク [Köşkü] (四阿、東屋) が語源。 |
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対の東屋 [Çifte Kasirlar / Twin Kiosk*]![]() ヒュッレム は スレイマン1世 との間に儲けた5人の皇子たち "メフメト" 、 "アブドゥラー" 、 "セリム" 、 "バヤズィト" 、 "ジハンギル" のうち、早世した アブドゥラー を除く4人の皇子たちのいずれかを次期スルタンとするべく策動したといわれている。 一時は長男の メフメト が有力となったが1543年に天然痘に罹って早世し、マヒデヴラン の子 ムスタファ が再び有力となった。 しかし、ムスタファ は1553年にイラン遠征軍の陣中で突然処刑された。 スレイマン1世は ムスタファ の子や側近も処刑した。 「北北東」MAPLay. 2 E * 売店などをさして用いられる Kiosk (キオスク) は、トルコ語の キョシュク [Köşkü] (四阿、東屋) が語源。 |
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対の東屋 [Çifte Kasirlar / Twin Kiosk*]![]() ムスタファ の処刑により、スレイマン1世 の後継候補は ヒュッレム が産んだ3人の男子に絞られたが、このうち、ジハンギル は ムスタファ が処刑された直後に死亡した。 残る セリム と バヤズィト のうち、ヒュッレム はより有能な バヤズィト の即位を望んでいたとされるが、いずれが後継者となるかを見届けることなく、1558年4月18日に死去した。 「北西」MAPLay. 2 E * 売店などをさして用いられる Kiosk (キオスク) は、トルコ語の キョシュク [Köşkü] (四阿、東屋) が語源。 |
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対の東屋 [Çifte Kasirlar / Twin Kiosk*]![]() セリム と バヤズィト の衝突を辛うじて抑えていた ヒュッレム の死後、両者の後継争いは激化し、スレイマン1世の支持を受けた セリム が勝利を収めた。 スレイマン1世の死後スルタンに即位した セリム は国家の運営を官人に任せきりにし、「バーブ・ウッサーデ (至福の家)」 と呼ばれる館で酒と女に溺れる日々を過ごした。 セリム2世 以降、オスマン帝国の国家運営は官人による支配にスルタンが従う形で行われるようになった。 「南」MAPLay. 2 E * 売店などをさして用いられる Kiosk (キオスク) は、トルコ語の キョシュク [Köşkü] (四阿、東屋) が語源。 |
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対の東屋 [Çifte Kasirlar] / 鳥かご [Kafes]![]() オスマン朝の王子たちは、16世紀末まで、幼年期には後宮で暮らしたが、10代半ばになると、傳育掛に伴われて地方に知事として赴き、帝王学を学んだ。 こりは有能な後継者養成に役立ったが、後継者争いの激化をもたらし、16世紀末に廃止された。 以後王子たちは、後宮の 「鳥かご」 と呼ばれる一画に幽閉された状態で、教育を受けるようになり、ほぼ年長者順にスルタンに擁立されるようになった。 このため、兄弟間の皇位争いの戦争はなくなった。 しかし、後宮の女人と宦官のみに囲まれた不安な幽囚生活は、帝王学と正反対の結果を生み、精神に異常を来すスルタンさえ現れた。 オスマン朝では、第4代皇帝(在位: 1389年 - 1402年)バヤズィット1世時代以来、新スルタンが即位すると、その兄弟は皆処刑される慣行が成立していた。 「西」MAPLay. 2 F |
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妾の居室と境の間の中庭 [Gözdeler Dairesi ve Mabeyn Taşlığı]![]() ギョズデ [Gözde] は、お目をかけられた者を意味し、Dairesi はアパート様の区画された居室を意味する。 Mabeyn は "~の間" を意味するアラビア語の Mabeyin [مابين] から変化したもので、内廷とハレムの境にある部屋の名前として使われている。 Taşlığı は中庭を意味し、この中庭は、"Mabeyn Taşlığı" 又は、"Gözdeler Taşlığı" とも呼ばれる。 建物の左端は、"境の間" [Mabeyn] で、その右には、スルタンお好みの女性を住まわせた "Gözdeler Dairesi" が連なっている。 スルタンは、公務の無い時、私室に仕える小姓たちに近侍されながら、"境の間" で過ごすことが多かった。 気が向けば中庭に下り散策した。 「北東」MAPLay. 2 F |
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妾の居室と境の間の中庭 [Gözdeler Dairesi ve Mabeyn Taşlığı]![]() 前方の建物は、"スルタンお好みの女性を住まわせた部屋" [Gözdeler Dairesi] で、その前面には "境の間の中庭" [Mabeyn Taşlığı] が広がっている。 また、この建物の中には "黄金の道" [Altın yol] と呼ばれる長い廊下があり、内廷からハレムへの、スルタンお成りの正式な道の一部になっている。 オスマン朝の支配者は、古くはビザンチンの皇女をはじめ、近隣の王侯家から正式の妻を迎えた。 しかし、バヤズィト2世 (在位:1481年 - 1512年) がカラマン君侯の息女と結婚した後は、近隣に適当な通婚相手もなくなり、この慣行は廃れた。 その後のスルタンは、殆ど専ら女奴隷とのみ交渉をもち、正妻をもうけなかった。 女奴隷をイスラム法上の正妻と認めたのは、ヒュッレムと正式に婚姻したと伝えられるスレイマン大帝のみと思われる。 「南東」MAPLay. 2 F 内廷からハレムへの、スルタンお成りの正式な道は、「境の間」 ![]() ![]() ![]() |
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プール [Havuz]![]() ハレムの女性たちが水浴したプール。 「北西」MAPLay. 2 G |
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Mabeyn Taşlığı / Gözdeler Taşlığ![]() 左の建物は手前から、鳥かご [Kafes] 、ムラト3世の部屋 [III. Murad Has Odası] 。 下の手前は、ハレムの女性たちが水浴したプール。 その向こうはハレムの庭。 「西北西」MAPLay. 2 G |
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Topkapı Sarayı- Arslanhane![]() 中央の平屋の建物は、ライオンの家 [Arslanhane] と呼ばれ、牢屋として使用されていた。 罪を犯した女性やスルタンの予備が投獄されていた。 スルタンの予備は、スルタンが予期せず死んだり、子供が出来ない場合のための後釜で、必要がなくなれば処刑された。 42年間ここに幽閉された後に、スルタンになった "イブラヒム" は、精神を病み 「狂人イブラヒム」 とまで言われるようになった。 手前は、ハレムの女性たちが水浴したプール。 「北西」MAPLay. 2 G |
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Mecidiye Köşkü* のテラスからの眺め (16:45) 「南東」MAPLay. 2 H * 売店などをさして用いられる Kiosk (キオスク) は、トルコ語の キョシュク [Köşkü] (四阿、東屋) が語源。 |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:45) 「東南東」MAPLay. 2 H |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:45) 「東北東」MAPLay. 2 H |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:46) 「北東」MAPLay. 2 I |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:47) 「東北東」MAPLay. 2 I |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:47) 「東」MAPLay. 2 I |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:47) 「東南東」MAPLay. 2 I |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:47) 「南東」MAPLay. 2 I |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:47) 「南南東」MAPLay. 2 I |
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Mecidiye Köşkü* のテラスからの眺め (16:47) 「東北東」MAPLay. 2 J * 売店などをさして用いられる Kiosk (キオスク) は、トルコ語の キョシュク [Köşkü] (四阿、東屋) が語源。 |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:48) 「東北東」MAPLay. 2 J |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:48) 「東北東」MAPLay. 2 J |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:48) 「東」MAPLay. 2 J |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:48) 「北東」MAPLay. 2 J |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:49) 「南東」MAPLay. 2 K |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:49) 「東南東」MAPLay. 2 K |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:49) 「東」MAPLay. 2 K |
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Mecidiye Köşkü* のテラスからの眺め (16:50) 「北東」MAPLay. 2 K * 売店などをさして用いられる Kiosk (キオスク) は、トルコ語の キョシュク [Köşkü] (四阿、東屋) が語源。 |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:50) 「東南東」MAPLay. 2 K |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:50) 「北東」MAPLay. 2 K |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:51) 「東北東」MAPLay. 2 K |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:51) 「東」MAPLay. 2 K |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:52) 「南南西」MAPLay. 2 K |
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Mecidiye Köşkü* のテラスからの眺め (16:52) 「南」MAPLay. 2 K * 売店などをさして用いられる Kiosk (キオスク) は、トルコ語の キョシュク [Köşkü] (四阿、東屋) が語源。 |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:56) 「北東」MAPLay. 2 K |
Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (16:57) 「南東」MAPLay. 2 K |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (17:08) 「北東」MAPLay. 2 J |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (17:08) 「東北東」MAPLay. 2 J |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (17:08) 「東北東」MAPLay. 2 J |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (17:08) 「東」MAPLay. 2 J |
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Mecidiye Köşkü* のテラスからの眺め (17:11) 「北北東」MAPLay. 2 K * 売店などをさして用いられる Kiosk (キオスク) は、トルコ語の キョシュク [Köşkü] (四阿、東屋) が語源。 |
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Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (17:12) 「南東」MAPLay. 2 K |
Mecidiye Köşkü のテラスからの眺め (17:14) 「東北東」MAPLay. 2 J |
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第四中庭からの眺め (17:15) 右の建物は、Imperial Sofa Camii 。 「南東」MAPLay. 2 L |
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第四中庭からの眺め (17:15) 「東南東」MAPLay. 2 M |
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宝物館 [Hazine Müzesi] (17:18) 「南」MAPLay. 2 N |
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宝物館の北東端にある展望室? 「東北東」MAPLay. 2 O |
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宝物館の北東端にある展望室? (17:28) 「東北東」MAPLay. 2 O |
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展望室?からの眺め (17:30) 左前方の建物は、Mecidiye Köşkü。 左手前の建物は、Imperial Sofa Camii 。 「北北東」MAPLay. 2 O |
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展望室?からの眺め (17:31) 左前方の建物は、Mecidiye Köşkü。 左手前の建物は、Imperial Sofa Camii 。 「北北東」MAPLay. 2 O |
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至福の門 [Bab-üs saade] (17:51) 外廷と内廷の境にある門で、この門をこえて中に進み得る者は、ごく限られていた。 この門の内側 (写真では向こう側) には、謁見の間がある。 ここでスルタンは、大宰相をはじめ、政府高官から上奏をうけた。 諸外国の大使たちも、ここで謁見した。 謁見の際には、大使たちは、玉座に座したスルタンの前にひれ伏し、その服の裾に接吻させられた。 「北北東」MAPLay. 2 P |
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内側 (外廷) から見た、挨拶の門 [Bâb-üs Selâm Kapısı] (17:53) 「南西」MAPLay. 2 Q |
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第一の中庭 [I. Avlu] (17:54) 「南南西」MAPLay. 2 R |
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アヤ・ソフィア博物館 [Ayasofya Müzesi] (18:04) 「北北東」MAPLay. 2 S |
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アヤ・ソフィア博物館 [Ayasofya Müzesi] (18:04) 「北東」MAPLay. 2 T |
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イスタンブール駅 [İstanbul Gar] (18:09) 中央の薄紅色の建物は、シルケジ駅の西ゲート。 「北東」MAPLay. 2 U |
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夕食のレストラン "Mercan Restaurant" (19:34) トルコ最後の夕食を終えアタティルク国際空港へ向かう。 「西北西」MAPLay. 2 V |
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アタティルク国際空港 [Atatürk Havalimanı] (19:58) 「西北西」MAPLay. 2 W |
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アタティルク国際空港 [Atatürk Havalimanı] (20:02) 「南東」MAPLay. 2 X |