アルハンブラ (アランブラ) *1宮殿「赤い城」 [Palacio de la Alhambra] 1232年、アンダルスの支配者の一人、ムハンマド・イブン・ユースフ・イブン・ナスル(アル・アフマール)は王を名乗り、1238年にグラナダ (石榴を意味する) *2に王国(ナスル朝)を建国した(ムハンマド1世)。 この頃、イスラム教徒の本拠地だったコルドバとセビーリャが陥落し、レコンキスタ (国土回復運動) が完了しつつあるという時代であった。 1246年、ムハンマドは脆弱な国家の基盤を整えるため、仇敵フェルナンド3世と条約を結び、カスティーリャ王国に服属して貢納する代わりに、グラナダ、マラガ、アルメリアを保有することを許された。ナスル朝グラナダ王国は、イベリア半島における最後のイスラム王朝として約250年間存続し、経済・文化が繁栄した。 アルハンブラ宮殿は、ナスル朝時代に建てられたもので、イスラム建築の傑作と評価されている。 宮殿は、都を見下ろす丘の上にあり、初代王の没後も歴代王によって建設が進められ、ユースフ・アブール・ハジーグ (第7代グラナダ王ユースフ1世) の世になってようやく完成した。この時代、アルハンブラ城内にはモーロ人貴族を中心に2000人以上の人々が暮らし、市場、モスク、住宅街が整備され、貴族の宮殿は7つを数えたと言われている。 なかでもナスル朝宮殿は、スタッコ (化粧漆喰) の装飾、タイルアート、鍾乳石飾りを施した丸天井、木製の格子窓など、洗練された芸術性を駆使した宮殿はイスラム芸術の結晶だった。外見は無骨だが一歩中に入れば幻想世界が展開する、あまりの美しさに「王は魔法を使って宮殿を完成させた」とさえいわれた。 しかし、15世紀末にカスティーリャ王国とアラゴン王国が連合王国となると、ナスル朝支配地への征服が始まり、1492年1月2日、もはやレコンキスタの勢いに抗しきれないと判断した最後の王ボアブディルはカスティーリャ王フェルナンド (アラゴン王) とイサベル1世 (カスティーリャ女王) に降伏し、城を明け渡した。その後、18世紀の王位継承戦争やナポレオン戦争を経て、アルハンブラは荒れ果ててしまったが、19世紀の米国人作家ワシントン・アービングの『アルハンブラ物語』によって再び世界の注目を集めるようになった。 *1 スペイン語表記ではAlhambraと綴り、「アランブラ」と発音する。「アルハンブラ」とは、 アラビア語で、赤いものを意味する「アル・ハムーラ」が語源と言われている。 *2 アラビア語の石榴 (ざくろ) を意味する言葉が語源と言われている。 (建物が密集した街の外観が、割れた石榴に似ていることから。) ![]() ギター演奏 (村治佳織) ![]() ![]() |
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アルハンブラ宮殿、車両の門 [Puerta de los Carros] (11:19) かつて、"七階の塔 [La Torre de los Siete Suelos] "*1の真ん中にあった言われるアルハンブラ宮殿の大正門は、スペインのドン・フェルナンド王に降伏した際、自らアルハンブラの城門から出、都と王国を明け渡した際、チコ王 (ボアブディル王) は、この城門は以降永久に閉じて欲しいと懇望した。当時の年代記によれば、彼の願はイサベル女王の恩情によって叶えられた。一説によれば、フェルナンド王はこの願いを受け入れ、当城門は以後再び開かれなかったのみならず、そばに頑丈な稜堡を築いたと言われている。その後、19世紀初頭ナポレオンの兄ジョゼフが国王に就いたが、それを認めない民衆が反乱を起こし、その結果、フランス軍は撤退*2せざるを得なくなる。 その際、城門は爆破され、現在では瓦礫の山になっている。 そのため、宮殿への入場は、この"車両の門"または"裁きの門"が入場口となっている。 「北西方向」MAP Lay. 1 O *1 かつて、宮殿の大正門があったと言われる"七階の塔" (MAP) *2 スペインは1808年~14年の間、フランスの支配下にあったが、独立戦争の結果、ナポレオンはスペインとイギリスの連合軍によって追放されることになる。 この間、アルハンブラはフランス軍の駐屯地になっており、宮殿は時折、軍事司令官の宿舎として使用されていた。 しかし撤退の際は、戦時の要塞の機能を奪い去るのが目的で、"外部城壁の塔"のいくつかを破壊して立ち去った。 |
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車両の門 [Puerta de los Carros] の直下から宮殿側を望む (11.20) 「北西方向」MAPLay. 1 O |
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サンタ・マリア教会 (聖母教会) [Iglesia de Santa Maria] (11.20) モスク [Mosque] のあった場所に、カルロス5世宮殿の一部として建てられた教会で、グラナダでは珍しいルネッサンス様式の教会。 「北東方向」MAPLay. 1 P |
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砲台の列 (11.22) 「西北西方向」MAPLay. 1 Q |
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砲台 (11.22) 「南南西方向」MAPLay. 1 Q |
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この塔の下に「裁きの門」 [Puerta de la Justicia] がある (11:22) ユースフが起工し、1348年に完成させた城塞の大正門*1で、イスラム教徒の統治時代、ここの柱廊で法廷が開かれ、民事訴訟関係の即決裁判が行われていたことからそう呼ばれている。 「南西方向」MAPLay. 1 R *1 アルハンブラ宮殿の大正門ではなく、城塞の大正門。 宮殿の大正門は「七階の塔」(MAP) にあったと言われている。 |
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カルロス5世宮殿 [Palacio de CarlosV] (11:26) アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世がグラナダをアラブ人から取り返した際、ムーア様式のアルハンブラ宮殿をそのまま自分たちの住まいにしたが、逗留はほんのわずかな期間に過ぎなかった。その後、彼らの孫の神聖ローマ皇帝カルロス5世はメキシコやペルーの植民地も継承したため、アメリカ大陸からスペインに向けて多量の金塊が流出するようになった。 王位に就いて以来ずっとグラナダに住んでいたカルロス5世は、1526年、気に入っていたアルハンブラ宮殿の横に「皇帝の権威にふさわしい宮殿」を建てた。しかし資金難から建設は中断され、カルロス5世はここには一度も滞在していない。屋根が付いたのは18世紀なってからだという。 「北北東方向」MAPLay. 1 S |
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カルロス5世宮殿 [Palacio de CarlosV] の南壁 (11:26) 1階部分の外壁はルスティカ仕上げ (重厚な石積み) になっている。 「東南東方向」MAPLay. 1 S |
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ビーノの門 [Puerta de Vino] (ブドウ酒の門) (11:26) 門の向こう側は軍事要塞アルカサバ、手前側はナスル朝宮殿を中心とする住宅街。 他の城門には装飾がないが、この門だけはアラベスク模様で 飾られている。 「西方向」MAPLay. 1 S |
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カルロス5世宮殿 [Palacio de CarlosV] の入口 (11:29) 「北東方向」MAPLay. 1 T |
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カルロス5世宮殿 [Palacio de CarlosV] の円形中庭 (11:30) 直径44mの円形の中庭では、ドーリア式 (1階) とイオニア式 (2階) の石柱が2段構造になっている。 MAPLay. 1 U |
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カルロス5世宮殿 [Palacio de CarlosV] の円形中庭 (11:30) MAPLay. 1 U |
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カルロス5世宮殿 [Palacio de CarlosV] の円形中庭 (11:32) 直径44mの円形の中庭では、ドーリア式 (1階部分) とイオニア式 (2階部分) の石柱が2段構造になっている。 MAPLay. 1 U |
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カルロス5世宮殿 [Palacio de CarlosV] の円形中庭 (11:32) MAPLay. 1 U |
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カルロス5世宮殿 [Palacio de CarlosV] (11:34) 王宮の傍らにある、イスラム建築とは異なるルネッサンス様式の宮殿で、四角い建物の内部に円形の中庭がある。 宮殿は63m四方の敷地に建てられ、1階部分はルスティカ仕上げ (重厚な石積み) とドーリア式付け柱、2階部分はイオニア式半柱や円形、多角形の採光窓を交互に並べた洗練された造りとなっている。 「南南東方向」MAPLay. 1 V |
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アルカサバ [Alcazaba] (城塞) (11:35) 「北西方向」MAPLay. 1 V |
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水槽の広場 (アルヒーベス広場) [Plaza de los Aljibes] (11.36) この広場の地下には、要塞に水を確保いるために、モーロ人が自然の岩盤を刳り貫いて造った大貯水槽があり、ダロ川*から導水渠によつて導いた水をここに蓄えていた。 また広場の片隅に、岩盤を深々と掘り抜いたモーロ式の井戸があり、そこから汲み上げる水は、氷のように冷たく澄み切っていたと言われている。 中央に小さく見える門は、アルカサバ (城塞) の塔門 [Gate of Alcazaba] 。 「北西方向」MAPLay. 1 V * ダロ川 [Río Darro] MAP |
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マチュカの庭園 [Patio de Machuca] へ向かう (11:36) 「北方向」MAPLay. 1 W |
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マチュカの庭園 [Patio de Machuca] 入口 (11:36) 「北方向」MAPLay. 1 W |
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マチュカの庭園 [Patio de Machuca] を経由してナスル朝宮殿 [Palacios Nazaries] へ向かう (11:37)
「東方向」MAPLay. 1 X |
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マチュカの庭園 [Patio de Machuca] (11:38) 「北方向」MAPLay. 1 X |
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マチュカの庭園 [Patio de Machuca] (11:38) 「北方向」MAPLay. 1 X |
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マチュカの庭園 [Patio de Machuca] (11:38) 右端に見える小さな門が、ナスル朝宮殿 [Palacios Nazaries] への入口。 「東方向」MAPLay. 1 X |
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マチュカの庭園 [Patio de Machuca] (11:38) 「北方向」MAPLay. 1 X |
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マチュカの庭園 [Patio de Machuca] (11:38) 「北方向」MAPLay. 1 X |
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マチュカの庭園 [Patio de Machuca] 、中央の大きな建物はアルカサバ (城塞) (11:38) 左の塔はケブラーダの塔 [Torre Quebrada] (折れた、壊れた塔) 、右の塔はオメナーヘの塔 [Torre del homenaje] (臣従の塔) 。 「西方向」MAPLay. 1 X |
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マチュカの庭園 [Patio de Machuca] (11:39) 「北西方向」MAPLay. 1 X |
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ナスル朝宮殿 [Palacios Nazaries] への入口からマチュカの庭園 [Patio de Machuca] を望む (11:40)
「西北西方向」MAPLay. 1 Y |
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ナスル朝宮殿 [Palacios Nazaries] の入り口 (11:40) カルロス5世宮殿を築くため、そこにあった多くの建物を取り壊し、同時にモーロ人が築いた宮殿の大玄関が遮断されたため、宮殿へは、片隅にてきた簡素ない入口から入らざるを得なくなっている。 「北方向」MAPLay. 1 Z |
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ナスル朝宮殿 [Palacios Nazaries] の入り口 (11:41) 入口はスタッコ細工 (石膏をいろいろな鋳型に流し込んで作った多種多様な模様の石膏板を精緻に組み合わせ、つなぎ合わせたもの) をもちいたアラベスク模様で飾られている。 「北方向」MAPLay. 1 Z |