旅の栞(ドイツ)
7月11日
ケルン( Köln) ~ ドルトムントで昼食
ブレーメン(Bremen) ハンブルグ(Hamburg)

2024年5月31日(金)10:00をもちましてURLは下記の通り変更になります。
https://arisada.wjg.jp/deutschland/newpage2.html

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メルキュール・ホテル (ケルン) → ケルン大聖堂 [Kölner Dom]
ケルン大聖堂 [Kölner Dom] が中世において大きな尊敬を受けたのは、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世「赤髭王」が、イタリア遠征により、ミラノから1164年にもちかえった、聖遺物「東方三博士の骨」のおかげである。 この特別に貴重な聖遺物のために黄金の聖遺物箱が制作され、聖遺物とその箱は多くの巡礼を集めた。 いっぽう、当時人口3万を擁するドイツ最大の都市であったケルンは、毛織物を中心とした交易で隆盛をきわめていた。 このような状況のもと、カロリング朝以来の古い大聖堂 を建て替える気運が高まったのは、当然のことで、1247年に再建が決定され、翌年、内陣から工事がはじまった。 建築家ゲルハルトの設計した大聖堂は、フランスのアミアン大聖堂を手本としたものだが、規模においてそれをしのぐものであった。 しかし工事は順調にすすまず、1320年に内陣を完成したものの、これ以降は資金難に陥り、1560年、内陣を除く大部分が未完成のまま工事は完全に停止してしまった。 以後3世紀のあいだ、南塔に据えられたままの巨大なクレーンが、ケルンのランドマークとなっていた。 1814年にケルン大聖堂の中世の図面の一部がゲオルグ・モラーによって発見されたのが契機となり、同じ年の11月、当時有名なジャーナリストであつた歴史学者ヨセフ・ゲレスは、自ら創刊した新聞においてケルン大聖堂を賛美し、その完成を熱望する感動的な呼びかけをおこなった。 ゲーテがこれに賛同し、全ドイツが大聖堂の完成に関心を向けた。 ケルン大聖堂の完成は、ナポレオンの支配からの解放と、モザイクのように分断されていた祖国統一のシンボルとなった。 1842年に工事が再開され、1880年、ドイツ国民すベての愛国心の象徴として大聖堂は完成した。
(ケルン大聖堂は、1996年にユネスコ世界遺産に登録されている。)

ヴァイオリン協奏曲 第1番 第3楽章
メルキュール ホテル (07:23)
MAPLay. A
メルキュール ホテル (07:37)
「西」MAPLay. A
メルキュール ホテル (07:38)
「南南西」MAPLay. A
メルキュール ホテル (07:39)
「南南西」MAPLay. A
メルキュール ホテル ゼフェリンズホーフ ケルン [Mercure Hotel Severinshof Koeln City]
ケルン大聖堂 [Kölner Dom] (08:38)
マルツェレン通り [Marzellenstraße] と コメーディエン通り [Komödienstraße] の交差点からの撮影。
  870年にこの地に最初の聖堂が完成する以前に、数軒の教会が建造されては壊された。 現在のような巨大なゴシック様式の大聖堂が必要とされたのは、東方三博士の棺を見たいと訪れる巡礼者が次から次へと、引きも切らず押し寄せたからである。
「南東」MAPLay. A
ケルン大聖堂の見取図
ケルン大聖堂 [Kölner Dom] (08:40)
ホフナー枢機卿広場* [Kardinal-Höffner-Platz] からの撮影。 右に見える彫刻は、フィニアルとも呼ばれるケルン大聖堂の尖塔に立っている彫刻をコピーしたもので、上から見ると四角形で、横から見ると十字架に見えることから "ケルン大聖堂の十字架の花 [Kreuzblumen des Kölner Domes] " と呼ばれている。 1991年以来、大聖堂の西側正面に立っている。
「東南東」MAPLay. A

枢機卿Joseph Höffner にちなんで名付けられた広場。
西暦50年にローマ植民地設立時に建てられた北門を説明したプレート (08:41)
Side portal of the Roman north gate of CCAA
The Roman north gate built when the colony was
founded in 50 AD. The outer side of the cental archway
bore the city's name: CCAA Colonia Claudia Ara
Agrippinensium. One of the side portals was rebuilt in
1971 above the visibly preserved remains of the Roman
City gate and wall.

CCAAのローマ北ゲートの側門
ローマの北ゲートは、植民地が紀元50年に設立されたときに建てられた。
中央のアーチの外側には市の名前が彫られていた:CCAA (Colonia Claudia Ara Agrippinensium)
中央アーチの左右にあった側門の一つは、保存状態の良いローマの遺跡の上に1971年に再建された。

「北東」MAPLay. A
上の写真を拡大表示 展示されている模型
北門の脇にあった通用門のレプリカ (08:41)
北門は、幅約30.5メートルで、7.60メートルの高さの2つの方形塔を有していた。 この門は、二つある通用門 (側門) [Side portal] の一つで、1971年に再建されたレプリカ。 下方にある黒ずんだ石の部分はオリジナルで、その上にレプリカが建てられている。 オリジナルの中央アーチはローマン・ゲルマン博物館に移され保管展示されている。 中央門の外側は、ローマ皇帝クラウディアス [Claudius] の妻である "Agrippina" の要請によって CCAA [Colonia Claudia Ara Agrippinensium] と名付けられた。 Colonia Claudia はクラウディアスの植民地を意味し、Ara Agrippinensium 妻の名の祭壇を意味する。 2000年前、ここに街があって、周囲4kmを地下3m、高さ8mの城壁が取り囲んでいた。
「北」MAPLay. A
ケルン大聖堂の十字架の花 [Kreuzblumen des Kölner Domes] (08:42)
中央に見える彫刻は、 ケルン大聖堂のフィニアル [Finial] を元のサイズでコピーしたもので、1991年以来、大聖堂の西側正面に立っている。 フィニアルは、頂華 (ちょうげ) とも呼ばれ、尖塔などの頂上を飾る 十字架の花 [Kreuzblumen*] 。 このフィニアルは大聖堂の入口に向かって、左 (北)、右 (南) にある尖塔のフィニアルをコピーしている。
「北北西」MAPLay. A

クロイツルブレン [Kreuzblumen] は、ヒメハギ科の植物。  Finial とKreuzblumen は、同義語。
ケルン大聖堂の西側 (正面入口) (08:45)
大聖堂とは、大きな 聖堂、あるいは大きな教会堂のことではない。 大聖堂をあらわすフランス語のカテドラル[Cathédrale] という言葉 は、ラテン語のカテドラ [Cathedra] に 由来する。 カテドラとは司教の座る掎子、すなわち司教座のことである。 司教座の置かれている教会堂を大聖堂 (エクレシア・カテドラリス) [Ecclesia cathedralis] という。 なお、ドイツでは大聖堂をドーム [Dom] 、イタリアではドゥオモ [Duomo] と呼ぶが、これはラテン語のドムス [Domus] に起源をもつ。 ドムスとは家のことで、とくに中世とルネサンスにおいては神の家 (ドムス・ディ) [Domus Dei] を意味した。
「東北東」MAPLay. A
ケルン大聖堂の西側 (正面入口) (08:46)
ドイツ最大の規模を誇る大聖堂。 この典型的なゴシック様式の聖堂は完成まで600年以上の年月が費やされた。 着工は13世紀半ばのこと。 高さ157mある2つの塔の頂点を目指してすべての線が駆け上がっていくような造形が見る者の目を奪う。 内部の広さもかなりのもので、5廊式*の身廊の天井は45mを超える高さ。 身廊の両側の窓は、美しいステンドグラスで飾られている。 左の翼廊には宝物館があり、さらに奥の礼拝室に囲まれた内陣には、聖遺物が納められた三博士の聖棺が安置されている。 金細工の施された棺は、それ自体も聖堂の形をしている。 中央祭壇の右側には「大聖堂の絵」とよばれる、ケルンの画家シュテファン・ロホナーによる3面の屏風が見られる。 また、ファサードを飾る2つの塔のうち南側の塔 (鐘塔) は、509段の階段で上ることができる。
「東北東」MAPLay. A

5廊式と3廊式の違いは、側廊の数によって決まる。 (下図参照)
5廊式と3廊式の違い
5廊式は身廊1つに側廊が4つ、3廊式は身廊1つに側廊が2つで、側廊の数の違いによって呼び名が異なる。 一般的なキリスト教建築では3廊式が多い。
ケルン大聖堂の南側 (08:58)
「都市建築としての大聖堂」313年のキリスト教の公認後、ローマ教会は教会組織を整備するため帝国領内をいくつかの区域に分割し、それぞれの区域に司教を配置した。 司教区と呼ばれるこの区域は、帝国の行政管区にほぼ一致していた。 司教の所在地として選ばれたのは、この行政管区の中心都市であった。 ローマ教会はここに司教座を置き、大聖堂を建設した。 司教は、 都市に居住しながら、地方教会を統括し監督する職務を負った。 司教座のある都市、すなわち大聖堂のある都市を司教座都市という。 ライン河以北にはローマ都市は建設されなかったので、ライン河以北を除き、司教座都市の多くがローマ時代にさかのぼる古い歴史を持っている。
「北」MAPLay. A
ロンカリ広場 [Roncalliplatz] (08:58)
この広場の名前は、ヨハネ23世 (ローマ教皇 在位1958-1963) アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカリ [Angelo Giuseppe Roncalli] の名前から付けられている。 教皇になる以前、1921年12月27日にケルン大聖堂を訪れ、ミサを行った経緯がある。 大聖堂の南側の壁面にポートレートと碑文が嵌め込まれている。 (二つ上の写真を拡大すると場所を確認することができる。)
「南」MAPLay. A
出典:Statues - Hither & Thither
大聖堂の南側の壁面に Angelo Giuseppe Roncalli のポートレートと碑文が嵌め込まれている。
ロンカリ広場 [Roncalliplatz] にて (08:58)
「南東」MAPLay.
ドイツ最大のゴシック建築様式のケルン大聖堂 (08:58)
ゴシック建築様式の始まりは、1140年頃のサンス大聖堂の再建工事を皮切りに、ノワイヨン、サンリス、ラン、パリでも大聖堂の再建工事がはじまったが、これらの建築は、それまでのロマネスク様式とは非常に異なる相貌をもっていた。 この様式は、続いて工事が開始されたシャルトル、ソワッソン、ランス、アミアンの大聖堂において完成の域に到達し、その後、「フランス様式」としてイール・ド・フランスの地からヨーロッパ全土に広まっていった。 のちにルネサンスの人々は、この様式を、軽蔑の意味を込めて野蛮人 (ゴート族) [Gothゴース] の様式、すなわち ゴシック [Gothic] と呼んだが、その意図するところがまったく不当な偏見であることは、ゴシック芸術そのものが証明している。 (ゴシックはゴート族が生み出した建築様式を意味せず、軽蔑の目的で用いられた呼称)
「北北東」MAPLay. A
ケルン大聖堂 [Kölner Dom] 南側トランセプト (翼廊) の正面 (08:59)
この南の入口は常に閉まっており、ローマ教皇が来訪した時など、特別な場合のみ開けられる。 通常は、北側 (中央駅側) と西側 (正面) の入口のみが使用される。 聖遺物「東方三博士の骨」と、それを納めた黄金の聖遺物箱が多くの巡礼者を集めた中世の頃には、右翼廊の門 (南側) から入り、左翼廊の門 (北側) に抜ける、巡礼者の道と呼ばれる通路が設けられていた。 因みに、大聖堂は石灰石で造られており、大気汚染によって全体的に煤けた状態になっているが、本来の色はもっと明るい。
「北」MAPLay. A
ケルン大聖堂 [Kölner Dom] 南側トランセプト (翼廊) の正面 (08:59)
大聖堂は石灰石で造られており、大気汚染によって全体的に煤けた状態になっているが、本来の色はもっと明るい。 建造のための石材はライン川上流の山から切り出され、ライン川を利用して運んできた。
「北」MAPLay. A
ケルン大聖堂 [Kölner Dom] の南外壁 (08:59)
中世の時代、建築と美術は一体のものであって、現代のように、額縁に入れられた絵を、それ自身独立した芸術作品として鑑賞するということはなかった。 彫像もステンドグラスも、建築の単なる付属物ではなかったし、建築もまた美術作品の単なる展覧場ではなかった。 建築と美術は分かちがたく結合し、全体として壮大なドラマをつくりあげていた。 演劇や音楽も然り、このドラマとは無関係には存在しえなかった。 フランスの歴史家ジャン.ジャンべルによれば、1050年から1350年に至る300年間に、フランスだけに限っても、80の大聖堂と500の大教会堂、そして数万に及ぶ教区教会堂が建てられたという。 この時代の建築に費やされたエネルギーは凄まじく、多くの芸術を生み出している。 中でも大聖堂は最高の芸術作品であると言える。
「北西」MAPLay. A
ローマ・ゲルマン博物館 [Römisch-Germanisches Museum] (09:00)
ケルンは元々ローマ帝国の軍隊が駐屯し作った町なので、ローマ時代の遺構が残っている。 この博物館はそういったローマ時代の遺跡の上に建てられており、その当時のモザイクをそのままの状態で展示している。 第二次世界大戦中に防空壕を掘っているときに発見されディオニューソス・モザイクは、1cm程度の小石で作られており、2世紀ごろのローマ市民邸宅の床にあったものだと言われている。
ここでは、入場せず Window watching のみ。
「東」MAPLay. A
ローマ・ゲルマン博物館 [Römisch-Germanisches Museum] (09:01)
ここでは、入場せず Window watching のみ。
「北東」MAPLay. A
ローマ・ゲルマン博物館 [Römisch-Germanisches Museum] (09:01)
ここでは、入場せず Window watching のみ。
「北北東」MAPLay. A
南塔への登り口 <illust.>(09:05)
南塔の展望台 (地上高97m) へ上るためには一旦地下へ下り、地下から観光用に付けられた階段と当初からある石造りの階段を合わせ、532段の階段を上る。
「東」MAPLay. A
ケルン大聖堂南タワーの図説
ケルン大聖堂の南タワー地下見取り図
ケルン大聖堂の地下入口付近にあるローマ時代の遺跡 <illust.>(09:06)
第二次世界大戦 (1939年~1945年) の破壊で大聖堂は長年建設現場と化していた。 再建の過程で、ケルン大聖堂の地下では、1946年5月から考古学的研究が開始された。 発掘の最初の10年間は、大聖堂の中で誰もが目にすることが出来る状態で発掘が行われたが、1956年以来、この区域はコンクリート床で閉鎖され、作業はその下で続けられている。
「西」MAPLay. A
南塔に繋がる地下通路 <illust.>(09:06)
2008年、新しいタワーへのアクセスを容易にするため、7mと11mもある二つの大聖堂の基礎を多数の円形ドリルで穴を開け通路を造っている。 基礎材は、ライムモルタル (水硬性石灰) と黒色の玄武岩、および比較的弾性のある凝灰岩で構成されている。 凝灰岩は地面の振動を吸収し、建物へのダメージを軽減する働きがある。 撮影場所は11mのトンネル内 (トンネル1) 。
「北」MAPLay. A
大聖堂の地下基礎部分 (<illust.>09:07)
南塔の階段に向かう途中で見ることが出来る大聖堂の基礎部分。 壁面には、1250、1320、1520年当時の建設段階を示したパネルが展示されている。 建設は主祭壇のある東の方から始まっているのが分かる。
MAPLay. A
大聖堂の地下基礎部分 <illust.>(09:07)
基礎部分は、ライムモルタル (水硬性石灰) と黒色の玄武岩および比較的弾性のある凝灰岩で構成されている。
MAPLay. A
大聖堂の地下基礎部分 <illust.>(09:07)
地下の天井は (大聖堂の床) は、発掘によって生じた空洞の崩落を防ぐため、コンクリートで固められている。
MAPLay. A
南塔に繋がる地下通路 <illust.>(09:07)
2008年、新しいタワーへのアクセスを容易にするため、7mと11mもある二つの大聖堂の基礎を多数の円形ドリルで穴を開け通路を造っている。 基礎材は、ライムモルタル (水硬性石灰) と黒色の玄武岩、および比較的弾性のある凝灰岩で構成されている。 凝灰岩は地面の振動を吸収し、建物へのダメージを軽減する働きがある。 撮影場所は7mのトンネル内 (トンネル2) 。 (下段参照)
「南」MAPLay. A
トンネル工事の様子
工法は、沢山のドリル穴を連ねることで、基礎をくり貫いている。
写真出典:Exkursion "Auf den Spuren der Römer in Köln" 2008
南塔の地下チケット売り場 <illust.>(09:08)
エレベーターはなく、展望台 (地上高95m) へは533段の螺旋状階段を上らなければならない。 因みに、この場所は地下5m、上れるのは南塔のみ。
「南」MAPLay. A
南塔の地下チケット売り場 <illust.>(09:08)
右に見えているトンネルは、長さ7mのトンネル (トンネル2) 。
「北西」MAPLay. A
長さ7mのトンネル (トンネル2) <illust.>(09:09)
このトンネルの奥には、前掲の地下基礎部分が見学出来るように開放されている。
「北」MAPLay. A
南塔への登塔開始 <illust.>(09:10)
この階段の突き当たりから、古い石造りの螺旋階段に移行する。
「南」MAPLay. A
上り階段から振り向いての撮影 <illust.>(09:11)
先ほど前を通った地下チケット売り場と売店。
「北東」MAPLay. A
鐘の部屋の見取り図 (ケルン大聖堂南塔)
南塔にあるケルン大聖堂の鐘 (聖ペテロの鐘) <illust.>(09:17)
1418年に東方三博士をたたえて鋳造された3.4卜ンの鐘は、B音 (シ) に設定されている。 大聖堂に隣接する鐘楼に掛かっていたが、1437年には南塔に移された。 1448年、これにヨーロッパ最大で重さ10トンの「ブレシオーサ(貴い鐘)」[Pretiosa] がくわわった。 この鐘はG音 (ソ) で、同時に鳴り始めると鐘はGメジャーの和音を奏でた。 1449年には4.3トンの「スペシオーサ(美しい鐘)」[Speciosa] も加わった。 この鐘はA音 (ラ) に設定され、ケルン大聖堂は、鐘が和音ではなくメロディを奏でる初の教会となった。 1878年8月7日に、「皇帝の鐘」と称される鐘が南塔にとりつけられたが、1918年6月、第一次世界大戦の最中に接収され、溶かされたのちに武器として用いられた。 皇帝の鐘 [Kaiserglocke] は、1918年までケルン大聖堂の最大の鐘であり、世界で最大のスイングベル*だったが、1923年以来 "聖ペテロの鐘" が後継している。
「東」MAPLay. A

鐘(ベル)を揺らして振り、中に付いているクラッパー(舌)を鐘に当てて鳴らすのが、スイングベル。
聖ペテロの鐘 [St. Petersglocke] <illust.>(09:17)
1870年12月10日、普仏戦争の最中、ケルン大聖堂中央建築協会はプロイセン王ヴィルヘルム1世に大聖堂の鐘を鋳造するためフランス軍のカノン砲を奪い取るよう依頼した。 大聖堂の鐘は、重量25〜27トンと見積もられた特大の鐘でC音に調律されなければならなかった。 これには、鐘を鋳造ために22門のカノン砲と約5トンの錫が必要だった。 1871年1月18日、ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝の座に着き、1872年3月21日、フランス軍から奪い取ったカノン砲のブロンズ25トンが寄贈された。 1872年10月30日、ケルン大聖堂中央建築協会はフランケンタール (MAP) の鐘の鋳造業者アンドレアス・ハム [Andreas Hamm] と契約を結び、1873年10月に "皇帝の鐘 [Kaiserglocke]" の鋳造が完成する予定であったが、1873年8月19日の最初の鋳造は、使用された金属の量が間違って計算され、契約の一部であるC音 (ド) に正確に調律されていなかった。 1873年11月13日、に2回目の鋳造が行われたが、1874年2月5日に、中央建築協会が2番目の鋳造も不満足なものとみなし、1874年10月、3度目になって出来上がった鐘は、僅かな音のズレが確認されたものの、専門家たちの、「一旦、塔に吊り下げてしまえば、改善が期待できる」との意見に従い1878年8月7日、"皇帝の鐘" が南の塔の上に引き上げらた。 しかし、思ったほどの改善はみられず、鐘楼の鐘は眠ったまま据え置かれた。 この鐘は、第一次世界大戦 (1914年~1918年) の際に接収され、再び溶かされたのち武器として用いられた。 1923年以来 "聖ペテロの鐘" が後継している。
「東」MAPLay. A
南塔にあるケルン大聖堂の鐘 <illust.>(09:17)
ケルン大聖堂には11の鐘があり、その内、メインリングを形成する8つの鐘は南の塔の中にあり、残りの3つは "Vierungsturm" にある。 メインリングを形成する8つの鐘の中には、1923年以来の "聖ペテロの鐘 [St. Petersglocke] がある。 これは、ケルンの人々から "Dicker Pitter" (太ったPeter) と呼ばれ愛されている。 最大の "スイングベル" (揺れ動く鐘) の1つで、重量は約24トンで、1923年、アポルダのベルファウンダー、ハインリッヒ・ウルリッヒによって鋳造された。 この鐘は1923年以来、約26トンの皇帝の鐘 [Kaiserglocke] と置き換えられている。 皇帝の鐘は1918年に溶かされ武器に転用された。 その他、南の塔には、中世後期の鐘の "Pretiosa" (1448年) と "Speciosa" (1449年) の2つの大きな鐘がある。 "Vierungsturm" (図説) には別に3つの鐘がある。 1つは、1719年の小さな "Mettglocke" で、後の2つは大聖堂の合唱団席の屋根に14世紀の頃に掛けられていた最も古い "Angelusglocke"と"Wandlungsglocke" 。
「南」MAPLay. A
中世後期の鐘の "Pretiosa" (1448年) と "Speciosa" (1449年) の2つの大きな鐘 <illust.>(09:17)
「南」MAPLay. A
鐘塔内の通路 <illust.>(09:18)
部屋の四隅に設けられた耐力壁内を通る回廊。 部屋の周囲に回廊が設けられており、機械仕掛けの鐘を四方から見学することが出来る。
「南」MAPLay. A
南塔にあるケルン大聖堂の鐘 <illust.>(09:18)
中央の鐘は、聖ペテロの鐘 [St. Petersglocke] 。 右上に見えるのが、中世後期の鐘の "Speciosa" (1449年)
「西」MAPLay. A
南塔にあるケルン大聖堂の鐘 <illust.>(09:18)
ケルン大聖堂には11の鐘があり、その内、メインリングを形成する8つの鐘は南塔にある。 他の3つの鐘は、"Vierungsturm" (図説) にある。
「北」MAPLay. A
部屋の中心に展望階への螺旋階段が設けられている。
部屋の中央に設けられた階段の上り口 <illust.>
下の大部分は折り返し階段で、天井に近づくと螺旋階段になっている。 階段の下にある円形の蓋は、下の階 (鐘のある部屋) のドーム天井に貫通している穴を塞いでいる。 普段、この穴は塞がれているが、重い荷物等を引き上げる際は、この穴を使用する。 実は、この部屋のドーム天井にも穴があり、この穴を利用して上の展望台まで螺旋階段を貫通させている。 因みに、左前方の壁に一方通行出口のマークが付いているが、ここは展望台からの帰路出口で、古い石造りの螺旋階段を下りて来るとここに至る。
「東」MAPLay. A
写真出典:Wikimedia Commons
部屋の中央に設けられた階段の上り口 <illust.>
下の大部分は折り返し階段で、天井に近づくと螺旋階段になっている。 螺旋階段を登り切ると尖塔内に設けられた小屋の内部に達する。 尖塔内は風雨に曝されるため、階段の出口は小屋で守られている
「北北東」MAPLay. A
写真出典:Wikimedia Commons
鐘が設置された部屋の上階から展望台へ続く階段 <illust.>(09:21)
この辺りの階段は折り返し階段で、天井に近づくと螺旋階段になっている。 (振り向いて撮影)
「南南西」MAPLay. A
鐘が設置された部屋の上階から展望台へ続く階段 <illust.>(09:22)
この階段は部屋の中央に設けられており、下の大部分は折り返し階段で、天井に近づくと螺旋階段になっている。
「南」MAPLay. A
鐘が設置された部屋の上階から展望台へ続く螺旋階段 <illust.>(09:22)
天井に近づくと、螺旋階段になっている。 螺旋階段はドーム天井を貫いて、展望台のフロアーに達している。 天井の穴は当初からあった穴を利用している。
「南西」MAPLay. A
主祭壇のある東方向から西に向かって撮影
写真を拡大すると室内にある螺旋階段を確認出来る。
写真出典:Wikipedia
西の正面入口方向から東に向かって撮影。
写真出典:Wikipedia
ケルン大聖堂南タワー展望台の見取り図
ケルン大聖堂展望台からの景観 <illust.>(09:25)
南塔の展望台から見る北塔。 展望台は鳥籠の様に全て金網で覆われているため、網目より大口径のレンズでは金網が写り込んでしまう。
「北」MAPLay. A
ケルン大聖堂展望台からの景観 <illust.>(09:25)
「北西」MAPLay. A
ケルン大聖堂南塔の展望台 <illust.>(09:25)
地上高95mにある、全て金網で覆われた展望台。
「南西」MAPLay. A
ケルン大聖堂南塔の展望台 <illust.>(09:25)
地上高95mにある、全て金網で覆われた展望台。
「北東」MAPLay. A
ケルン大聖堂展望台からの景観 <illust.>(09:26)
「西」MAPLay. A
ケルン大聖堂展望台からの景観 <illust.>(09:26)
「南西」MAPLay. A
ケルン大聖堂展望台からの景観 <illust.>(09:26)
「南南西」MAPLay. A
ケルン大聖堂展望台からの景観 <illust.>(09:26)
左に見える川は、ライン川 [Rhein] 。 ライン川は南から北に向かって流れている。
「南南東」MAPLay. A
ケルン大聖堂展望台からの景観 <illust.>(09:27)
「南東」MAPLay. A
ケルン大聖堂展望台からの景観 <illust.>(09:27)
「東」MAPLay. A
展望台 [Aussichtsplattform] <illust.>(09:27)
この階段を下りて左手に、上ってきた螺旋階段出口の小屋がある。 階段の下の部分は、以前からある石造りの回廊で、展望台は景観を良くするため回廊の上に2.3m嵩上げする形で木張の展望台が設けられている。 (下段参照)
「北北東」MAPLay. A
展望台の構造 <illust.>
「南」MAPLay. A
出典:YouTube
ケルン大聖堂展望台からの景観 <illust.>(09:28)
中央に見える橋は、ホーエンツォレルン橋 [Hohenzollern Bridge] 。 手前下に見える屋根は大聖堂の屋根と Vierungsturm (図説) 。 ライン川は右 (南) から左 (北) に向かって流れている。
「東」MAPLay. A
ケルン大聖堂展望台にて <illust.>(09:28)
「東」MAPLay. A
ケルン大聖堂展望台からの景観 <illust.>(09:29)
中央に見えるライン川に架かる橋は、ツォー橋 [Zoobrücke] 。
「北東」MAPLay. A
ケルン大聖堂展望台からの景観 <illust.>(09:29)
展望台から尖塔を仰ぎ観る。
「南西」MAPLay. A
南塔の尖塔を内側から仰ぎ観る <illust.>(09:29)
下にある小屋は、螺旋階段の出口を風雨から守るために建てられている。
「南南西」MAPLay. A
ケルン大聖堂の南タワー [Südturm des Kölner Domes] <illust.>(09:29)
右側の小屋内に螺旋階段の出口があり、左側の通路を出て、左右どちらかの階段を上ると、高さ2.3mに設けられた板張りの展望台に達する。
「南東」MAPLay. A
南塔の尖塔を内側から仰ぎ観る <illust.>(09:30)
「北北西」MAPLay. A
ケルン大聖堂の見取り図
KlarenaltarまたはClarenaltar (貧しい人々の祭壇) の背面画 <illust.>(09:49)
1905年にユトレヒトの画家フリードリッヒ・ヴィルヘルム・メンゲルベルグ [Friedrich Wilhelm Mengelberg] によって新しく祭壇パネルの後方に背面画が作成された。
「西」MAPLay. A
KlarenaltarまたはClarenaltar (貧しい人々の祭壇) <illust.>(09:49)
Clarenaltar (他のスペル:Klarenaltar) は1350年から1360年の間に作られた。 ドイツでは14世紀の最も重要な翼のある祭壇の一つであり、現存する最も古い聖餐式の祭壇で、幕屋が備わっている。 この祭壇パネルは元々ケルン・クラリセン教会聖クララにあったが、1804年に聖クララが解体された際、大聖堂に運ばれた。 大聖堂では、北側の翼廊の起始部に置かれている。 (下段参照)
「東」MAPLay. A
出典:Der Hohe Dom zu Köln
KlarenaltarまたはClarenaltar (貧しい人々の祭壇) <illust.>(09:50)
屏風の様に折り畳み式になっており、折り畳み方によって複数の表現が出来る。
「東」MAPLay. A
ケルン大聖堂のクロッシング部 <illust.>(09:50)
クロッシング部から主祭壇のキリスト像のある東方向を撮影。 中央のやや左、小さく見える金色の箱は、多くの巡礼を集めたと言う黄金の聖遺物箱。 中世の頃は、聖遺物箱とその中に入っている聖遺物を拝観するため、大勢の巡礼者が詰めかけたた。 そのため、当時は翼廊の南門と北門が開かれ、南門から入って北門に抜ける "巡礼の道" と呼ばれる通路が設けられていた。
「東」MAPLay. A
Agilolphusaltar <illust.>(09:51)
中央 (柱の後ろ) に見える祭壇衝立 "Agilolphusaltar" は、8世紀のケルン司教Agilolfにちなんで命名されている。 それは1520年頃に製作れたアントワープ製の彫刻祭壇衝立で、キリストの生涯と受難の場面を表現している。 アントワープ彫刻祭壇の中でも最も大きく、最も重要なものの一つと言われている (高さ約 5.50m 、幅 7m 弱) 。 かつて大聖堂の近くにあった教会、聖マリア教会のゴシック様式聖歌隊の主祭壇であった。 1817年に聖マリア教会が解体された後、ケルン大聖堂に移されたものと考えられている。 この衝立は2012年7月、南翼廊での祝祭の際に大々的に修復されている。 (下段参照)
「南東」MAPLay. A
出典:Der Hohe Dom zu Köln
聖母マリアの被昇天 [Himmelfahrt Mariens] <illust.>(09:51)
南翼廊 (右翼廊) の南 (右) 壁面に飾られている4メートル以上の高さの油絵は、"聖母マリアの被昇天" を描いたもので、1855年にデュッセルドルフ芸術協会に代わって画家ヨーハン・フリードリヒ・オーヴァーベック [Johann Friedrich Overbeck] によって仕上げられた。 もともとはエルンスト・フリードリッヒ・ツヴィルナー [Ernst Friedrich Zwirner] によってデザインされたもので、聖マリア礼拝堂のネオゴシック様式の祭壇を飾っていた。 祭壇は1949で取り壊され、その際に "聖母マリアの被昇天画" は現在の右翼廊に移された。 取り壊された祭壇のあとには、現在テファン・ロフナー [Stefan Lochner] によって描かれた "市民の守護聖人" の祭壇が置かれている。 (下段参照)
「南東」MAPLay. A
市民の守護聖人
出典:Der Hohe Dom zu Köln
聖母マリアの被昇天
出典:Der Hohe Dom zu Köln
バイエルンの窓 [Bayernfenster] <illust.>(09:52)
バイエルン王ルートヴィヒ1世から寄贈されたものなので「バイエルン窓」と呼ばれている。
ステンドグラスという分野は、ゴシック時代以前からずっと存在していたが、13世紀にこの媒材は大きく発展する。 新しい建築技術 (ゴシック建築) により、 窓の部分が飛躍的に広くとれるようになつたことや、鋳鉄の技術の発達によって複雑な形状の窓枠が製作出来るようになったことで、ステンドグラスは、従来とはまったく異なる新しい表現手段へと生まれ変わった。 建築内部に壁画を描く為の部分を大きくとろうとすれば、必然的に窓が小さくなり、暗くて画面が見えにくくなる。 ところが、光を透過するステンドグラスであれば、幾ら窓が大きくとも屋外が明るければ認識することが出来、採光とカンバスを兼ね備えた技法として、12世紀後半から13世紀に発展した。 ステンドグラスの主題の多くは、聖書や聖人の伝記からとられた物語で、一つの窓ごとに一つのまとまりのある物語が描かれている。 教会堂を飾る美術は、中世を通じて、 しばしば「読み書きのできない人々のための聖書」であったといわれる。 これは、文字の読める人々は文字で書かれた聖書を読み、文字の読めない人々は聖書の代わりに美術品を見ることで聖書の内容を知った、ということを意味している。
「南」MAPLay. A
バイエルンの窓 [Bayernfenster] <illust.>(09:52)
左 (東) から、ステファノスの窓 [Stephanusfenster] 、聖霊降臨祭の窓 [Pfingstfenster] 、嘆きの窓 [Beweinungsfenster] 。
「南東」MAPLay. A
バイエルンの窓 [Bayernfenster] <illust.>(09:52)
左 (東) から、嘆きの窓 [Beweinungsfenster] 、礼拝の窓 [Anbetungsfenster] 、ヨハネスの窓 [Johannesfenster] 。
「南南西」MAPLay. A
バイエルンの窓 (合成写真)
ステンドグラスの窓はバイエルンのルートヴィヒ1世からの贈り物で、すでに1842年には、スルピズ・ボワリエ [Sulpiz Boisserée] はアイデアと計画を持っていた。
ステンドグラスは、王立ガラス絵画研究所でマックス・エマニュエル・アインミラー[Max Emanuel Ainmiller] の指導監督の下、ハインリッヒ·マリア·フォン·ヘス [Heinrich Maria von Hess] によるデザインに沿って1846から1848の間にミュンヘンの画家ジョセフ・アントン・フィッシャー [Joseph Anton Fischer] とフランツヘルウェーガー [Franz Hellweger] によって製作された。 ジョセフ・アントン・フィッシャーは中央の三つのフルサイズ窓を描き、フランツヘルウェーガーは両脇のハーフサイズの窓を描いた。 マックス・エマニュエル・アインミラーは建築と装飾を担当した。
写真出典:Wikimedia Commons
身廊部から見る主祭壇 <illust.>(09:53)
主祭壇は、太陽が上る東側に設けるのが鉄則。 これは、朝日をあたかも背光の様に見せる建築技法。
「東」MAPLay. A
身廊部から見る主祭壇 <illust.>(09:53)
右端に見えるステンドグラスはバイエルンの窓 [Bayernfenster] で南側の窓に設けられている。
「東」MAPLay. A
身廊部から見るバイエルンの窓 [Bayernfenster] <illust.>(09:54)
南側の窓に、バイエルンのルートヴィヒ1世が寄贈したステンドグラスがある。
「南」MAPLay. A
身廊部から見る北側の窓 <illust.>(09:54)
「北」MAPLay. A
北側の窓のステンドグラス (合成写真)
左 (西) から、受難の窓 [Passionsfenster] 、聖ペテロとJesseの根の窓 [Petrus- und Wurzel Jesse-Fenster] 、キリスト生誕の窓 [Typologisches Geburt Christi-Fenster] 、東方三博士の窓 [Dreikönigenfenster] 、聖母戴冠式の窓 [Marienkrönungsfenster] 。
写真出典:Kölner Dom



昼食で立ち寄ったドルトムント [Dortmund] にあるレストラン
レストラン Pfefferkorn (胡椒) 。

ダンケ・シェーン [Danke schön]
ランゲ通り [Lange Str.] (11:21)
レストランの南側を走る道路。
「南西」MAPLay. B
連邦道路54 [Bundesstraße 54] (11:21)
ドイツの 高速道路連盟が所有している道路で、高速道路のみに使用されるわけではない。
「北西」MAPLay. B
レストランPfefferkorn (胡椒) の正面入口 (11:21)
「西南西」MAPLay. B
レストランの内装 (11:25)
MAPLay. B
トマト・スープ (11:38)
MAPLay. B
ポーク・シュニッツェル (豚肉のカツレツ) (11:56)
MAPLay. B
デザート (12:19)
MAPLay. B
レストランの内装 (12:31)
MAPLay. B
ランゲ通り [Lange Str.] (12:32)
昼食を済ませ、バスでブレーメンへ向かう。
「西」MAPLay. B



ブレーメン [Bremen]
ブレーメン [Bremen] は、ドイツの大都市で、自由ハンザ都市ブレーメン (通常ブレーメン州と呼ばれる) の州都。
1200年の歴史を誇るブレーメンは、ドイツの海の玄関口で、ヴエーザー川 [Weser] から北海を通じて世界の国々と結ばれ、今日でもハンブルクに次ぐドイツ第2の貿易港として知られている。 また、グリム童話集『ブレーメンの音楽隊』の題材となった街としても知られ、世界遺産である市庁舎の北西の壁際には、ロバ、犬、猫、ニワトリの音楽隊像が立っている。

小さな喫茶店
ヴァッハト通り [Wachtstraße] (16:09)
ここでツアーバスを降りて、ブレーメン市街観光に向かう。
「北北東」MAPLay. C
マルティーニ通り [Martinistraße] (16:10)
「東南東」MAPLay. C
ヴィルヘルム・カイゼン橋 [Wilhelm-Kaisen-Brücke] (16:10)
ヴェーザー川 [Weser] に架かっているヴィルヘルム・カイゼン橋。
「南西」MAPLay. C
ホーエ通り [Hohe Str.] (16:12)
左手に見えるのは、聖ヨハン教会 [Propsteikirche St.Johann] 。
「東南東」MAPLay. C
聖ヨハン教会 [Propsteikirche St.Johann] (16:14)
この地域は、13世紀に人が住み始め、早期に修道院ができた。 このフランチェスコ派修道院を元にして14世紀にゴシック様式で建てられた教会。 16世紀の宗教改革後、他の教会は全て新教 (プロテスタント) になったが、この教会はブレーメンで唯一現存する修道院教会として残った。
「東北東」MAPLay. C
フランツィスカーナー通り [Franziskanerstraße] (16:15)
左手の建物は、聖ヨハン教会 [Propsteikirche St.Johann] 。
「北東」MAPLay. C
シュノーア地区 [Schnoor Viertel] 広場にある噴水 "Badestubenbrunnen" (16:17)
1986年に彫刻家JürgenCominottoによって作製され、設立者はSchnoorクラブのHeini Holtenbeenであった。 噴水は中世の頃に人々は入浴を好み、Schnoorに、まだ風呂屋があった時代を想起させる。 当時バスルームはなかったため、彼らは大浴場を訪れた。 この通りには "Stavendamm" (Stave = Stube)という風呂屋があったと言われている。
「南南西」MAPLay. C
シュノーア [Schnoor] 通り (16:17)
シュノーアは、ドイツのブレーメン市の中世の中心部にあり、中世の特色を残している唯一の場所。
シュノーア街はブレーメン旧市街の中でも中世風の路地が遺る地区で、おそらく最も古くからの中心街区であったと推測されている地区。 この街区の名前は、船舶関連の手工業に由来している。 家々の間の路地は、当時は同じ職業や関連する物品を扱う者が一本の路地に集まって住んでいる場合がしばしばあった。 縄や綱を作る者達が集まった街区をシュノーア街 (Schnoor* は現代ドイツ語の Schnur にあたり、「より糸」を意味する) と称し、その近くにあった針金や鎖を作っていた街区をヴィーレン街 (Wieren は現代ドイツ語の Draht にあたる単語で、「針金」を意味する) と呼んだ。 戦争で辛うじて残ったシュノーア街の多くの家屋は17 - 18世紀から保存されているもので、古い時代の暮らしを彷彿とさせる。
「東南東」MAPLay. C

* Schnoor は別の解釈で、家々が紐に通された真珠の様に並んでいることから、ドイツ語で紐を意味する "Schnoor" の名が付いたとも言われている。
シュノーア [Schnoor] 通り (16:20)
シュノーア地区 [Schnoor Viertel] は、手工芸品の工房やアンティーク店が並ぶ、市内で最もお洒落な一角。 中世に舞い戻ったかのような路地はいつも観光客で賑わう。
「東南東」MAPLay. C
ブレーメンストーリーハウス [Bremer Geschichtenhaus] (16:23)
ブレーメンにある博物館で、博物館は、ブレーメンで最も古い現存の倉庫である "St. Jakobus-Packhaus" にある。 現在は、17世紀の中頃から20世紀までの間の多数の物語や歴史的な思い出の品が展示されており、本物の衣装を着たスタッフの姿と相俟ってブレーメンの昔が偲ばれる。 
この建物は、以前は聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者のための宿でもあった。 "Bremer Geschichtenhauses" の入口の上には、1660年頃に作成された彫刻「St. Jacobus Major」(聖ヤコブ) がある。 昔の童謡によると、彼は「Juxmajor」としても知られている。 1965年に修復され、色彩が一新されている。 台座の上には「St. Jakobus Major」の碑文があり、聖ヤコブは全ての巡礼者を聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへ安全に導く守護聖人として祀られている。 聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路は、ヴェーザー川のブレーメン港 (旧) から海路を利用することで短縮できるため、ブレーメンの一般的なプロテスタント主義者にとっては、非常に人気があった。 聖ヤコブは主に本を持った使徒として、あるいは人、鞄、ホタテ貝を伴った巡礼者として描かれている。 ホタテ貝は、聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラで目的地に到着したときに巡礼者に渡された。 しかし、多くの場合、巡礼者は自分自身が巡礼者として識別されるように旅行中も身に付けていた。 この像にも、帽子にはホタテ貝が、左手には本を所持している。 建物は1973年以来の記念碑保護法の下に置かれている。
「西北西」MAPLay. C
陸路はフランスとスペインの国境にあるピレネー山脈を越えなければならず、険しい道程であった。
ブレーメンストーリーハウス [Bremer Geschichtenhaus] (16:23)
入口には、グリム童話の『ブレーメンの音楽隊』に因んだ、 ロバ、犬、猫、ニワトリ、のフィギュアが置かれている。
「西」MAPLay. C
シュノーア地区 [Schnoor Viertel] の路地風景 (16:23)
この路地の向こうは、もうヴェーザー川 [Weser] で、この辺り一帯はブレーメン港(旧港)があった場所。
ブレーメン港(旧港)は、ヴェーザー川中流に位置し、中世のハンザ同盟以来の長い歴史をもつ。 また約60km下流の北海に出る河口部に展開するブレーマーハーフェン港は、ブレーメン港がかつて河川埋没により大型船の航行が難しくなり、1827年にブレーメン市が河口に土地を購入し開発したことに端を発する。 ブレーメン港はその後の河川改修と浚渫により約9mの航路水深が確保され、4m余りの潮位差を利用して最大11mの水深をもつ埠頭群が整備されている。
「南西」MAPLay. C
ヴェーザー川中流に位置するブレーメン港 [Bremen Ports]
画像出典:ドイツ ブレーメン・ブレーマーハーフェン港の港湾の開発と経営
シュノーア [Schnoor] 通り (16:25)
猫のコーヒー屋 [Katzen-Café] と呼ばれるレストラン。
「東南東」MAPLay. C
ベトヒャー通り [Böttcherstraße] (樽屋通り) (16:39)
ローゼリウスハウス [Roselius Haus] (左) と グロッケンシュピール [Glockenspiels] (右) 。 ローゼリウスハウスはベトヒャー通り (樽屋通り) を私財で造ったローゼリウスの家。 ローゼリウスはコーヒー貿易で巨万の富を得て自分の思う街並みを造ろうと、通りや自分の家を造っている。 ローゼリウスハウスはレンガ造りの切妻屋根の破風が階段状となっており、ハンザ同盟で栄えたギルドハウスによく似た家の造りになっている。 1588年に完成した Roselius House は、14世紀に建てられた土台の上に建てられ、歴史的なベトヒャー通り [Böttcherstraße] (樽屋通り) の最も古い建物となっている。 1902年にコーヒー商人のローゼリウスは、ここに住んでいた二人の未亡人から建物を購入し、売主の希望もあって建物は当時の姿のまま使用された。 当時、商人の家は、一階は事務所として、二階は住居、そして、その上階は倉庫として使用されるのが常であった。 写真を拡大すると、上から二段目の庇のように突き出た構造物からフックが垂れ下がっているのが確認できる。 これは、すぐ近くのブレーメン港 (旧) で荷揚げされた荷物を倉庫に吊り上げるためのフックで、フックの下にある3つの大きな黒い扉の部分が搬入口になっていた。 現在はルートヴィヒ・ローゼリウス博物館 [Ludwig Roselius Museum] として使用されている。
「東」MAPLay. C
ベトヒャー通り [Böttcherstraße] (樽屋通り) の入口 (16:45)
門には、龍を退治している 60g の金箔が貼られた聖ミカエルの黄金レリーフ "光の天使" (Bernhard Hoetger 作) が、はめ込まれている。 ベトヒャー通りは、「秘密のメインストリート」と呼ばれるブレーメンで一番人気のストリート。 この通りは、1920年代にコーヒー商人として成功したローゼリウスが、中世の街並みを再現しようと私財を投じ、一流建築家たちに依頼し1923年から1931年にかけて、中世の町並みを再現し造った。 個性あふれるレンガ造りの建物が並ぶ美しい小路は、まさに中世の世界。 わずか100mあまりの短い通りに、美術館、映画館、高級ブランド店、レストランなどが並ぶブレーメンの目抜き通りとして知られている。 この通りは現在、地元銀行 "Die Sparkasse Bremen" の私有地になっている。
「南南西」MAPLay. C
シュッティングの家 [Haus Schütting] (16:53)
ブレーメン・マルクト広場 [Bremer Marktplatz] にある "Haus Schütting*" は、嘗て商人のギルドハウスと食料庫であった建物で、1537年から1538年にかけて、アントワープの建築家ヨハン・ザ・バスケナー [Johann the Buschener] によって、より現代的で大きなものがその土台に建てられた。 この建物は1849年以来ブレーメン商工会議所となっており、1973年以降は記念すべき建物として保護されている。 屋根の出窓の上に描かれている船は、コッゲ [Kogge] と呼ばれるハンザの船。 入口の上にある大きな紋章は、ブレーメンのハンザ駐在所の紋章、その左右にある小さな紋章は姉妹都市の紋章で、左端はハンザ都市ハンブルクの紋章、右端は中世にハンザ同盟の盟主として栄えたリューベックの紋章。 (詳細は下図参照)
「西」MAPLay. C

Schütting はギルド (同業者組合) のお金を出し入れするという意味。 Schütting は「支払う、注入する、注ぐ」という意味のドイツ語 "schüttet" と関連付けることができる。
出典:Handelskammer Bremen
マルクト広場にある聖ペトリ大聖堂 [St. Petri Dom] (16:53)
ブレーメン聖ペトリ大聖堂はブレーメン市場広場の印象的な建物で、1200年以上にわたり、この場所に立っている。 プレーメンの歴史は、カール大帝により787年に司教座が置かれたときから始まるが、その2年後に礎石が築かれたという歴史ある教会。 最初の木造大聖堂は789年にサクソン人の司教 "Willehad" によって建てられ、805年頃に石造りの建物に置き換えられた。 何度も破壊され再建された後、11世紀に3つの通路を持つ大聖堂が建てられた。 これは今日のブレーメン大聖堂の基本的な建造物になっている。 嘗て10~11世紀頃、北方に多くの異教徒が住んでいたため、 ブレーメンは伝道の本拠地になっていた。 伝道のため、遠くは デンマーク、北欧、アイスランド、グリンランドにも布教に赴いたと言われている。
聖ペトロの名にちなんで聖ペトリ大聖堂と呼ばれているが、宗教改革 (1517-1648) の後、プロテスタント(ルター派)の教会として再開したため、司教座は置かれていない。
「東南東」MAPLay. C
マルクト広場にあるブレーメン旧市庁舎 [Bremer Altes Rathaus] (16:54)
600年以上そのままで一度も壊されたことも無く、一度も焼けた事の無いブレーメンの旧市庁舎は、1405年から1409年に建てられ600年以上そのままの姿で立っている。
建築家リューダー・フォン・ベントハイム [Lüder von Bentheim] が、1595年から1612年にかけて全面的に改修したヴェーザー・ルネサンス*様式のレンガ造りファサードをもつブレーメン市庁舎は、ヨーロッパ大陸最北にあるルネサンス様式建築の傑作のひとつ。 またファサードの背後の壮大な後期ゴシック様式部分は、市民の誇りである。 四角形の建物は中世の像で飾られ、カール大帝と7人の選帝侯の等身大の砂岩の像や、4人の預言者と4人の賢者の像などが置かれている。 建物のアーケード上のフリーズには、人類の歴史を物語る寓話が描かれている。
(UNESCO 世界遺産登録: 2004年)
「北東」MAPLay. C

ヴェーザー・ルネサンスという言葉は20世紀に最初に造られ、建物のスタイルは、装飾された木造住宅と、市民と高貴な住宅の両方に飾られた砂岩のファサードによって特徴付けられる。
ファサードがまだ出来ていない頃の市庁舎のスケッチ (右の建物)
出典:Wikimedia Commons
マルクト広場に立つ独立と自由のシンボル「ローラント像」[Bremen Roland] (16:54)
中世文学『ローランの歌』に登場する英雄ローラントを象った巨大な立像。 今、ここに立っている石造りのローラント像は二代目で、1366年に市民の手によって立てられていた初代木造のローラント像は、教会の大司教によって燃やされてしまったため、1404年 (市庁舎建築の1年前) に石造りで再建されたもの。 二代目のローランド像は、大司教を睨むかのように教会に向かって立てられている。 (ローラントと言う人物はカール大帝の下臣で、ピレネー山脈で亡くなった英雄。)
ブレーメン市内には4体のローラント像があるが、ブレーメン大聖堂に向かってマルクト広場中央に立っている像が最もよく知られている。 像そのものは60cmの演壇の上に立っている高さ5.47mの立像だが、支柱に支えられた天蓋の高さは10.21mである。
「北西」MAPLay. C

因みに、日本の大手電子楽器メーカーの ローランド株式会社の社名は、中世ヨーロッパの叙事詩である『ローランの歌』の主人公、ローランからとられている。
(UNESCO 世界遺産登録: 2004年)
出典:Wikipedia
ブレーメンのマルクト広場[Bremer Marktplatz] (16:54)
トラム線路の左側は、旧市庁舎、中央の二つの尖塔は聖ペトリ大聖堂、右のガラス張りの建物はブレーメン議会 [BremischeBürgerschaft] 。
「南東」MAPLay. C
ブレーメンのマルクト広場[Bremer Marktplatz] (16:54)
右側は、旧市庁舎。
「北北西」MAPLay. C
ブレーメン音楽隊の記念像 [Bremer Stadtmusikanten Denkmal] (16:55)
ブレーメンはイツの海の玄関口で、ハンブルクに次ぐドイツ第2の貿易港。 グリム童話集『ブレーメンの音楽隊』の題材となった街で、世界遺産である旧市庁舎の北西の壁際にはロバ、犬、猫、ニワトリの音楽隊像が立つ。 この像はゲルハルト・マルクス [Gerhard Marcks] により、1953年に製作された。
「東」MAPLay. C
ブレーメン旧市庁舎 [Bremer Altes Rathaus] (16:56)
右側のレンガ造りの建物は旧市庁舎で、建物の左角には、ロバ、犬、猫、ニワトリの音楽隊像が立つ。 旧市庁舎の左側に接して建つ明るい色の建物は、新市庁舎 [Neues Rathaus] 。
「南南東」MAPLay. C
ブレーメン旧市庁舎 [Bremer Altes Rathaus] (16:56)
正面入口の左側には、ロバ、犬、猫、ニワトリの音楽隊像が立つ。
「南南西」MAPLay. C
旧市庁舎前から見たマルクト広場 (16:56)
「南南西」MAPLay. C
旧市庁舎前から見たマルクト広場 (16:56)
中央の建物は、前掲のシュッティングの家 [Haus Schütting] 。
「南西」MAPLay. C
ブレーメン音楽隊の記念像 [Bremer Stadtmusikanten Denkmal] (16:57)
ブレーメンの旧市庁舎横の左横には、音楽隊の2mほどの高さの銅像 (ロバ、イヌ、ネコ、ニワトリ) が立てられ、自分たちの街に因む物語として広く受け入れられている。 この像はゲルハルト・マルクスにより、1953年に製作されたもので、世間では、この銅像のロバの前足を撫でながら願い事をすると願いが叶うと信じられている。 この銅像は、同じ広場に面して立っているローラントの像と並んで、ブレーメンの町の象徴のようになっている。
「南東」MAPLay. C
グロッケンシュピールの家 [Haus des Glockenspiels] (17:02)
前掲のベトヒャー通 [Böttcherstraße] りにある、グロッケンシュピール (カリオン) の家の屋根と屋根の間には、30個のマイセン磁器製の鐘が掛かっており、夏場は12~18時の毎正時に鐘の音に合わせて時計の左下にある板絵 (木製パネル) が回転を始め、コロンブスやリンドバーグなど大西洋を横断した大航海時代をテーマにした絵が回りながら現れる。 正時が近づくと多くの観光客が集まり、ひときわ熱い視線を集める。 板絵 (木製パネル) は、ベルンハルト・ヘトガー [Bernhard Hoetger] が設計した。
「南」MAPLay. C
グロッケンシュピールの家 [Haus des Glockenspiels] (17:03)
時計の左下にある板絵が徐々に回転しているのが分かる。
「南」MAPLay. C
1枚目 2枚目 3枚目 4枚目 5枚目
6枚目 7枚目 8枚目 9枚目 10枚目
左から右に向かって10枚の木製パネルが回転する。
木製パネル は、ベルンハルト・ヘトガー [Bernhard Hoetger] の作。 最初の5枚は、船でアメリカからヨーロッパへ行った冒険家、又はヨーロッパからアメリカへ行った冒険家のパネルが現れる。 6枚目以降は航空機による大西洋横断を描いている。
1枚目のパネルは、レイフ・エリクソン [Leif Erikson] とソルフィン・カルルセフニ・ソルザルソン [Þorfinnur Karlsefni Þórðarson] を描いたパネルで、Leif はアイスランド生まれのノルマン人航海者(ヴァイキング)で、1000年にヨーロッパ大陸から海を渡ってアメリカ大陸に史上初めて到達したとサガによって伝えられている。「幸運なるレイフ」というあだ名でも知られる。 Karlsefni はアイスランドの探検者で、1010年頃、約60人または160人の移民を率いて Leif が発見した新天地ヴィンランド(ニューファンドランド島ないし北アメリカ大陸東部)の航路をたどり、定住計画を企てたが数年のみで長続きはしなかった。 2枚目のパネルの右2人は、Didrik Pinning と Hans Pothorst を描いたパネルで、Hans Pothorst は、1472年以前に、デンマーク王Christian 1世の艦長に就任し、Didrik Pinning と共に、彼は1472年にグリーンランド遠征を任ぜられた。 この遠征の間に、予期せずニューファンドランドに達し、クリストファーコロンブスの 20年前にアメリカを「発見」した。 左の人物はインディアンを表している。 3枚目のパネルは、クリストファー・コロンブス [Christopher Columbus] を描いたパネルで、1492年8月3日、大西洋をインド(インディア)を目指してパロス港を出航し、ヨーロッパ人のために1492年10月ごろにアメリカをついに発見した。 この時の編成はキャラベル船のニーニャ号ピンタ号、ナオ船のサンタ・マリア号の3隻で総乗組員数は約90人(120人という説も)であった。 4枚目ロバート・フルトン [Robert Fulton] の蒸気船 "サバンナ号 [Savannah]" で、1819年にアメリカ東海岸のサヴァンナ (MAP) からイギリスのリヴァプール (MAP) まで、蒸気船として世界で初めて大西洋を横断した。 ブレーメンは造船の町で、沢山の蒸気船を造っていた。 5枚目はドイツ潜水艦ドイッチュラント[German submarine Deutschland] で、かつて水上商船の船長を務めていたパウル・ケーニッヒ[Paul König] が1916年6月23日にアメリカへ向け航海に出た。 潜水艦には医薬品や郵便物だけでなく、163トンの非常に人気の高い化学染料を搭載し、探知されることなくイギリス海峡を通り抜け、ボルチモア (MAP) に1916年7月8日に到着した。 そして、帰りには、348 トンのゴム、341 トンのニッケル、93 トンのスズを搭載し、ブレーマーハーフェン (MAP) へ1916年8月25日に戻ってきた。
6枚目のパネルには、3名描かれているが、右側の2人はジョン・アルコック機長 [Captain John Alcock] とアーサー・ウィッテン・ブラウン中尉 [Lieutenant Arthur Whitten Brown] で、2人は改造されたヴィミー4 [Vimy IV] 爆撃機で、1919年6月14日にニューファンドランド州セントジョンズ近郊のレスターズフィールド (MAP) から離陸し、1919年6月15日にアイルランドのクリフデン(MAP) にノンストップで到達した。 また、左側の1名はジョージ・ハーバート・スコット少佐 [Major George Herbert Scott] で、1919年7月2日にスコットランドのイーストフォーチュン (MAP) からR-34飛行船で飛び立ち、7月6日にニューヨークのミネオラ (MAP) にノンストップで到達した。 飛行機と飛行船の違いはあるが、3人はノンストップ大西洋横断飛行を初めて成功させた人物として描かれている。 7枚目のパネルはリンドバーグ [Lindbergh] で、1927年5月 20~21日愛機『スピリット・オブ・セントルイス号』に乗り,ニューヨーク~パリ間の大西洋単独無着陸横断飛行に初めて成功した。 8枚目のパネルはケール[Köhl]フォン・ヒューネフェルト[v Hünefeld]フィッツモーリス [Fitzmaurice] で、ヨーロッパからアメリカへの大西洋横断飛行は向かい風になるので、より困難であると考えられていたが、ユンカースW33 [Junkers W33] 輸送機「ブレーメン号」で1928年4月12,13日にアイルランドのBaldonnel飛行場 (MAP) ~カナダのグリーンリー [Greenly] (MAP) 島間の約3100kmを36時間で飛行し、目標のニューヨークまで飛行することはできなかったが、最初の大西洋無着陸逆横断飛行に成功した。 ブレーメンには戦前から航空機会社があり、Junkers W33はここで造られた。 米大陸から帰還後、ブレーメンの市庁舎前では大西洋無着陸逆横断を祝って大パレードが行われたと言われている。 (ブレーメン空港に展示されているユンカースW33) 9枚目のパネルは操縦可能な飛行船の発明者であるFerdinand Graf Zeppelin と、1924年10月に最初のドイツ飛行船 ZR 3 で大西洋を横断してアメリカのニュージャージー州レイクハーストまで安全に導いた Hugo Eckener 。 10枚目のパネルには、地球に足跡と船、その周りには月と星が描かれ、さらに左上には宇宙を覆うかのように大きく創造主の手が描かれている。 下に書かれた文字は、コーヒー商人ローゼリウスが非常に感動した言葉として記されている。 レイフ・エリクソン [Leif Erikson] の言葉で、意訳すると『あなたは知識 (書物などから得た既成の) だけを知っています、あなたはその知識を生むだけの(行動を伴った)強い意思や燃える願望を知りません』と書かれている。 日本の諺にある『百聞は一見にしかず』に近い意味がある。 (レイフ・エリクソン は、コロンブスの大航海時代における「発見」に先立つこと500年前に、すでにアメリカに上陸していたヨーロッパ人)
写真出典:Wikipedia
ベトヒャー通り [Böttcherstraße] (樽屋通り) (17:04)
ローゼリウスハウス [Roselius Haus] (左) と グロッケンシュピール [Glockenspiels] (右)
ローゼリウスハウスはベットヒャー通りを私財で造ったローゼリウスの家。 ローゼリウスはコーヒー貿易で巨万の富を得て自分の思う街並みを造ろうと、通りや自分の家を造っている。 ローゼリウスハウスはレンガ造りの切妻屋根の破風が階段状となっており、ハンザ同盟で栄えたギルドハウスによく似た家の造りになっている。 1588年に完成した Roselius House は、14世紀に建てられた土台の上に建てられ、歴史的なベトヒャー通り [Böttcherstraße] (樽屋通り) の最も古い建物となっている。 現在はルートヴィヒ・ローゼリウス博物館 [Ludwig Roselius Museum] として使用されている。
「東北東」MAPLay. C
ローゼリウスハウス (左) と グロッケンシュピールの家 (右) の境目にある板絵 (17:04)
12~18時の毎正時に鐘の音に合わせて時計の左下にある板絵が回転を始め、コロンブスやリンドバーグなど大航海時代をテーマにした絵が回りながら現れる。 正時が近づくと多くの観光客が集まり、ひときわ熱い視線を集める。
「東」MAPLay. C
ベトヒャー通り [Böttcherstraße] (樽屋通り) にある板絵 (17:06)
12~18時の毎正時になると鐘の音に合わせて板絵が回転を始め、観光客の視線を集める。
「南」MAPLay. C
ベトヒャー通り [Böttcherstraße] (樽屋通り) にある板絵 (17:06)
12~18時の毎正時になると鐘の音に合わせて板絵が回転を始め、観光客の視線を集める。
「西南西」MAPLay. C
ベトヒャー通り [Böttcherstraße] (樽屋通り) にある板絵 (17:06)
12~18時の毎正時になると鐘の音に合わせて板絵が回転を始め、観光客の視線を集める。
「北西」MAPLay. C
ベトヒャー通り [Böttcherstraße] (樽屋通り) にある板絵 (17:07)
12~18時の毎正時になると鐘の音に合わせて板絵が回転を始め、観光客の視線を集める。
「北」MAPLay. C
ベトヒャー通り [Böttcherstraße] (樽屋通り) (17:08)
ベトヒャー通りは、「秘密のメインストリート」と呼ばれるブレーメンで一番人気のストリート。 この通りは、1920年代にコーヒー商人として成功したローゼリウスが、中世の街並みを再現しようと私財を投じ、一流建築家たちに依頼し1923年から1931年にかけて、中世の町並みを再現し造った。 個性あふれるレンガ造りの建物が並ぶ美しい小路は、まさに中世の世界。 わずか100mあまりの短い通りに、美術館、映画館、高級ブランド店、レストランなどが並ぶブレーメンの目抜き通りとして知られている。
「北東」MAPLay. C
ベトヒャー通り [Böttcherstraße] (樽屋通り) (17:09)
"Böttcherstraße" は中世の頃、マルクト広場とヴェーザー川 [Weser] にある港を繋ぐ重要な通行路であった。 そこには食料を運搬したり保存するための樽を作る多くの樽職人 (北ドイツ語:Böttcher) が住んでいた事から伝統的に樽屋通 [Böttcherstraße] りと呼ばれていた。 (Straße は通りを意味する)
「南西」MAPLay. C
Handwerkerhof (職人広場)のルートヴィヒ・ローゼリウス [Ludwig Roselius] 像 (17:09)
台座には下記の様に記されている。
「東南東」MAPLay. C

Ludwig Roselius (ルートヴィヒ・ローゼリウス)
Begründer der Böttcherstraße (ベトヒャー通りの創設者)
Plastik von BERNHARD HOETGER (ベルンハルト・ヘトガーによる彫刻作品)
Handwerkerhof (職人広場) (17:09)
ベトヒャー通りの中ほどにある Handwerkerhof (職人広場) という中庭。 飴作りの実演が見られる可愛いキャンディショップ「Bonbon Manufaktur」の前に泉があって、良く見ると水道管の上にブレーメンの音楽隊の姿がある。 この像は、ヴェーザー川を歩いてマルクト広場へ向かっているシーンを描いている。 2014年に鶏が盗まれたが、今 (2015年7月現在) は復元されている。
「南」MAPLay. C
Handwerkerhof (職人広場) (17:10)
水管には4匹の動物たちがいて、ロバを先頭にイヌ、ネコ、ニワトリの順で一列に並んでいる。 泉の周りの窪みで寝そべっているのはブレーメンに伝わる「7人の怠け者」(下段参照) たち。 (左端の壁面には前掲のローゼリウス像がある)
「東」MAPLay. C
Handwerkerhof (職人広場) (17:10)
「7人の怠け者」の逸話は、ある商人の7人の息子が揃って怠け者で、遠くまで水を汲みにいくのが嫌だったので町の真ん中に泉を作り、そのおかげで町の人々は重労働から解放された、という昔話。 彼らは怠けたいが故に様々な工夫をし、結果として町を発展させた。 ローゼリウスは自らを8番目の怠け者と称し、7人の顔を自分とそっくりにしている。
「東南東」MAPLay. C
壁面に貼られたベトヒャー通り [Böttcherstraße] (樽屋通り) の案内図 (17:11)
「南南東」MAPLay. C
パウラ・モーダーゾーン=ベッカー・ハウス [Paula Becker-Modersohn House] 前にて (17:11)
「南」MAPLay. C
ベトヒャー通り [Böttcherstraße] (樽屋通り) の入口 (マルクト広場側) (17:11)
入口の左側には、パウラ・モーダーゾーン=ベッカー・ハウス [Paula Becker-Modersohn House] がある。
「南西」MAPLay. C
左の前方に伸びる通りはベトヒャー通り [Böttcherstraße] (樽屋通り) (17:12)
右斜め前方に伸びる通りは、ヒンター・デム・シュッティング [Hinter dem Schütting] (シュッティングの裏通り) 。
「西南西」MAPLay. C
ブレーメン・マルクト広場 [Bremer Marktplatz] (17:13)
「東」MAPLay. C
ブレーメン・マルクト広場 [Bremer Marktplatz] (17:13)
「東南東」MAPLay. C
ブレーメン・マルクト広場 [Bremer Marktplatz] (17:14)
2つの尖塔を持つ教会は、聖ペトリ大聖堂 [St. Petri Dom Bremen] 。
「南東」MAPLay. C
ブレーメン旧市庁舎 [Bremer Altes Rathaus] の南東部にあるゴシック砂岩壁の入口 (17:15)
右側に隣接した建物は、新市庁舎 [Neues Rathaus] 。
「北」MAPLay. C
南から見た新旧市庁舎の位置関係
壁面に人物像がある建物が、ブレーメン旧市庁舎 [Bremer Altes Rathaus] 。 その右に増築された形で、建っているのが、新市庁舎 [Neues Rathaus] 。
写真出典:Wikipedia
聖ペトリ大聖堂 [St. Petri Dom Bremen] (17:15)
マルクト広場に面して立つ聖ペトリ大聖堂は2つの尖塔を持つゴシック様式の聖堂。 ドイツで最古で最大の教派の教会の一つで、内部は美しいレリーフやステンドグラスで装飾されている。 また、この大聖堂には博物館が併設されていて、銀の祭壇や、中世の司祭の墓、絵画などの展示がされている。
この教会の歴史は大変古く、最初の木造大聖堂は789年にサクソン人の司教 "Willehad" によって建てられ、805年頃に石造りの建物に置き換えられた。 聖堂は1041年の火災で全焼し、1068年に現在の大聖堂の建設が始まった。 1100年ごろには3つの通路を持つ大聖堂が完成し、1250年ごろには塔が完成した。 これが今日のブレーメン大聖堂の基本的な建造物になっている。 そして1456~1463年の間に現在の姿のゴシック様式で改装されたが、聖堂は宗教改革の最中1561年から77年間閉鎖され、その後1638年にプロテスタント(ルター派)の教会として再開されたが次第に崩壊していった。 そこで1888年から1901年にかけて第一次大修復が行われたが、第二次世界大戦中、大聖堂は数回の爆撃の犠牲となり、1972年から1985年にかけての大規模な修復を余儀なくされた。 こうした度重なる改修によって、聖ペトリ大聖堂はゴシックやバロック様式など異なる建築様式が混合された姿となっている。 左端に立っている騎馬像は、オットー・フォン・ビスマルク [Otto von Bismarck] の騎馬像。
「南南東」MAPLay. C
ブレーメン旧市庁舎 [Bremer Altes Rathaus] の南東部にあるゴシック砂岩壁の入口 (17:16)
「北西」MAPLay. C
ブレーメン旧市庁舎 [Bremer Altes Rathaus] のアーケード (17:16)
右の壁面は、旧市庁舎の南西壁面。
「北西」MAPLay. C
ブレーメン・マルクト広場 [Bremer Marktplatz] (17:16)
「南東」MAPLay. C
ブレーメンのトラム(路面電車) (17:16)
旧市庁舎のすぐ横をトラムが走っている。
「北西」MAPLay. C
マルクト広場に立つローラント像 [Bremen Roland] (17:17)
1404年に立てられたこの像は、ブレーメンの自治都市としての尊厳を象徴するもので、当初 (1366年) は木像だったが、ブレーメン大司教の手によって放火され消失した後、石造で再建された。 ブレーメンの象徴とされたこの像は度々倒壊の危機に見舞われたが、その度に市民の手によって守られ続けた。 第二次世界大戦時には、市民の手によって築かれた煉瓦製のシェルターによって保護されていたほどである。 言い伝えでは、この像がブレーメンを見守り続ける限り、その自由と独立は守られるとされてきた。 このため、市庁舎の地下には、オリジナルが倒壊したときのために第二のローラント像が秘匿されているなどと、まことしやかに語られることがある。
(UNESCO 世界遺産登録: 2004年)
出典:Wikipedia
「北北西」MAPLay. C
マルクト広場に立つローラント像 [Bremen Roland] (17:17)
高さ10メートルのローラント (ローラン ) 像は、ブレーメンのマルクト広場に600年近くにわたって立つ。 キリスト教徒の騎士で、神聖ローマ帝国皇帝 シャルルマーニュ (在位800-14年) の甥であるローラント [Roland] は、ブレーメンの独立と自由を象徴している。 ローラントの目はまっすぐに大聖堂に向けられている。 そこに住む司教が、ブレーメンの自治を奪おうとすることも度々あったからだ。 ローラントの正義の剣は司法の独立を象徴し、そこには、皇帝が発した、ブレーメンに自治権を認める勅命が刻まれている。 建築家・彫刻家として有名なバルラー家の一員が1404年にこの像を彫り、これをモデルにした像が、ドイツのほかの町にも35体置かれている。
「北北西」MAPLay. C
ブレーメン音楽隊の記念像 [Bremer Stadtmusikanten Denkmal] (17:20)
ブレーメン旧市街の市庁舎横の左横には、音楽隊の2mほどの高さの銅像 (ロバ、イヌ、ネコ、ニワトリ) が立てられ、自分たちの街に因む物語として広く受け入れられている。 この像はゲルハルト・マルクス [Gerhard Marcks] により、1953年に製作されたもので、世間では、この銅像のロバの前足を撫でながら願い事をすると願いが叶うと信じられている。 多くの人が触れるため光り輝いている。
「東」MAPLay. C
ブレーメン旧市庁舎 [Bremer Altes Rathaus] (17:21)
ブレーメンのゴシック様式市庁舎のすばらしさは、なんといってもその荘厳なファサードにある。  建築家リューダー・フォン・ベントハイム [Lüder von Bentheim] が、1595年から1612年にかけて全面的に改修したこのファサードは、ヴェーザー・ルネサンス様式建築の傑作とされている。 この様式は、1520年 から1630年にかけて、北ドイツのヴェーザー地方で主流となったもの。 イタリア (トスカーナ州) を旅し、そこで見 たルネサンス建築に感銘を受けた貴族たちは、 帰国するとそれを模倣して自分たちの設計に取 り入れようとした。 装飾用切妻とアーケードに沿わせたフリーズがこの様式の特徴であり、また張り出し窓は多くの像で飾られている。
「東南東」MAPLay. C
聖母教会 [Unser Lieben Frauen Kirche] (左) と 市庁舎 (右) (17:22)
「東北東」MAPLay. C
シュッティングの家 [Haus Schütting] (17:40)
前掲の "シュッティングの家" のファサード。
「南西」MAPLay. C
ブレーメン・マルクト広場 [Bremer Marktplatz] (17:41)
「東」MAPLay. C
ブレーメン旧市庁舎 [Bremer Altes Rathaus] (17:43)
600年以上そのままで一度も壊されたことも無く、一度も焼けた事の無いブレーメンの旧市庁舎は1405年から1409年に建てられ600年以上そのままの姿で立っている。
建てられた当時はゴシック調の建物で、窓も小さかったがブレーメンはハンザ都市として栄え1595年から1612年にかけ、建築家リュダー・フォン・ベントハイム [Lüder von Bentheim] によって修復工事が行われた。 その際、トスカーナ (イタリアの州) 風のアーチとバルコニーが付け加えられた。 バルコニーの上に見える8体の立像はコピーで、ゴシック時代からあった本物は、郷土博物館で保管展示されている。 8体の立像は、カール大帝と7人の選帝侯たちを表したもので、1番左の立像は、神聖ローマ帝国皇帝の権力の象徴である球体に十字架が載った帝国宝珠を持っていることからカール大帝と思われる。 ブレーメンは787年にカール大帝によって司教座都市に指定された経緯がある。
屋根は青銅で葺かれ、 ファサードは三つのギーベル [Giebel] (切妻壁) で装飾されている。 中央の大きな ギーベルの下にある部屋は ギルデンの間 [Güldenkammer] で、壁は金箔張りの革製壁紙 (17世紀) で覆われている。 この市庁舎は博物館ではなく、今でも300人収容できる晩餐会や来賓の持て成し、コンサートなどの会場として使用されている。 長さが40メートルあり、当時ドイツで1番大きな市庁舎の一つであったと言われている
「北東」MAPLay. C
マルクト広場にあるブレーメン旧市庁舎 [Bremer Altes Rathaus] (17:43)
旧市庁舎がゴシック様式で建てられたのは、1405年から1409年のことだった。 1595年から1612年に、建築家リュダー・フォン・ベントハイム [Lüder von Bentheim] が手直しをし、広場を見渡す新しいヴェーザー・ルネサンス様式のファサードを付け加えた。 ヴェーザー・ルネサンス様式 [Weser Renaissance] で建てられたファサードは、ハンス・フレーデマン・デ・フリース [Hans Vredeman de Vries] 、ヘンドリク・ホルツィウス [Hendrik Goltzius] 、ヤコブ・フロリス [Jacob Floris] といったオランダ・ルネサンスの巨匠たちによって基礎付けられた建築的要素に特徴付けられている。 1909年から1913年の間に、ミュンヘンの建築家ガブリエル・フォン・ザイドル [Gabriel von Seidl] によって、建物後部にネオルネサンス様式での追加が行われた。 バルコン (バルコニー) の上に見える立像は、カール大帝と7人の選帝侯たちをあわらしている。 ブレーメン市の60%以上が灰燼と帰した第二次世界大戦中の爆撃では、市民たちは市庁舎の外壁を囲いによって覆い、戦火から守り抜いた。この市庁舎は何度も改修されているが、一番新しい改修は2003年のことである。
UNESCO 世界遺産登録: 2004年
出典:Wikipedia
「北北東」MAPLay. C
ブレーメン・マルクト広場 [Bremer Marktplatz] (17:43)
ブレーメンの旧市庁舎 [Bremer Altes Rathaus] と、その左に見えるのは、尖塔を持つ聖母教会 [Unser Lieben Frauen Kirche] 。
「北北東」MAPLay. C
Haus Schütting 前から見るマルクト広場 [Bremer Marktplatz] (17:44)
シュッティングの家 [Haus Schütting] の前で遭遇した結婚式。
「北東」MAPLay. C
Haus Schütting 前から見るマルクト広場 [Bremer Marktplatz] (17:44)
シュッティングの家 [Haus Schütting] は現在、商工会議所となっているが、結婚式もここで行える。
「北東」MAPLay. C



ハンブルグ・クラウン・プラザ・ホテル [Crowne Plaza Hamburg]

《真夏の夜の夢》: 第7曲: 夜想曲
Crowne Plaza ホテルに到着 (19:39)
「南南東」MAPLay. D
Crowne Plaza ホテルに到着 (19:39)
「東」MAPLay. D
Crowne Plaza ホテルに到着 (ロビー) (19:40)
MAPLay. D
Crowne Plaza ホテルに到着 (ロビー) (19:43)
MAPLay. D
Crowne Plaza ホテルに到着 (ロビー) (19:46)
MAPLay. D
Crowne Plaza ホテル客室内部 (19:58)
MAPLay. D
Crowne Plaza ホテル客室内部 (19:59)
MAPLay. D
Crowne Plaza ホテル周辺の散策に出かける (21:15)
「東」MAPLay. D
Crowne Plaza ホテルの近くにある "外アルスター湖" [Außenalster] (21:23)
アルスター湖は人工湖で、内アルスター湖 [Binnenalster] と外アルスター湖 [Außenalster] に別れ、大きい方が外アルスター湖。
「西」MAPLay. D
アルスターヴィーゼ・シュヴァネンヴィク [Alsterwiese Schwanenwik] (21:25)
バーベキューや日光浴のための娯楽場所として、非常に人気がある公園。 以前は、私有地であったが、1952年に公園として整備され市民に解放された。 この公園は、"外アルスター湖" [Außenalster] に沿って設けられた遊歩道に接しており、特に "外アルスター湖" を一周するサイクリストやランナーに人気がある。
因みに、"Alsterwiese" はアルスターの草原 (牧草) を "Schwanenwik" は白鳥の柵を意味する。
「北北東」MAPLay. D
"外アルスター湖" [Außenalster] (21:26)
アルスター湖は、アルスター川を堰(せ)き止めて造られた人工湖で、大小二つの湖がある。 大きい方は外アルスター (アウセンアルスター) 湖、小さい方は内アルスター (ビンネンアルスター) 湖と呼ばれる。
「西」MAPLay. D
"外アルスター湖" [Außenalster] (21:28)
「西北西」MAPLay. D
シュヴァネンヴィーク橋 [Schwanenwik Brücke] (21:33)
「北北西」MAPLay. D
シュヴァネンヴィーク橋 [Schwanenwik Brücke] (21:35)
「南南東」MAPLay. D
散策からホテルに帰着 (21:45)
「東南東」MAPLay. D


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