旅の栞(ドイツ)
7月17日
ヴィースの巡礼教会ノイシュヴァンシュタイン城 {
往路 (マリエン橋を含む)城内復路 } ~
ニンフェンブルク城 (ミュンヘン)

2024年5月31日(金)10:00をもちましてURLは下記の通り変更になります。
https://arisada.wjg.jp/deutschland/newpage8.html


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アジムット ホテル ミュンヘン [AZIMUT Hotel Munich]
朝食レストラン
MAPLay. A
朝食レストラン
MAPLay. A
エントランスホール
出発までのひととき。
MAPLay. A
バックヤード
出発までのひととき。
MAPLay. A



ヴィース教会 [Wieskirche]
ロマンティック街道 [Romantische Straße] (ローマへの巡礼の道) 上の街シュタインガーデンに向かう途中の牧場に、「草原の教会」ともよばれるヴィース教会 [Wieskirche] (MAP) がぽつんと立っている。 現在、内陣奥の主祭壇に安置されている「鞭打たれるキリスト」 (Photo) の木像は、1730年に "シュタインガーデン修道院" [Kloster Steingaden] (MAP) で、"マグナスストローブ神父" [Pater Magnus Straub] と "ルーカスシュヴァイガー兄弟" [Bruder Lukas Schweiger] によって、当時慣例となっていた聖金曜日の聖体行列のために彫られたが、その悲惨な姿のために、間もなく使われなくなり、修道院の屋根裏に放置されたままになっていた。 それを哀れに思った農婦マリア・ ロリーは像を譲り受け、数カ月の間、熱心に祈りを捧げ続けた。 そして1738年6月14日、その日の夕方と翌朝に、鞭打たれるキリスト像が涙を流すのを見た。 教会ではこれを奇跡とは認定しなかったが、この噂は「ヴィースの涙の奇跡」として広まり、近隣諸国からも多くの巡礼者が農家に訪れるようになった。 そのため1740年に、牧草地の小さな礼拝堂に移したが、巡礼者は増える一方であった。 そこでシュタインガーデン修道院が先頭に立ち、一般からの浄財を募るなどして建設資金を捻出し、1746年からヴィース教会の建築が始まった。 1754年には献堂式が行われ、最終的に完成したのは1757年であった。 今では年間100万人が訪れる名所となっている。 聖なる像を納めるヴィース教会は、当時の高名な建築家ツィンマーマン兄弟の手で1754年に完成した。 外観からは想像もつかない装飾に満ちたその内部は、ロココ様式の最高傑作といわれ、見る者を驚嘆させる。 主祭壇は、弟 "ドミニクス・ツィンマーマン" [Dominikus Zimmermann] の傑作、中央天井の "最後の審判" のフレスコ画は、兄の "ヨハン・バプティスト・ツィンマーマン" [Johann Baptist Zimmermann] の作品。 アウグスティヌスの像やイル力に乗った少年像、プッティ [Putti] とよばれる天使像など、 細部まで緻密な技巧が凝らされている。 ドミニクスは、その後も教会のそばから離れず、近くに家を建てて生涯を送ったという。 いかに彼が全身全霊を傾け、この教会を造ったか、そのエピソードからもうかがえる。 尚、1983年に世界文化遺産に登録されている。

野ばら [Heidenröslein]
ヴィースの巡礼教会 [Pilgerkirche von Wies]
左奥が1757年に完成したヴィース巡礼教会。 右手前の小さな建物は1740年に建てられた旧ヴィース礼拝堂で、最初のミサはここで1744年3月17日に行われた。
「南南東」MAPLay. A
ヴィースの巡礼教会 [Pilgerkirche von Wies] への巡礼道
ヴィース教会の正式な名称は、《Die Wallfahrtskirche zum Gegeißelten Heiland auf der Wies》 。
"Wallfahrtskirche" は巡礼教会を、"Gegeißelten" はムチ打ち、洗礼された、聖霊降臨、などを、"Heiland" は救世主、キリスト、を意味する。 1例として、"ヴィースの洗礼された救世主への巡礼教会" などと訳される。 尚、教会の守護聖人は聖ヨセフ
「南南東」MAPLay. A
ヴィースの巡礼教会前から旧ヴィース礼拝堂を見る
中央に見える小さな建物が、旧ヴィース礼拝堂 [Old Wies Kapelle] 。
「北北西」MAPLay. A
ヴィース教会内部の撮影位置と撮影方向を示す。
                    
  1 Der Prophet Nathan vor König David (ダビデ王の前の預言者ナタン)
  2 Jesus und die Ehebrecherin (イエスと姦淫)
  3 Berufung des Zöllners Matthäus (収税人マテウスの召命)
  4 Petrus verleugnet Jesus (ペテロはイエスを否定)
  5 Jesus und die Samariterin (イエスとサマリア人の女性)
  6 Jesus und die Sünderin (イエスと罪人)
  7 Jesus und Zachäus (イエスとザッカエウス)
  8 Jesus und der Schächer (イエスと泥棒)
  9 Gleichnis vom Feigenbaum (イチジクの木の例え)
 10 Heilung eines Gelähmten (麻痺した男の癒し)
 11 Auferweckung des Lazarus (ラザロの蘇生)
 12 Heilung zweier Blinder (二人の盲目の癒し)
 13 Heilung eines Kranken (病人の癒し)
 14 Dämonenaustreibung (悪魔の追放)
 15 Jesus verkündet Armen die Frohe Botschaft (イエスは貧しい人々に福音を述べ伝える)
 16 Die Wiederkunft Christi in Herrlichkeit am Jüngsten Tag (審判の日における、キリストの栄光の復活)
 17 Darbringung der Arma Christi (キリストが犠牲となった苦しみの道具)

 写真出典:Wikimedia Commons (1-16)
ヴィース教会 [Wieskirche] <Plan>
入口を入った所にある玄関間の天井装飾。 玄関間は、拝廊 [Narthex] とも呼ばれる。
MAPLay. A
拝廊から身廊部に入った所<Plan>
身廊に踏み入れた頭上には、パイプ・オルガンを設置した楽廊 (がくろう) があり、正面の内陣奥には、主祭壇に安置された「鞭打たれるキリスト」 (Photo) の木像が安置されている。 因みに、楽廊は英語で "トリビューン" [tribune] と呼ばれる。
MAPLay. A
拝廊から身廊部に入った所<Plan>
身廊に踏み入れた頭上には、パイプ・オルガンを設置した楽廊 (がくろう) があり、その下面には、建物の制作者として、誇らしげに "ドミニクス・ツィンマーマン" の碑文 《 Dominicus Zimerman / Baumeister v: Landsperg 》 が飾られている。
( "Dominicus Zimerman" は、ドミニクス・ツィンマーマンを、"Baumeister v: Landsperg" は、建築家出身地:Landsperg を意味する。)
ドミニクスは、ランツベルク・アム・レヒ [Landsberg am Lech] (MAP) に住んでおり、1748年から1753年まで市長を務めた事もある。 (因みに、ヴィース教会の建築期間は1746年から1757年)
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Parusie-Die Wiederkunft des Herrn in Herrlichkeit (最後の審判-栄光の主の復活) <Plan>
身廊中央の天井画は、ドミニクスの兄の "ヨハン・バプティス卜・ツインマーマン" [Johann Baptist Zimmermann] のロココ様式のフレスコ画 (Buon Fresco 細部は Fresco Secco) 。 復活を果たしたキリストは虹の玉座に座って世界を統べている。 彼は両脇を天使と使徒たちに守られながら、金色に輝く十字架を指さしている。 天使はラッパを吹き鳴らし、最後の審判のときが来たことを告げている。 キリストが下の玉座に座ったとき、審判が下される。 ツィンマーマン兄弟は絵画のみならず、建築と装飾も手掛けている。
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身廊から観る内陣<Plan>
身廊と内陣の境の、左の柱に、鳥の巣箱の様に取り付けられているのは、ドミニクス・ツィンマーマンの設計による説教壇で、神の言葉を聖霊が地上にもたらすという、聖霊降臨をテーマにした装飾が施されている。 説教壇の下には、ギリシャ神話に出てくる、"イルカに乗った少年" を象った装飾がある。 (↓)
右側 (南側) の柱に、説教壇と対称的に取り付けられているのは "Abtsloge" 。 平たく言えば、修道院院長の "お立ち台" 。 英語では、"Abbot's matroneum" と表記される。
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説教壇の装飾 "イルカに乗った少年"
中央の右手を上げた小さな男の子が、イルカに乗った少年。
写真出典:Wikimedia Commons
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南翼廊の祭壇«Bruderschaftsaltar des Gegeisselten Herrn»<Plan>
「ムチ打たれる主の兄弟祭壇」。
身廊の南側 (右) には、小祭壇があり、祭壇画は、"ジョセフ・メイジス" [Joseph Mages] (アーティスト・リストに記載されている) の作品で、"ペトロがイエスを否認する場面" を描いている。 祭壇は、"ドミニクス・ツィンマーマン" [Dominikus Zimmermann] のデザインに基づいて、タルクハイム [Türkheim] の祭壇大工、"ドミニクス・ベルグミュラー" [DominikusBergmüller] が制作し、 大理石と金の装飾は、"ベルンハルト" [Bernhard] と "ユダスタダウスラミス" [Judas Thaddäus Ramis] が行っている。 (1758-1759年)
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ペテロの否認
最後の晩餐の時、キリストは十二使徒のペトロに対して「貴方は鶏が鳴く前に、三度私の事を知らないというだろう」と告げ、ペトロは「そんな事はありえません!」と返した。 その翌日、裏切者のユダが銀貨30枚でユダヤの祭司長たちにキリストを売り渡してしまう。 ペトロはキリストを守ろうと努力したが失敗。 使徒たちは事件に怯え、その場から逃げ去ってしまった。 その後、責任を感じたペトロはキリストが捕らえられている屋敷に忍び込み、様子を窺っていると、女中の一人に見つかり、「あなた、イエスと一緒にいたでしょ」と詰問されると、ペトロは「違う、知らない」と否定した。 ペトロが三回否定した時、鶏が鳴くのを聞いて、かつてキリストに言われたことを思い出し、「その通りだった!」とペトロは号泣した。
北翼廊の祭壇«Bruderschaft für die Armen Seelen»<Plan>
「貧しい魂の兄弟」に捧げられた北の祭壇。
身廊の北側 (左) には、小祭壇があり、祭壇画は、"ヨハン・ゲオルグ・ベルクミュラー" [Johann Georg Bergmüller] (アーティスト・リストに記載されている) の作品で、"罪の女 マグダラのマリア がシモンの家でイエスの足に香油を塗る場面" [Maria Magdalena wäscht Christus die Füße] を描いている。 祭壇は、"ドミニクス・ツィンマーマン" [Dominikus Zimmermann] のデザインに基づいて、タルクハイム [Türkheim] の祭壇大工、"ドミニクス・ベルグミュラー" [DominikusBergmüller] が制作し、 大理石と金の装飾は、"ベルンハルト" [Bernhard] と "ユダスタダウスラミス" [Judas Thaddäus Ramis] が行っている。 (1756年)
柱の前に立っている2つの大きな白い像と、祭壇の左右に立っている2つの小さな像は、いずれも、フュッセンに住んでいるチロル人彫刻家のアントンシュトゥルム [Anton Sturm] (1690–1757)の作品。
左の大きな像は、アウグスティヌス [Augustinus] 、右の大きな像は、グレゴリウス1世 [GregoriusⅠ] で、主にラテン語で著述を行った4大ラテン神学者 (教父) のうちの2人。
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パイプ・オルガンを設置した楽廊 [tribune*] <Plan>
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"tribune" は、13世紀以降は主として聖堂正面入口の上にこれを設け,パイプ・オルガンなどの設置に利用されている。
北翼廊の祭壇«Bruderschaft für die Armen Seelen» <Plan>
「貧しい魂の兄弟」に捧げられた北の祭壇。
身廊の北側 (左) には、小祭壇があり、祭壇画は、"ヨハン・ゲオルグ・ベルクミュラー" [Johann Georg Bergmüller] (アーティスト・リストに記載されている) の作品で、"罪の女 マグダラのマリア がシモンの家でイエスの足に香油を塗る場面" [Maria Magdalena wäscht Christus die Füße] を描いている。 祭壇は、"ドミニクス・ツィンマーマン" [Dominikus Zimmermann] のデザインに基づいて、タルクハイム [Türkheim] の祭壇大工、"ドミニクス・ベルグミュラー" [DominikusBergmüller] が制作し、 大理石と金の装飾は、"ベルンハルト" [Bernhard] と "ユダスタダウスラミス" [Judas Thaddäus Ramis] が行っている。 (1756年)
祭壇の左右に立っている白い像は、フュッセンに住んでいるチロル人彫刻家のアントンシュトゥルム [Anton Sturm] (1690–1757)の作品。
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南翼廊の祭壇«Bruderschaftsaltar des Gegeisselten Herrn»<Plan>
「ムチ打たれる主の兄弟祭壇」。
身廊の南側 (右) には、小祭壇があり、祭壇画は、"ジョセフ・メイジス" [Joseph Mages] (アーティスト・リストに記載されている) の作品で、"ペトロがイエスを否認する場面" を描いている。 祭壇は、"ドミニクス・ツィンマーマン" [Dominikus Zimmermann] のデザインに基づいて、タルクハイム [Türkheim] の祭壇大工、"ドミニクス・ベルグミュラー" [DominikusBergmüller] が制作し、 大理石と金の装飾は、"ベルンハルト" [Bernhard] と "ユダスタダウスラミス" [Judas Thaddäus Ramis] が行っている。 (1758-1759年)
柱の前に立っている2つの大きな白い像と、祭壇の左右に立っている2つの小さな像は、いずれも、フュッセンに住んでいるチロル人彫刻家のアントンシュトゥルム [Anton Sturm] (1690–1757)の作品。
左の大きな像は、アンブロジウス [Ambrosius] 、右の大きな像は、ヒエロニムス [Hieronymus] で、主にラテン語で著述を行った4大ラテン神学者 (教父) のうちの2人。
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ペテロの否認
最後の晩餐の時、キリストは十二使徒のペトロに対して「貴方は鶏が鳴く前に、三度私の事を知らないというだろう」と告げ、ペトロは「そんな事はありえません!」と返した。 その翌日、裏切者のユダが銀貨30枚でユダヤの祭司長たちにキリストを売り渡してしまう。 ペトロはキリストを守ろうと努力したが失敗。 使徒たちは事件に怯え、その場から逃げ去ってしまった。 その後、責任を感じたペトロはキリストが捕らえられている屋敷に忍び込み、様子を窺っていると、女中の一人に見つかり、「あなた、イエスと一緒にいたでしょ」と詰問されると、ペトロは「違う、知らない」と否定した。 ペトロが三回否定した時、鶏が鳴くのを聞いて、かつてキリストに言われたことを思い出し、「その通りだった!」とペトロは号泣した。
内陣と身廊の境界部<Plan>
赤いロープより左側が内陣で、右側は身廊に当たる。 赤いロープが結ばれている柱には、ドミニクス・ツィンマーマンの設計による、 "Abtsloge" が取り付けられている。 "Abtsloge" は、平たく言えば、修道院院長の "お立ち台" 。 英語では、"Abbot's matroneum" と表記される。
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内陣 (聖歌隊) の天井フレスコ画 "Darbringung der Arma Christi"<Plan>
"Darbringung" は、神への宗教的な犠牲を、 "Arma Christi" は、ラテン語で "苦しみの道具" を意味し、キリストの受難の道具の象徴的な表現を指す。(たとえば、ムチ、釘、槍、いばらの冠、など)。
MAPLay. A
ヴィース教会の高祭壇 [Wieskirche high altar]<Plan>
祭壇は、2階建ての構造になっており、下段には「鞭打たれるキリスト」の木像が、上段には祭壇画が飾られており、白い4人の伝道者と2人の預言者いる額縁は、 "ドミニクス・ツィンマーマン" [Dominikus Zimmermann] の作業場で、アウグスブルクの法廷彫刻家 "エジッド・ヴェルヘルスト・ザ・エルダー" [Egid Verhelst der Ältere](1696–1749)が制作したものと考えられている。 聖家族を描いた祭壇画は、ミュンヘンの宮廷画家 "バルタザールオーガスティンアルブレヒト [Balthasar Augustin Albrecht] (1687–1765)が制作している。。
MAPLay. A
天井のフレスコ画<Plan>
内陣 (聖歌隊) の天井フレスコ画 "Darbringung der Arma Christi" 及び、身廊の天井フレスコ画 "最後の審判" 。
MAPLay. A
天井のフレスコ画<Plan>
ドミニクス・ツィンマーマン [Dominikus Zimmermann] の傑作 "最後の審判" 。
MAPLay. A
天井のフレスコ画<Plan>
ドミニクス・ツィンマーマン [Dominikus Zimmermann] の傑作 "最後の審判" 。 及び、パイプ・オルガンが設置されている楽廊と、その下の拝廊。
MAPLay. A
身廊から拝廊側を観る<Plan>
天井フレスコ画の "最後の審判" 、パイプ・オルガンのある楽廊、その下にある拝廊が一望できる。
MAPLay. A
南翼廊の祭壇«Bruderschaftsaltar des Gegeisselten Herrn»<Plan>
「ムチ打たれる主の兄弟祭壇」。 左端にカーテンで仕切られた小部屋は告解室で、身廊内に4カ所ある。
MAPLay. A
南翼廊の祭壇«Bruderschaftsaltar des Gegeisselten Herrn»<Plan>
「ムチ打たれる主の兄弟祭壇」。
柱の前に立っている2つの大きな白い像と、祭壇の左右に立っている2つの小さな像は、いずれも、フュッセンに住んでいるチロル人彫刻家のアントンシュトゥルム [Anton Sturm] (1690–1757)の作品。
左の大きな像は、アンブロジウス [Ambrosius] 、右の大きな像は、ヒエロニムス [Hieronymus] で、主にラテン語で著述を行った神学者(教父)のうちの2人。
MAPLay. A
身廊から拝廊方向を観る<Plan>
この教会の装飾の主役はこの可愛らしい "プッティ" [Putti] (翼の生えた裸の男児) と呼ばれる天使や童子である。 彼らは至る所で金のスタッコ裝飾のツタに絡まれて登場する。 プッティは装飾全体を柔和なものにしている。
MAPLay. A
身廊から拝廊方向を観る<Plan>
左の楽廊に据えられいる美しいオルガンは、1757年に製作されたもので、ここにもスタッコ裝飾のツタが絡みついている。 まるでメロディーを奏でているかのような装飾は「目で見るメロディー」と称えられている。
MAPLay. A
旧ヴィース礼拝堂 [Old Wies Kapelle]
農婦マリア・ ロリーが、熱心に祈りを捧げたキリスト像は、「ヴィースの涙の奇跡」として噂が広まり、近隣諸国からも多くの巡礼者が農家に訪れるようになった、そのため1740年に小さな礼拝堂が建てられ、「鞭打たれるキリスト」像は、農家から、この小さな礼拝堂に移された。 1744年3月17日には、最初のミサがここで行われている。 しかし、巡礼者は増える一方で後を絶たず、ここから約140m南へ離れた牧草地に、新たにヴィース教会を建てる事になった。 教会の建築は1746年に始まり、1754年には献堂式が行われている。 装飾などを含めると、最終的に完成したのは1757年。 「鞭打たれるキリスト」像は、1749年、新しいヴィース教会の設備の完成を待って、8月31日に転送されている。 現在、この旧ヴィース礼拝堂には、1749年8月31日の転送の様子を描いた絵が、正面の祭壇に飾られている。 (↓)
「東南東」MAPLay. A
Wieskirche:Gemälde「 Geschichte der Wallfahrt zumGegeißeltenHeiland auf der Wies」 1749
ヴィース教会:絵画「ヴィースの聖霊降臨の巡礼の歴史」1749年
一番手前の赤い輿に乗って運ばれているのが、「鞭打たれるキリスト」 (Photo) の木像。
写真出典:Wikimedia Commons
旧ヴィース礼拝堂 [Old Wies Kapelle]
右側の壁には "ムチ打たれるキリスト" の絵が飾られている。
「東南東」MAPLay. A
旧ヴィース礼拝堂 [Old Wies Kapelle]
「東」MAPLay. A
旧ヴィース礼拝堂 [Old Wies Kapelle]
天井に開けられた穴は、ランタン塔 [Lantern tower] を象ったものと思われる。
「東」MAPLay. A
旧ヴィース礼拝堂 [Old Wies Kapelle]
ランタン塔 [Lantern tower] を象ったものと思われる。
「西北西」MAPLay. A
旧ヴィース礼拝堂 [Old Wies Kapelle]
左手前の白い建物が、旧ヴィース礼拝堂 [Old Wies Kapelle] 。 右奥に建っているのが、新しく造られた、ヴィース教会 [Wieskirche] 。
「南東」MAPLay. A



ノイシュヴァンシュタイン城 [Schloss Neuschwanstein]
{ 往路 (マリエン橋を含む)城内復路 }
ノイシュヴァンシュタイン城 [Schloss Neuschwanstein] (MAP) は、 バイエルン王ルートヴィヒ2世 (1845-86年) によって、1869年9月5日に建設作業は開始され、ルートヴィヒ2世が謎の死を遂げる1886年6月13まで続けられが、未完成部分を多く残して中止された。 建設当時の城の名は、"古城ホーエンシュヴァンガウ" の城址の上に建てられているため、"ホーエンシュヴァンガウ新城" と呼ばれていた。 現在の "ノイシュヴァンシュタイン" という名は、1886年になって、正式に発表された名前だが、実は誤って命名されたもので、本来なら "ホーエンシュヴァンガウ新城" [Neue Burg Hohenschwangau] となるべきところだった。

ノイシュヴァンシュタインの「中世の城」というイメージは外観だけであり、石造りではなく鉄骨組みのコンクリートおよびモルタル製で、内部には、当時の最先端テクノロジーを取り入れている。 たとえば、王室の居室はセントラルヒーティング完備であり、どの階にも水道が引かれ、厨房には温水と冷水が供給されている。 ダイニング・ルームには、料理などを運ぶ小型エレベーターつきの厨房がある。 城の4階と5階には電話の差込ロと呼び出し用の電動ベルもある。 また、ドイツの城館に本来は必ずあるべき小聖堂や墓地がない。 これらの点から古建築保存を目的とする世界遺産になっていないと思われてきたが、2015年にリンダーホーフ城やヘレンキームゼー城とともにユネスコの世界遺産暫定リストに登録されている。

(参考)
シュロス [Schloss、Schloß] (城) 、ホーエン [Hohen] (高い、上) 、ノイ [Neu] (新しい) 、シュヴァン[schwan] (白鳥) 、シュタイン [stein] (石) 、ガウ [gau] (地区、里) を意味する。

森を歩こう [A Walk in the Black Forest]
出典:世界歴史建築大図鑑
アルゴイアー通り [Allgäuer Str.] (B17号線)
左に見えるガソリンスタンドは、Agip Service Station 。
「南」MAPLay. B

森を歩こう [A Walk in the Black Forest]
アルゴイアー通り [Allgäuer Str.] (B17号線)
「南南西」MAPLay. B
ロマーンティッシェ通り [Romantische Str.] (B17号線)
「南西」MAPLay. B
(ドイツ連邦道路 B17号線)
「南南西」MAPLay. B
(ドイツ連邦道路 B17号線)
右前方の湖はバンヴァルト湖 [Bannwaldsee] 。
「西南西」MAPLay. B
コロマン通り [Colomanstraße]
中央やや左に "ノイシュヴァンシュタイン城" が小さく見えている。
「南」MAPLay. B
コロマン通り [Colomanstraße]
中央やや左に "ノイシュヴァンシュタイン城" が小さく見えている。 右手に見える建物は、コロマン教会 [St. Coloman] 。
「南南西」MAPLay. B
コロマン教会 [St. Coloman] (車窓から)
「西」MAPLay. B
コロマン教会 [St. Coloman] (車窓から)
「西北西」MAPLay. B
コロマン通り [Colomanstraße]
中央やや左に小さく見えている白い建物は、ルートヴィヒ2世が建てた "ノイシュヴァンシュタイン城" 。 中央の右手に小さく見えているベージュ色の建物は、ルートヴィヒ2世が幼年期を過ごした城で、ルートヴィヒ2世の父 "マクシミリアン2世" が、12世紀に建設され廃墟になっていた "シュヴァンシュタイン城" [Schloß Schwanstein] を購入し、4年ほどの歳月を掛けて改築した "ホーエンシュヴァンガウ城" [Schloß Hohenschwangau] 。
「南南西」MAPLay. B
ホーエンシュヴァンガウ城 [Schloß Hohenschwangau]
"ホーエンシュヴァンガウ城" は、"ノイシュヴァンシュタイン城" [Schloss Neuschwanstein] を建てたルートヴィヒ2世が、幼年期を過ごした城で、"ルートヴィヒ2世" の父 "マクシミリアン2世" が、12世紀に建設され廃墟になっていた "シュヴァンシュタイン城" [Schloß Schwanstein] を1832年に購入し、4年ほどの歳月を掛けて改築した。 "ホーエン・シュヴァン・ガウ城" の名は "ホーエン" は (高い) を、 "シュヴァン" は (白鳥) を、"ガウ" は (地区) を意味する。 意訳すると "高所にある白鳥地区の城" となる。 実は、"旧ホーエン・シュヴァン・ガウ" [Alt Hohenschwangau] 城が現在 "ノイシュヴァンシュタイン城" の建っている小高い山の頂にあった。 その城跡に、"ノイシュヴァンシュタイン城" が建てられたため、建設当初の1869年から "ルートヴィヒ2世" が亡くなる 1886年6月まで、 ホーエンシュヴァンガウ新城 [Neue Burg Hohenschwangau] と呼ばれていた。 しかし、バイエルン国王 "ルートヴィヒ2世" の死後、バイエルン王国政府は "ホーエンシュヴァンガウ新城" (現在のノイシュヴァンシュタイン城) を接収し、ルートヴィヒ2世が築城のために作った借金を返済するため1886年8月1日付で一般公開(有料)に踏み切った。 一般公開の直後、1886年8月5日付で出版されたガイドブックのタイトルに「ノイシュヴァンシュタイン」の名が明記されていた。 なぜ "ホーエンシュヴァンガウ新城" が "ノイシュヴァンシュタイン城" に替わっていたのか? 真相は、ガイドブックの城の命名に関する解説の中にあった、解説には「ノイシュヴァンシュタイン城は、古城シュヴァンシュタインの城址の上に建てられた。」と記されているが、実際には、「古城ホーエンシュヴァンガウの城址の上」に建てられており、"古城シュヴァンシュタイン" と "古城ホーエンシュヴァンガウ" を取り違えたために生まれた名前だった。 "古城シュヴァンシュタイン" は、現在、麓にあるルートヴィヒ2世の父王が建てた "ホーエンシュヴァンガウ城" が建つ以前にあった、古城の名前。
誰が最初に「ノイシュヴァンシュタイン」という誤った名前を使ったのか、なぜそれが一般化したのか、1886年になってから「ノイシュヴァンシュタインという名は公式に用いられるようになった」のは事実だが、実は「ノイシュヴァンシュタイン」という名前は遅くとも1880年8月にはすでに、Augsburger Abendzeitung (アウクスブルク夕刊新聞) という地方新聞で用いられていたことがSpangenberg氏の調査で分かっている。 その後、1886年まで、様々な新聞雑誌で「ノイシュヴァンシュタイン」という名前が使われてきた。 つまりマスコミが、国王の公式発表がなされる前から「ノイシュヴァンシュタイン」という誤った名前を無断で使い続け、ついには一般化して正式名として採用されることになった。
出典 (参考) :ドイツ観光局大畑悟広報サイト
「北西」MAPLay. B
ホーエンシュヴァンガウ城 [Schloß Hohenschwangau]
"ホーエンシュヴァンガウ城" が建っている、"シュヴァンガウ" という地名は直訳すると「白鳥の里」の意味であり、この地こそが "リヒャルト・ワーグナー" のオペラ『ローエングリン』で有名な白鳥伝説の所縁の地である。 こうした地元の伝説にちなみ、"ホーエンシュヴァンガウ城" には、至る所に中世騎士伝説を描いた壁画が描かれており、「ローエングリン」の壁画も当然そこに含まれている。 この城で幼少期を過ごしたルートヴィヒ2世が15歳のとき、ミュンヘンで、"リヒャルト・ワーグナー" の楽劇『ローエングリーン』を観る機会を得た。 それ以来、"ホーエンシュヴァンガウ城" の壁画が現実のものとなり、 中世騎士物語の世界に魅了されていく。 そして、中世への憧れを具現化するため、ロマンティックな "新しいシュヴァンシュタイン城" を造ろうと決意する。 城全体のグランドデザインを行うよう指名したのが、建築家でも技術者でもなく、宮廷劇場の舞台装置や舞台美術を担当していた画家の "クリスチャン・ヤンク" であった。
「北西」MAPLay. B
ホーエンシュヴァンガウ城 [Schloß Hohenschwangau]
因みに、左端に立っているポールは五月柱 [Mai Baum] 。
「北北西」」MAPLay. B
ノイシュヴァンシュタイン城 [Schloss Neuschwanstein] への登山口
城へはシュヴァンガウ (白鳥の里) から徒歩かシャトルバス (ミニバス) 、あるいは馬車でいく。 私達は、シャトルバス (ミニバス) で登って最初に "マリーエン橋" へ行き、 城の側面を遠くから眺めた後、来た道をバスターミナルまで戻り城へと向かう。 そして城内を見学した後、帰りは近道を徒歩で下り、登山口へ戻る。 因みに、馬車は "マリーエン橋" の近くは通らず、直接城に向かうルートを取る。 馬車は "ノイシュヴァンシュタイン通り" [Neuschwansteinstraße] を、ミニバスは "ユーゲント通り" [Jugendstraße] を通って城に向かう。 いずれも、城の手前で下車し、徒歩で城に向かうが、途中 "マリーエン橋" へ行くには、ミニバスが便利。
「南西」MAPLay. B
シャトルバス (ミニバス) のターミナルから見る "ホーエンシュヴァンガウ城"
左手前の建物は "Jägerhaus" (ハンターの家) 。 歴史的な建物で、宿泊施設になっている。
「北西」MAPLay. B
シャトルバス (ミニバス) の乗車待ちの列
「南西」MAPLay. B
シャトルバス (ミニバス) のチケット売り場
「南南西」MAPLay. B
シャトルバス (ミニバス) の乗車待ちの列
右手の小屋は、チケット売り場。 中央に見えるバスがシャトルバス。
「西」MAPLay. B
シャトルバス (ミニバス) の乗車待ちの列
左手前の小屋は、チケット売り場。
「北」MAPLay. B
シャトルバス (ミニバス) 車内
「北北東」MAPLay. B
シャトルバス (ミニバス) ・ターミナル
「北東」MAPLay. B
 シャトルバス (ミニバス) ・ターミナル (MAP)
ここでシャトルバス (ミニバス) を降りて、徒歩で "マリエン橋" [Marienbrücke] へ向かう。 "マリエン橋" の名はルートヴィヒ2世の母であるマリー・フォン・プロイセンに因んだ名前。
「南西」MAPLay. B
徒歩で "マリエン橋" [Marienbrücke] へ向かう
"マリエン橋" の名はルートヴィヒ2世の母であるマリー・フォン・プロイセンに因んだ名前。
「北北東」MAPLay. B
"マリエン橋" への歩行者道 (後方撮影)
写真中央の、シャトルバス (ミニバス) が停車している所がバスターミナル。 バスターミナルから "マリエン橋" [Marienbrücke] への距離は、約150m 。
「南」MAPLay. B
"マリエン橋" [Marienbrücke]
40m先は "マリエン橋" 。 "マリエン橋" の名はルートヴィヒ2世の母であるマリー・フォン・プロイセンに因んだ名前。
「東」MAPLay. B
"マリエン橋" [Marienbrücke] の西の袂 (MAP)
"マリエン橋" の名はルートヴィヒ2世の母であるマリー・フォン・プロイセンに因んだ名前。
「東」MAPLay. B
"マリエン橋" [Marienbrücke] の西の袂 (MAP)
ドイツ・バイエルン州アマガウにある "ペッラート渓谷" [Pöllatschlucht] (MAP) に架けられた橋。 ペッラート橋 [Pöllatbrücke] とも呼ばれる。 ノイシュヴァンシュタイン城裏手の城が良く見える位置に架かっているため、ベスト・ビューポイントのひとつとして知られる。 マリエン橋の名はルートヴィヒ2世の母であるマリー・フォン・プロイセンにちなむ。
「東」MAPLay. B

バイエルン王マクシミリアン2世の命により、1845年にペッラート渓流に木製の橋が渡されたが、これは何年か後には新しく架け直さねばならない造りものだった。 のちの1866年にルートヴィヒ2世の命により、王室建設長官ゲルバー((独)Heinrich Gottfried Gerber)の指揮のもとで現在のMAN社の前身企業によって、現在のような鉄橋が架けられた。 この橋の建設に用いられた技術 <滝上90メートルの高さに、両岸の岩場へ吊桁を直接渡すというもの> は、当時の橋梁建設としては画期的なものであった。  橋は1984年に修復され、吊桁部分が取り替えられたが、橋面は建設当時のままである。
出典:Wikipedia
1857年の"マリエン橋"
写真出典:Wikimedia Commons
"マリエン橋" [Marienbrücke] からの眺め
橋の下は、"ペッラート渓谷" [Pöllatschlucht] 。 谷間の先に見えている湖は "バンヴァルト湖" [Bannwaldsee] (MAP) 。
「北北東」MAPLay. B
"マリエン橋" [Marienbrücke] からの眺め
"ペッラート渓谷" [Pöllatschlucht] の左に見えるのが、"シュロス・ ノイシュヴァンシュタイン" [Schloss Neuschwanstein] 。
「北北東」MAPLay. B
"マリエン橋" [Marienbrücke] からの眺め
「北北東」MAPLay. B
① "シュロス・ ノイシュヴァンシュタイン" [Schloss Neuschwanstein]
"シュロス・ ノイシュヴァンシュタイン" はドイツで最も美しい城と言われている。  ヨーロッパには名城と呼ばれる城がたくさんあるが、 ノイシュヴァンシュタインほどロマンティックでおとぎの国の城、という印象を受けるものは他にない。
それは、ルートヴィヒ2世が憧れた中世騎士物語の世界、リヒャルト・ワーグナー楽劇の世界をそのまま再現しようとしたからである。 ルートヴィヒが生まれたのは、ミュンヒエン郊外の "ニンフェンブルク城" [Schloss Nymphenburg] (MAP) で、幼年時代はシュヴァンガウにある父王の城 "ホーエンシュヴァンガウ城" [Schloß Hohenschwangau] (MAP) で過ごした。 城の内部には『タンホイザー』や『ローエングリーン』、『パルジファル』など、ドイツの中世騎士伝説をモチーフにした壁画があり、それらを眺めながら日々を送っていた。 15歳のとき、ルートヴィヒはミュンヘンで、リヒャルト・ワーグナーの楽劇『ローエングリーン』を観る機会を得た。 それ以来、"ホーエンシュヴァンガウ城" の壁画が現実のものとなり、 中世騎士物語の世界に魅了されていった。 1864年、 父 "マクシミリアン二世" の死によってルートヴィヒは18歳の若さでバイエルン国王となった。 彼は早速、 当時経済的苦境に陥っていたワーグナーをミュンヘンに招聘し、以後ヴァーグナーの音楽活動のために積極的な経済援助を行った。 王から破格の待遇を受けたワーグナーは、 十分な作曲活動費の支給により、次々と楽劇を完成させていった。 1865年にはミュンヘンの国立歌劇場で『トリスタンとイゾルデ』が、68年には 『ニュルンベ ルクのマイスタージンガー』が初演された。
参考文献:ドイツ ロマンティック街道物語 (実業之日本社)
「北」MAPLay. B
② "シュロス・ ノイシュヴァンシュタイン" [Schloss Neuschwanstein]
若いバイエルン国王とワーグナーの交流は、単に芸術家とパトロンという関係ではなく、ルード ヴィヒにとっては芸術を語り合える心の友でもあった。 ワーグナーは出来るだけルートヴィヒの友情に応えた。 ルートヴィヒは1864年以降のワーグナーの作品を "私たちの作品" と呼び、初演の日程など詳しい打ち合わせをしている。 しかしワーグナーは、芸術的分野に関しては一切ルートヴィヒの意見に耳を貸さなかった。 ヴァーグナーとの "私たちの作品" が、所詮ワーグナーの作品でしかないことを悟ったルードヴ イヒは、折しも建設事業に熱心だった祖父のルートヴィヒー1世が亡くなったことで建設熱を煽られ、 幼年時代を過ごした "ホーエンシュヴァンガウ城" (MAP) の東北東 約1km の山頂に城を建てる計画を発表した。 ヴァルトブルク城ヴェルサイユ宮殿を目にした "ルートヴィヒ2世" は、「私自身の作品」として自分の中世への憧れを具現化するロマンティックな城を造ろうと決意する。 このため城全体のグランドデザインを行うよう指名されたのは建築家でも技術者でもなく、宮廷劇場の舞台装置・舞台美術を担当していた画家のクリスチャン・ヤンクであった。
参考文献:ドイツ ロマンティック街道物語 (実業之日本社)
「北」MAPLay. B
③ "シュロス・ ノイシュヴァンシュタイン" [Schloss Neuschwanstein]
それは 『ローエングリーン』や『タンホイザー』、『トリスタンとイゾルデ』、そして『パルジファル』など、 ヴァーグナーの楽劇の世界を城内の壁画で再現させた城は、ルートヴィヒが思い通りに創作でた作品だった。 「ノイ・シュヴァン・シュタイン*」を直訳すれば「新・白鳥・石」となる。 その名の通り、城門の部分を除けば全て白い石 (実際は鉄骨組みのコンクリートおよびモルタル製) で建てられ、まるで白鳥のようにエレガントな姿をしている。
参考文献:ドイツ ロマンティック街道物語 (実業之日本社)
「北」MAPLay. B

ノイ・シュヴァン・シュタインは間違えて付けられた名前で、本来、"ホーエンシュヴァンガウ新城" [Neue Burg Hohenschwangau] となるはずだった。 "シュヴァン・シュタイン"は、現在、麓にあるルートヴィヒ2世の父王が建てた "ホーエンシュヴァンガウ城" が建つ以前にあった古城の名前。
④ "シュロス・ ノイシュヴァンシュタイン" [Schloss Neuschwanstein]
この城は、ドイツのガイドブックには必ず載っているのに、ドイツ建築の本では重要視されていない。 これほど美しく立派な城が建築史から外されているとはどういうことなのか。 ノイシュヴァンシュタイン城はフェイク・キャッスル (偽物の城) とも言われている。 城の建築が始まったのは1869年頃には、様々な様式が重なり合った独特の建築様式が開花していたが、ノイシュヴァンシュ タイン城はどの様式にも当てはまらず、「中世的ロマン主義の様式」などと曖昧な表現で呼ばれている。 シュロス・ノイシュヴァンシュタインはその名の通り、 シュロスを意識したのであろうが、城の機能からすると、全く時代にそぐわない無用の城だった。 要するにノイシュヴァンシュタインは完全にルートヴィヒ2世の作品なのである。
参考文献:ドイツ ロマンティック街道物語 (実業之日本社)
「北」MAPLay. B
⑤ "シュロス・ ノイシュヴァンシュタイン" [Schloss Neuschwanstein]
ルートヴィヒは父王のために中世の城を修復したバイエ ルンの建築家 "エドゥアルト・フォン・リーデル" [Eduard von Riedel] を起用し、城全体のグランドデザインを行うよう指名されたのは建築家でも技術者でもなく、宮廷劇場の舞台装置・舞台美術を担当していた画家のクリスチャン・ヤンクであった。 途中1874年に建築家が交替し、"ゲオルク・フォン・ドルマン" [Georg von Dollmann] が7年後に外側を完成させた。その後内部はドルマンの後継者 "ジュリアス・ホフマン" [Julius Hofmann] によって装飾される。 ルートヴィヒは城の建設に際し、それまでに行ったり、あるいは視察した城を参考にした。 例えば中世で実際に歌合戦が繰り広げられたというアイゼナハのヴァルトブルク城、ニュルンベルクのカイザーブルク城、パリ近郊のピエールフォン城 などである。
参考文献:ドイツ ロマンティック街道物語 (実業之日本社)
「北」MAPLay. B
⑥ "シュロス・ ノイシュヴァンシュタイン" [Schloss Neuschwanstein]
それは単に外見的にロマンティックだから、ということではなく、内部のきめ細やかな装飾と鮮やかな色彩、構造すべてに独特な趣があり、建物の外部も内部も類まれなる美しさを誇る城だからである。 本物の中世の城は、ただ広いだけの騎士の間や、簡素な王の居室があるだけで、 家具調度品も少なくてさほど見るべきものはない。 それに対してノイシュヴァンシュタインは壁画、天井画、柱や家具、シャンデリアに至るまで豪華に造られ、真にこれほど興味深い城はない。 ただこの城はガイド付きのグループ見学なので、シーズン中は前後のグループに押されて各部屋をじっくり鑑賞することが出来ない。
参考文献:ドイツ ロマンティック街道物語 (実業之日本社)
「北北東」MAPLay. B
⑦ ルートヴィヒの死・残る謎
"ノイシュヴァンシュタイン城" の工事と平行してルートヴィヒはさらに "リンダーホーフ城" と "ヘレンキームゼー城" を建設させる。 1つの城を築くのでさえ長い年月と莫大な工事費がかかるのだから、すでに王室の財産は破産寸前だった。 バイエルン王国の大臣たちがいくら説得しても王は聞き入れず、それどころか新たに第4、第5の城建設計画まで持ち出す始末である。 バイエルンの "ヨハン・フォン・ルッツ" [Johann von Lutz] 首相はルートヴィヒを病気を患っているとして失脚させる計画を立てる。 "ベルンハルトフォングッデン" [Bernhard von Gudden] 医師から病気と鑑定されたルートヴィヒは1886年6月12日、"ノイシュヴァンシュタイン城" で捕らえられ、ミュンヘン郊外の "シュタルンベルク湖" [Starnberger See] の東岸にある "ベルク城" [Schloss Berg] (MAP) へ幽閉された。 逮捕の翌日13日の夕方、主治医グッデンと小雨降るなか散歩に出たルートヴィヒは、夜になって死体で発見された。 湖畔から数歩のところに喉に引つ搔き傷をつけた医師グッデンの死体が、少し離れて王の死体があった。 死因ついて、多くの研究がなされているが未だにそれは解明されていない。 40歳の若さで謎の死を遂げたルートヴィヒ2世。 彼の夢を実現させた "ノイシュヴァンシュタイン城" は、今日ドイツ最大の観光スポットであり、またロマンティック街道のフィナーレを飾るにふさわしい。 ルートヴィヒの築城熱によって建てられた3つの城は、その莫大な建設費がバイエルン王家の財政を傾けたものの、今ではバイエルン州の貴重な財政源となっている。
参考文献:ドイツ ロマンティック街道物語 (実業之日本社)
「北」MAPLay. B
"マリエン橋" [Marienbrücke] からの眺め
中央に見えるのは、"ノイシュヴァンシュタイン城" 。 橋下 (きょうか) には "ペラト渓谷" [Pöllatschlucht] があり、、ペラト川が流れている。 城の背後に見える湖は "フォルクゲン湖" [Forggensee] (左) と "バンヴァルト湖" [Bannwaldsee] (右) 。 この辺り一帯は "シュヴァンガウ" [Schwangau] (白鳥の里) (MAP) と呼ばれている。 現在 "ノイシュヴァンシュタイン城" が立っている頂には、嘗て "シュヴァンガウ城" [Schwangau] の城跡があった。 (↓) そのため、当初、 "ノイシュヴァンシュタイン城" は "ホーエンシュヴァンガウ新城" [Neue Burg Hohenschwangau] と呼ばれていた。 因みに "ホーエンシュヴァンガウ" [Hohenschwangau] の "ホーエン" [Hohen] は、山の頂など、高い場所を意味する。
「北」MAPLay. B
"Castrum Swangowe"
現在ノイシュヴァンシュタイン城が建っている岩山にあったフォルダーシュヴァンガウとヒンターシュヴァンガウ [Vorder-とHinterschwangau] の二重城砦。 フォルダーは前、ヒンターは後ろを意味する。 図では、左がフォルダー [Vorder] 、右がヒンター [Hinter] 。 城跡は1868年に、ノイシュヴァンシュタイン城の建設のため爆破された。
出典:
建設中のノイシュヴァンシュタイン城。
ルートヴィヒ2世が死去した1886年のノイシュヴァンシュタイン城。 この城は、フォルダーシュヴァンガウ城の跡地に建てられている。
出典:Wikipedia
"マリエン橋" から "ノイシュヴァンシュタイン城" へ向かう
"ノイシュヴァンシュタイン城" へ向かうため、一旦、来た道をバスターミナル方向へ戻る。
「南」MAPLay. B
バスターミナルの分岐路にある案内図
図中 "STANDORT" と書かれている所が、現在地。 ここから赤い線で描かれている西方向 (正確には北北西) への道を辿る。
「北東」MAPLay. B
展望台 "Panoramablick Schwangau" (シュヴァンガウの全景)
ここから、"シュヴァンガウ" (白鳥の里) を一望できる。
「北北西」MAPLay. B
展望台からの眺め
中央のやや左には、ルートヴィヒ2世が幼年期を過ごした父王の城 "ホーエンシュヴァンガウ城" [Schloß Hohenschwangau] を望む事が出来る。 直線距離にして、約800m 。
「西」MAPLay. B
ノイシュヴァンシュタイン城 [Schloss Neuschwanstein]
この城の入口は、何故か山の方を向いており、"白鳥の里" の方を向いていない。 この写真は、"白鳥の里" の方向から撮った城。
「北東」MAPLay. B
ノイシュヴァンシュタイン城 [Schloss Neuschwanstein]
「北東」MAPLay. B
ノイシュヴァンシュタイン城 [Schloss Neuschwanstein]
「北東」MAPLay. B
ノイシュヴァンシュタイン城 [Schloss Neuschwanstein]
「北東」MAPLay. B
ノイシュヴァンシュタイン城 [Schloss Neuschwanstein]
「北東」MAPLay. B
シュヴァンガウ [Schwangau]
"シュヴァンガウ" の家並みと、その背後に見える "フォルクゲン湖" [Forggensee] 。
「北北西」MAPLay. B
ノイシュヴァンシュタイン城 [Schloss Neuschwanstein]
「東北東」MAPLay. B
ノイシュヴァンシュタイン城の北側壁面
「南南西」MAPLay. B
ノイシュヴァンシュタイン城の見取り図
画像出典:HogwartsCampus.com
ノイシュヴァンシュタイン城の正面入口
ファザードは、赤レンガで覆われている。
「南南西」MAPLay. B
ノイシュヴァンシュタイン城の正面入口
門の左右の建物は、ゲートハウス
「南西」MAPLay. B
ノイシュヴァンシュタイン城の正面入口
ゲートハウスの部分は1872年に完成し、一時は "ルートヴィヒ2世" の宿泊所として使われ、3階に王の居室があった。
「南南西」MAPLay. B
ノイシュヴァンシュタイン城の正面入口
「西南西」MAPLay. B
ノイシュヴァンシュタイン城の正面入口
門の上、1/3に見える格子模様の構造物は "落とし扉" 。 "落とし扉" は敵の急襲に備える物だが、この城は戦を想定して造られておらず、単なる装飾に過ぎない。
「西南西」MAPLay. B
城門を潜り抜けた所にある前庭 (下の中庭)
正面の壁は "天守の壁"[ Donjon Wand] で、壁の中にはワインセラーが設けられている。 壁上には、5階建ての王の宮殿が顔を覘かせている。
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入場時間を示すディスプレー
入場者はグループに纏められ、5分間隔で入場する。 内部の撮影は禁止されている。
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入場チケット
私達は、450番で12時10分の入場。 入場するとオーディオ・ガイドが渡され、それを聞きながら心太式に押し出される。
因みに、入場チケットは麓のチケットセンター (MAP) で販売している。
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下の中庭
入場待ちの列からの撮影。 中央の門は、内側から撮った城門。 城門と一体として建てられている建築物はゲートハウス。 ゲートハウスの部分は1872年に完成し、一時は "ルートヴィヒ2世" の宿泊所として使われ、3階に王の居室があった。
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下の中庭
入場待ちの列からの撮影。 左側の建物は、ゲートハウス。 右の側の "天守の壁"[ Donjon Wand] の上は、"上の中庭" がある。
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バルコニーからの眺め
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バルコニーからの眺め
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バルコニーからの眺め
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バルコニーからの眺め
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バルコニーからの眺め
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バルコニーからの眺め
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バルコニーからの眺め
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バルコニーからの眺め
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バルコニーからの眺め
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バルコニーからの眺め
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バルコニーからの眺め
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バルコニーにて
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バルコニーにて
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バルコニーからの眺め
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バルコニーからの眺め
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城の模型
城を南側から見た配置。
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城の模型
城を北東側から見た配置。
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城の模型
城を北側から見た配置。
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城の模型
城を南西側から見た配置。
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ノイシュヴァンシュタイン城の見取り図
城内 (屋内) は撮影禁止になっているため、写真の殆どはウエブ・サイトから借用している。
レイアウトは入場の際に渡される、オーディオ・ガイドの順序に沿って表示してある。 尚、見取り図の階の表示と、オーディオ・ガイドの階の表現が異なっているため、以下はオーディオ・ガイド () の表現に準じて表示している。 (オーディオ・ガイドでは、図の3階が2階として解説が始まっている。)

1〜3階までは、主に使用人たちが働く部屋からなっている。 1階で見学できるのは厨房周辺。 2階は使用人の部屋が並び、3階は工事未完なので公開されていないが、バルコニーから "シュヴァンガウ" [Schwangau] の全景を望む事ができる。 主な見所は、4階と5階で、ルートヴィヒが情熱を注いだ壮麗な造りとなっている。
"下の中庭" [Unterer Schloßhof ] がある階 (地階に相当) で、この階に城門が建てられている。 恐らく、敷地が平坦でなかったため、段差を利用して、建てざるを得なかったのだろう。 また、城の後方部が、逆 "く" の字に屈曲して建てられているのは、城の基礎を成す岩盤の形状に合わせたため。
城門から見る天守 入場待ちの列 城内から見る城門 入場待ちの列
城門を入った所 (地階に相当) にある "下の中庭"[Unterer Schloßhof] から螺旋階段を上り、2階へ。
"上の中庭" [Oberer Schloßhof] から階段を上った2階に、主玄関がある。 但し、城内見学の経路は赤の矢印。
回廊 回廊 回廊 回廊
控えの間 控えの間 召使いの部屋
当時のまま完全に残された家具類。
控えの間 ノイシュヴァンシュタイン城 全階の見取り図 ルートヴィヒ2世
オーディオ・ガイドは、"召使いの部屋" [Dienerzimmer] がある、この2階から始まる。

オーディオガイド+Photo No1
王の居間があった4階。 もっとも彼が実際に滞在したのは、合わせて172日間しかなかったという。
控えの間
螺旋階段を4階に上った所にある "控えの間" には、19世紀に北欧神話のエッダから派生したジークフリート伝説が起こり、理想化されたイメージとして一連の壁画が描かれている。
19〜20世紀においては、ジークフリートはドイツのナショナリズムと強く結び付けられ、この頃の特に有名な翻案として、リヒャルト・ワーグナーの楽劇『ジークフリート』『神々の黄昏』があり、彼の創造した人物像は、以降のジークフリートのイメージに大きな影響を与えた。 ここの壁を飾る絵画はジークルト伝説の第一部が描かれている。 (第二部は5階の控えの間に描かれている)
(→) 玉座の間
アプスの上方には、天使に囲まれたイエス・キリスト、左にマリア、右に洗礼者ヨハネが描かれている。 また、玉座への階段の左右には12人の使徒が描かれている。 これら、絵画の内容は、ルートヴィヒ2世自身によって選定されている。 
(→) 玉座の間
高座にはビザンチン様式の天蓋を伴う玉座が設置される予定だったが、 玉座が据えられる直前の1886年 6月 13日に王が亡くなり、城の建設と共に、玉座の制作も中止された。
(→) 玉座の間
この独特の玉座の間は、ルートヴィヒ2世によって造り出されたもので、如何に王が幅広く関心を持つ、教養のある人物であったかが窺える。 床のモザイクは古代後期様式に倣って創作されており、植物と動物からなる地上の世界が表現されている。
(→) 玉座の間
キリスト像の下には、6人の聖人の列に加えられた王が描かれている。 左から、ポーランド王カジミール[S.CASIMIR.] 、ハンガリー王シュテファン[S.STEPHANUS.] 、ドイツ王ハインリッヒ2世[S.HENRICUS.] 、フランス王ルイ9世[S.LUDOVICUS.] 、スペイン王フェルディナンド[S.FERDINANDUS.] 、イギリス王エドワード[S.EDUARDUS.] 。 玉座の広間のアーチ部分の下の側面や回廊には、この6人の聖王達の伝記がモチーフとなって表現されている。 因みに、フランス王ルイ9世はルートヴィヒ2世の守護聖人。 
(→) 玉座の間
この部屋の装飾や建築材料は、コンスタンティノープル (現在のイスタンブール) のアヤソフィアやミュンヘンの居城内 (レジデンツ) にある祖父ルートヴィヒ1世の宮廷教会などを模範として使用されている。 豪華なシャンデリアは金メッキの真鍮製で、荘厳なビザンチン様式を取り入れている。 上方には太陽が描かれている天蓋の下方には、古代や古代オリエントそして世界宗教における重要な立法者達が半円状の絵画にて描かれている。
(→) 玉座の間 (→) 玉座の間
聖ゲオルギオスの壁画。 (右)
(→) 玉座の間
聖ゲオルギオスの壁画。
(→) 玉座の間
聖ゲオルギオスの壁画。
(→) 玉座の間
聖ゲオルギオスの壁画。
(→) 玉座の間 (→) 玉座の間 (→) 玉座の間
玉座の間 控えの間
19世紀に北欧神話のエッダから派生したジークフリート伝説が起こり、理想化されたイメージとして一連の壁画が描かれている。
(→) 近習の間
これらの部屋は、中世風に形作られているが、温風暖房機や機密性の高い鋼鉄製の窓など、当時のモダンな近代的設備が施されている。
(→) 近習の間
この部屋の右手に見えているのは、副官の部屋。
近習の間
壁には、1885年製の電気仕掛けのベル装置がある。 この部屋の右手には、王の食堂がある。
食堂
食堂の壁には、宮廷恋愛歌人 "ミンネゼンガー" [Minnesänger] の人生の絵画がある。 高価な刺繍が、ふんだんに施されている室内装飾織物をルートヴィヒ2世は、こよなく愛用していた。 テーブルの上にはジークフリートが竜と戦う姿が描写されている、金メッキの銅製センターピースが置かれている。
4階の玉座の間 [Thronsaal] 、近習の間 [Dienerzimmer] 、食堂 [Speisezimmer] 。 

オーディオガイド+Photo No2
王の寝室トイレ (→) (→) (→) 王の寝室
ルートヴィヒ2世の壮麗な寝室は、城の中で唯一ゴシック様式で形作られている。 天蓋付きベッド、彫刻がふんだんに施された壁の装飾、そして家具調度品は、後期ゴシック様式の聖職者席や祭壇をモチーフに形作られている。
(→) (→) 王の寝室
青いカーテンで仕切られた二つ箇所は、右側がバルコニーへの扉で、その左側には "オリエル窓" [Oriel window] があり、ステンドグラスの窓はヴィッテルスバッハ、バイエルン、シュヴァンガウの紋章で装飾されている。 また、カーテンとソファはバイエルンを象徴する青色地にバイエルンの紋章、白鳥、ヴィッテルスバッハの獅子が刺繍されている。
城の外観写真 (図)
(→) 王の寝室
左端には、王のベッド、右側の開かれた扉の向こうには礼拝堂、そして右端にはオリエルの窓がある。 ルートヴィヒ2世は、その失脚が明らかになった後、1886年6月11日に特命官吏によって、この寝室にて拘束された。 翌日、彼はミュンヘン郊外のベルグ城 (MAP) にて幽閉されたが、到着したした翌日、40才という若さでシュタルンベルク湖 (MAP) で変死を遂げた。
(→) 礼拝堂
聖ルートヴィヒ (フランス王ルイ9世) が祭壇と右横のステンドグラスに描かれてる。 信心深かったルートヴィヒ2世は同じ名前の聖人や守護聖人に自身を重ねて見ていた。
(→) 礼拝堂
聖ルートヴィヒ (フランス王ルイ9世) が祭壇と右横のステンドグラスに描かれてる。 信心深かったルートヴィヒ2世は同じ名前の聖人や守護聖人に自身を重ねて見ていた。
(→) (→) (→) 更衣室
ここの部屋の壁にある絵は、中でもミンネゼンガーヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデの生涯と作品からの場面が描かれている。 また机の上には王の宝石手箱か置かれている。
(→) 更衣室
左の扉は礼拝堂へ、右の扉は王の寝室へ通じている。
全階の見取り図
4階の王の寝室 [Schlafzimmer] 、礼拝堂 [Hauskapelle] 、更衣室 [Ankleidezimmer] 。 

オーディオガイド+Photo No3

ルードウィヒ/神々の黄昏』 (ノイシュヴァンシュタイン城のシーンのみ)
(→) (→) (→) (→) 王の居間
王の居間は、聖杯を守る騎士ローエングリンの中世伝説で埋め尽くされている。 子供の頃からルートヴィヒ2世は、ホーエンシュヴァンガウ城 (MAP) にある壁の絵から、ローエングリンに慣れ親しんでいた。 1861年には、王はリヒャルト・ワーグナーの楽劇、『ローエングリン』の上演を鑑賞し、感銘を受けたと言われている。 その時から、この気高い心と、罪とは掛け離れた純潔さを備え持つ登場人物に、彼は自身を重ねて見るようになった。 壁にある絵には、この伝説の主要場面が描かれており、天井に刻み込まれた文字や紋章は、その最も主要な立役者を援用している。 また、そこで多く描き出されているのは白鳥で、木製の上張り部分の上や、壁にある絵、そして金と銀の刺繍が施さた室内装飾織物、そして大きな陶器の飾り物などに表現されている。 伝説においては、この白鳥は魔法に掛けられた少年ゴットフリートで、ローエングリンに連れ添って現れ、そして最後にはローエングリンによって、その呪いが解かれる。
(→) 王の居間 (→) (→) (→) 王の居間
窓際の大きな収納家具は、ヴァルトブルク城 [Wartburg Castle] (MAP) に倣って、作られている。 (ヴァルトブルク城の家具)
(→) 王の居間
ソファーは中世の家具を倣って制作されたのではなく、ルートヴィヒ2世の時代に作られている。 19世紀においては、歴史的様式と近代的様式との間に矛盾は感じられておらず、逆に、その繋がりは、互いに豊かにさせるものである、とされていた。
(→) 王の居間 (→) 王の居間
人工洞窟
王の居間から撮った人工洞窟の入口。
冬園 (温室)
王の居間から人工洞窟に入った直ぐ右に、冬園に通じているガラス戸がある。 これは、中世の世界とは無縁で、当時における最先端技術を用いている。
(城の外観図)
(→) (→) 人工洞窟
この部屋の様々な色の電気照明は、当時のハイテク技術を用いている。 ルートヴィヒ2世はこの照明技術を早速利用し、ワーグナーオペラ (楽劇) "タンホイザー" の舞台を幻想的空間として完成させた。
(→) (→) 人工洞窟
ここでは、ミンネゼンガーであるタンホイザーが1年間住んでいたとされるヘルゼルベルクのビーナスの洞窟が再現されている。
因みに、ルートヴィヒ2世が建設した城にはノイシュヴァンシュタイン城 (MAP) 、ヘレンキームゼー城 (MAP) 、リンダーホーフ城 (MAP) の3つ があり、この中で唯一完成したのは、リンダーホーフ城。 そのリンダーホーフ城にはノイシュヴァンシュタイン城のビーナスの洞窟と同じ名前の大規模な人工洞窟が造られている。

(リンダーホーフ城の見取り図 ㉓ Venus Gtotto)

ルードウィヒ/神々の黄昏』 (リンダーホーフ城の洞窟のシーンのみ)
(→) (→) 王の執務室
壁にある絵画は、女神ビーナスと官能の快楽に溺れてしまうタンホイザーという中世伝説の場面が描かれている。 彼は聖エリザベートによって、その罪から逃れられる事になるまで、その罪の償いをしなければならなかった。 この部屋は、また金色の刺繍が施されている緑色の室内装飾織物で調度されている。 特に目立って数多く描かれているのはバイエルンの紋章。 またランプと筆記用具一式か置いてあるデスクは、ルートヴィヒ2世が書類に目を通し、署名するといった執務を行う場所であった。
(→) 王の執務室
王の執務室からみた人工洞窟の入口。
王の執務室
ランプと筆記用具一式か置いてあるデスクは、ルートヴィヒ2世が書類に目を通し、署名するといった執務を行う場所であった。
王の執務室
執務室のデスクから、廊下側を撮った写真。
王の執務室
左の壁際に置かれている物は、城門を模した陶器製の暖房器具。
王の執務室
"王の執務室" の廊下から、撮った "副官の部屋" の廊下。
副官の部屋
副官の部屋から廊下側を撮った写真。
副官の部屋
開かれた左のドアの向こうは、近習の部屋、右側のドアの向こうは、控えの間。
副官の部屋
廊下側から撮った副官の部屋。
4階の王の居間 [Wohnzimmer] 、人工洞窟 [Grotte] 、冬園 [Wintergarten] 、執務室 [Arbeitszimmer] 、副官の部屋 [Adjutantenzimmer] 。

オーディオガイド+Photo No4
玉座の間の吹抜け部分を除くと、この5階 のスペースの殆どが歌人の間で占められており、城の設計の当初からこの部屋が組み込まれていた事を考えると、この広間こそが、王が最も熱望していたものであったと考えられる。
螺旋階段の天井
螺旋階段の5階の天井に描かれている、椰子の木をモチーフにした天井画。
控えの間
5階の控えの間は、4階の控えの間と同様に台形であるが、東隣の歌人の広間のスペースを広く取っているため、やや狭くなっている。 壁を飾る絵画はジークルト伝説の第二部が描かれている。 (第一部は4階の控えの間に描かれている)。 西側の扉は玉座の間のトリビューンへ続き、東側には『歌人の広間』と呼ばれる大きな広間がある。
(→) 玉座の間
トリビューンから見た王座の間。
(→) 玉座の間
トリビューンの壁に描かれている、大天使ミカエルの壁画。 悪を制する勝者として等身大で描かれている。
(→) 玉座の間
床のモザイクは古代後期様式に倣って創作されており、植物と動物からなる地上の世界が表現されている。
(→) 玉座の間
玉座の間のトリビューン・回廊 [Tribune corridor] 。
(→) 玉座の間
トリビューンの上の、天井に近い壁面には、世界宗教における重要な立法者達が半円状の絵画で描かれている。
(→) 玉座の間 (→) 玉座の間 (→) 玉座の間 歌人の広間の側廊
(→) (→) (→) (→) 歌人の広間
ルートヴィヒ2世は、1867年ヴァルトブルク城 [Die Wartburg] (MAP) を訪れた際に、その美しいロマネスク様式の祝宴の広間 [Festsaal] に感銘し、彼の新しい城にもこのような広間を模造することを決意した。 高座や天井の形はヴァルトブルク城の祝宴の広間に倣って建造されているが、歌人の舞台は伝説の歌合戦の舞台となった歌人の広間 [Sängersaal] に倣って建造されている。 この歌人の広間はヴァルトブルク城の広間よりも規模的大きくまた装飾も遥かに豪華な造りになっているが、祝宴や上演のために造られた広間ではなく、ルートヴィヒ2世にとっては中世騎士道文化の追憶の建物であった。
(ヴァルトブルク城のバーチャルビュー)
(→) (→) (→) (→) 歌人の広間
年を追うごとに、益々ルートヴィヒ2世は自身を聖杯を守る王であった、パルジファル [Parsifal] と思い込むようになり、遂にリヒャルト・ワーグナーは彼を同名の楽劇の主人公のモデルとして作曲する事になった。 この広間の壁には、多くの試練と闘いを経験したパルジファルの伝説が描かれている。 彼は、ありとあらゆる誘惑に負けず、純粋の心のままで居続け、そして最終的には聖杯を、その罪から解放する事が出来たというストーリーになっている。 歌人の舞台は、聖杯を守る城であるモンサルバート (モンセラート修道院がモデル?) を囲む聖なる森が描かれている。 歌人の舞台の左右のドアの上には、建造主であるルートヴィヒ2世の名前とバイエルン王国紋章が、城内で唯一、標されている。
(→) 歌人の広間 (→) 歌人の広間 (→) 歌人の広間 全階の見取り図
5階の玉座の間 [Thronsaal] のトリビューン [Tribune] 、歌人の広間 [Sängersaal] 。

  オーディオガイド+Photo No5
3階は完成部分が少なく、殆ど見学できる部分は無いが、バルコニーから "シュヴァンガウ" [Schwangau] の全景を望む事が出来る。
3階のバルコニーからの眺め。
1階で見学できるのは、厨房付近のみ。
厨房
調度品が完全な状態で残されている、歴史的な城の調理場。
展示模型 展示模型
夏の出口
王の浴室になる予定であった部屋。 この部屋から地下道を通って、出口へ向かう。
地下道
建設当時、工事作業者用に造られた地下道。 夏の間は、出口通路として利用されている。
全階の見取り図
1階で厨房と展示物を見学後、"夏の出口" から地下道を通って城外へ。
Bayern 3D – Heimat Digital
バイエルン州財務省は地域開発のために、バイエルンの文化財をデジタル3D画像に収録し、インターネットを介して配信している。
下の画像は、この3D画像を Windows10 に付属している スクリーンショット・ソフト “Snipping Tool” で切り取り、JPG画像に変換して表示している。 尚、3D画像は視点を変えながら仮想空間を自由に移動できるため、現実には有り得ない視点からの画像も含まれている。 (サムネイルをクリックすると高精細画像で観ることが出来る。)

因みに、"請負業者:Prof。Dr.-Ing。Hirzinger(German Aerospace Center [DLR]と協力)、3D RealityMaps GmbH、Time in the Box GmbH" と記されている。
出典:Bayern 3D – Heimat Digital
王座の間 [Thronsaal] の見取り図
(→) (→) 玉座の間
玉座への階段の左右には12人の使徒が描かれている。 これら、絵画の内容は、ルートヴィヒ2世自身によって選定されている。
玉座の間 玉座の間
玉座の間 玉座の間 玉座の間 玉座の間
玉座の間 玉座の間 玉座の間 玉座の間
玉座の間 玉座の間 玉座の間 玉座の間
玉座の間 玉座の間 玉座の間 玉座の間
玉座の間 玉座の間 玉座の間 玉座の間
玉座の間 玉座の間 玉座の間 玉座の間
玉座の間 [Thronsaal]
礼拝堂 [Hauskapelle] 、寝室 [Schlafzimmer] 、更衣室 [Ankleidezimmer] 、居間 [Wohnzimmer] 、執務室 [Arbeitszimmer] の見取り図
(→) 礼拝堂 (→) 礼拝堂 (→) 礼拝堂 (→) 礼拝堂
(→) 礼拝堂 (→) 礼拝堂 (→) 王の寝室 (→) 王の寝室
(→) 王の寝室 (→) (→) (→) 寝室の壁画
壁の絵画は、中世伝説の騎士 "トリスタン" と主君マルク王の妃となった "イゾルデ" の悲恋を題材にした "トリスタンとイゾルデ" が描かれている。 楽劇の作曲家リヒャルト・ワーグナーは、この愛し合う主人公達の悲劇伝説を楽劇の題材として取り上げた。 ルートヴィヒ2世はワーグナーの後援者であり、また彼の魅惑的な作品を崇拝していた。
(→) 寝室の壁画 (→) 王の寝室 王の寝室 王の寝室
洗面台の蛇口は金製で、白鳥がデザインされている。
王の寝室 (→) 王の寝室 (→) 王の寝室 (→) 王の寝室
(→) 王の寝室
左端には、ルートヴィヒ2世が読書家であった事を物語る、豪華な書見台付きの読書椅子が置かれている。 そして、その椅子の色は、常に彼が好んでいたロイヤルブルーとされている。
王の寝室
王の寝室 [Schlafzimmer] および礼拝堂 [Hauskapelle]
(→) 王の更衣室 (→) 王の更衣室 王の更衣室 王の更衣室
王の更衣室 王の更衣室 王の更衣室
王の更衣室 [Ankleidezimmer]
王の居間 王の居間 王の居間 王の居間
王の居間 王の居間 (→) 王の居間 (→) 王の居間
(→) 王の居間 (→) 王の居間 (→) 王の居間 (→) 王の居間
(→) 王の居間 王の居間 (→) 王の居間 (→) 王の居間
王の居間 王の居間 王の居間
王の居間 [Wohnzimmer]
王の執務室 王の執務室 王の執務室 王の執務室
王の執務室 王の執務室 王の執務室 王の執務室
王の執務室 王の執務室 王の執務室 王の執務室
王の執務室 王の執務室
王の執務室 [Arbeitszimmer]
歌人の広間 [Sängersaal] の見取り図
歌人の広間 歌人の広間 歌人の広間 歌人の広間
歌人の広間 歌人の広間 歌人の広間 歌人の広間
歌人の広間 歌人の広間 歌人の広間 歌人の広間
歌人の広間 歌人の広間 歌人の広間 歌人の広間
歌人の広間 歌人の広間 歌人の広間 (→) 歌人の広間
(→) 歌人の広間 (→) 歌人の広間 (→) 歌人の広間 (→) 歌人の広間
(→) 歌人の広間 歌人の広間 歌人の広間 歌人の広間
歌人の広間 (→) 歌人の広間 (→) 歌人の広間 歌人の広間
(→) 歌人の広間 (→) 歌人の広間 (→) 歌人の広間 歌人の広間
歌人の広間 歌人の広間 歌人の広間 歌人の広間
歌人の広間 (→) 歌人の広間 (→) 歌人の広間 (→) 歌人の広間
(→) 歌人の広間 (→) 歌人の広間 (→) 歌人の広間 歌人の広間
歌人の広間 歌人の広間 歌人の広間
歌人の広間 [Sängersaal]


夏の出口
一番下の庇のある門戸が夏の出口。 冬は積雪のため、この出口は使用されない。 これより、徒歩で登山口 (最初シャトルバス (ミニバス) に乗った地点) へ戻る。
「南南東」MAPLay. B

G線上のアリア [Air auf der G-Saite]
展望台 "Skywalk Neuschwanstein" からの眺め
帰路途中、展望台より撮影。
「南南西」MAPLay. B
シュロスレストラン ノイシュヴァンシュタイン
[Schlossrestaurant Neuschwanstein GmbH & Co. KG]
帰路途中、このレストランで昼食を済ませる。 このレストランは、嘗て、ノイシュヴァンシュタイン城の建築の際、建築労働者達が寝泊まりしていた飯場を改装して造られている。 因みに、このレストランは、麓のレストランの殆どが閉まってしまう冬場でも、営業しているとのこと。
「西南西」MAPLay. B
Schlossrestaurant (城のレストラン)
MAPLay. B
Schlossrestaurant (城のレストラン)
MAPLay. B
Schlossrestaurant (城のレストラン)
MAPLay. B
Schlossrestaurant (城のレストラン)
日本の観光客が多いため、日本語のメニューが用意されている。
MAPLay. B
Schlossrestaurant
マウルタッシェン (ドイツ風餃子) 。 南ドイツの郷土料理で、ほうれん草とひき肉とナツメグをパスタ生地に包んだもの。
MAPLay. B
シュロスレストラン ノイシュヴァンシュタイン
[Schlossrestaurant Neuschwanstein GmbH & Co. KG]
昼食を済ませ、徒歩で登山口まで下る。
「北」MAPLay. B
帰路途中の林道 (後方を撮影)
「東北東」MAPLay. B
帰路途中の林道
馬車は "マリエン橋" から隔たった道路を通るので、 橋から城を観るには、シャトルバス (ミニバス) を利用した方が便利。
「南南西」MAPLay. B
帰路途中の林道
道端には "KENNEN SIE MICH?" (あなたは私を知っていますか?) の看板が立っているが、これは、バイエルン王の博物館 [Museum der bayerischen Könige] への誘いの看板。
「西」MAPLay. B
帰路途中の林道
道端には "KENNEN SIE MICH?" (あなたは私を知っていますか?) の看板が立っているが、これは、バイエルン王の博物館 [Museum der bayerischen Könige] への誘いの看板。
「西」MAPLay. B
帰路途中の林道 (後方を撮影)
「東南東」MAPLay. B
ホーエンシュヴァンガー地区
麓のホーエンシュヴァンガー地区の登山口に帰着。
「北西」MAPLay. B
ホーエンシュヴァンガー地区
丘の上に見えるのは "ホーエンシュヴァンガウ城" [Schloß Hohenschwangau] 。
「北北西」MAPLay. B
ホーエンシュヴァンガー地区
登山口のシャトルバス (ミニバス) ・ターミナル周辺。
「北北西」MAPLay. B
ホーエンシュヴァンガー地区
登山口のシャトルバス (ミニバス) ・ターミナル周辺。
「北西」MAPLay. B
ホーエンシュヴァンガー地区
登山口のシャトルバス (ミニバス) ・ターミナル周辺。
「北」MAPLay. B
ホーエンシュヴァンガー地区
登山口のシャトルバス (ミニバス) ・ターミナル周辺。 丘の上に見えるのは "ホーエンシュヴァンガウ城" [Schloß Hohenschwangau] 。
「北北西」MAPLay. B
ショッピング "Galeria Lisl"
MAPLay. B
ショッピング "Galeria Lisl"
MAPLay. B
ホーエンシュヴァンガー地区のガレリア・リスル [Galeria Lisl]
高級品をいろいろ扱う免税店。 日本人のスタッフがたくさん働いていて、日本語でお買い物ができる。 もちろん日本円もOK。
「南南西」MAPLay. B
ホーエンシュヴァンガー地区
ここでバスに乗車し、ミュンヘンの "ニンフェンブルグ城" [Schloss Nymphenburg] へ向かう (車窓から) 。
「北東」MAPLay. B
ホーエンシュヴァンガー地区
アルプセ通り [Alpseesttaß] (車窓から) 。 正面には小さく "ノイシュヴァンシュタイン城" が見える。
「東」MAPLay. B
ホーエンシュヴァンガー地区
アルプセ通り [Alpseesttaß] から見る "ノイシュヴァンシュタイン城" (車窓から) 。
「東」MAPLay. B
ホーエンシュヴァンガー地区
アルプセ通り [Alpseesttaß] から見る "ノイシュヴァンシュタイン城" (車窓から) 。
「東」MAPLay. B
ホーエンシュヴァンガー地区
コロマン通り [Colomanstraße] から見る "ノイシュヴァンシュタイン城" (車窓から) 。 写真の左手に見える通りは、プフレーガー・ロートゥート通り [Pfleger-Rothut-Weg] 。
「東南東」MAPLay. B
コロマン通り [Colomanstraße] の "Photo stop" から見る "ノイシュヴァンシュタイン城"
「南南東」MAPLay. B
左手の通りは "コロマン通り" [Colomanstraße]
この通りには、ノイシュヴァンシュタイン城" の景観を楽しむため、所々に "Photo stop" と称する駐車スペースが設けられている。
「北北東」MAPLay. B
"Photo stop" からの景観
「東」MAPLay. B
"Photo stop" からの景観
「南東」MAPLay. B
"Photo stop" からの景観
「南南東」MAPLay. B
"Photo stop" に停車中の車内にて
「北」MAPLay. B
"コロマン通り" [Colomanstraße] (車窓から)
左手の建物は、聖コロマン教会 [St. Coloman] 。
「北北東」MAPLay. B
ラウターバッハ [Lauterbach] (車窓から)
「北東」MAPLay. B
レヒ川 [Lech] に架かるレヒタール橋 [Lechtalbrücke] (車窓から)
「北」MAPLay. B
レヒタール橋 [Lechtalbrücke] 上 (車窓から)
「南西」MAPLay. B
レヒタール橋 [Lechtalbrücke] 上 (車窓から)
「西北西」MAPLay. B



ニンフェンブルク城 [Schloss Nymphenburg] (ミュンヘン)
この宮殿はバイエルン選帝侯フェルディナント・マリアとその妻ヘンリエッテ・アーデルハイト・フォン・ザヴォイエンの命により、イタリア人建築家アゴスティーノ・バレッリが1664年に設計した。 その後、選帝侯の後を継いだ "息子マクシミリアン2世エマヌエル" が、1701年からエヘンリコ・ズッカリの設計で、サイドギャラリーと住宅パビリオンを拡張し、宮殿の体系的な拡張を開始した。  1714年からは、ヨーゼフ・エフナーが両側に4つの翼のある建物を完成し、中央の建物のファサードをフランス風に近代化した。 最終的には、マクシミリアン2世エマヌエルの息子である神聖ローマ皇帝カール7世が、Schlossrondell (雄大な円) (MAP) と呼ばれる庭園と、それを取り囲むバロック建築物 Kavaliershäuschen (騎士の家) を完成させ、現在の姿になった。
この宮殿は長い間バイエルンの支配者の夏の居城として使われた。 初代バイエルン王マクシミリアン1世は1825年に、ここで亡くなり、その曾孫であるルートヴィヒ2世は1845年にここで生まれた。
現在ニンフェンブルク宮殿は一般公開されているが、今なおヴィッテルスバッハ家当主が個人所有している。

パッヘルベルのカノン[Pachelbel's Canon]
1 ニンフェンブルク宮殿、チケット売り場と博物館の店
2 城の礼拝堂
3 ニンフェンブルク宮殿と庭園の管理
4 歴史的なポンプステーションを備えたヨハニスブルンハウス
5 Marstallmuseum (馬車とそりの博物館) と ニンフェンブルク磁器博物館
6 バイエルン州政府 城郭・庭園及び湖沼管理部局
7 噴水のあるグランドパルテール
8 パビリオンのある皇太子の庭
9 アマリエン城
10 緑のポンプハウスと鹿園のポンプハウスがある村
11 泉のパンの像 (ギリシア神話の牧畜の神)
12 バーデン城
13 バーデンブルガー湖
14 モノペトロス
15 グランドカスケード (大きな滝)
16 大運河
17 パゴデンブルク湖
18 パゴデン城
19 マグダレンクラウス (聖マグダラのマリアの庵)
シュロスガルテン運河 [Schloßgartenkanal]
駐車場脇の運河。 左手に見える建物が、ニンフェンブルク城 [Schloss Nymphenburg] 。
「北北西」MAPLay. C
"馬車と橇" の博物館前の運河
「北北東」MAPLay. C
左手の一連の建物は "ニンフェンブルク城" [Schloss Nymphenburg]
「北北東」MAPLay. C
"ニンフェンブルク城" [Schloss Nymphenburg] 前からの眺め
「北東」MAPLay. C
ニンフェンブルク城 [Schloss Nymphenburg] のファザード
「北西」MAPLay. C
ニンフェンブルク城の裏庭
グローセス・パートル・ミット・ヴァッサーフォンテーネ [Großes Parterre mit Wasserfontäne] 。
Großes Parterre mit Wasserfontäne (噴水のある広い "Parterre") 。  "Parterre" とは、花壇と路を装飾的に配置した庭を意味する。 英語では "Grand Parterre with fountain" と訳される。
「西」MAPLay. C
裏庭から見たニンフェンブルク城
「東北東」MAPLay. C
裏庭から見たニンフェンブルク城
「東」MAPLay. C
Großes Parterre mit Wasserfontäne (噴水のある広い "Parterre")
"Parterre" は、花壇と路を装飾的に配置した庭を意味する。
「西」MAPLay. C
Großes Parterre mit Wasserfontäne (噴水のある広い "Parterre")
"Parterre" は、花壇と路を装飾的に配置した庭を意味する。
「西南西」MAPLay. C
裏庭から見たニンフェンブルク城
「南東」MAPLay. C
ニンフェンブルク城のバルコニーからの眺め
Großes Parterre mit Wasserfontäne (噴水のある広い "Parterre") 。
「西」MAPLay. C
ニンフェンブルク城のバルコニーからの眺め
Großes Parterre mit Wasserfontäne (噴水のある広い "Parterre") 。
「西」MAPLay. C
ニンフェンブルク城のバルコニー
「西」MAPLay. C
ニンフェンブルク城のバルコニーからの眺め
Großes Parterre mit Wasserfontäne (噴水のある広い "Parterre") 。
「北西」MAPLay. C
ニンフェンブルク城のバルコニーからの眺め
Großes Parterre mit Wasserfontäne (噴水のある広い "Parterre") 。
「北西」MAPLay. C
ニンフェンブルク城のバルコニーから見る前庭
「北東」MAPLay. C
ニンフェンブルク城のバルコニーから見る前庭
「東南東」MAPLay. C
ニンフェンブルク城のバルコニーから見る前庭
「北東」MAPLay. C
ニンフェンブルク城の前庭
「南東」MAPLay. C
ニンフェンブルク城の前庭
「南南東」MAPLay. C
ニンフェンブルク城の前庭
「東北東」MAPLay. C
ニンフェンブルク城の前庭
「南」MAPLay. C
ニンフェンブルク城の前庭
「南南東」MAPLay. C
ニンフェンブルク城の前庭
「東」MAPLay. C
前庭から見る "ニンフェンブルク城"
「西」MAPLay. C
前庭から見る "ニンフェンブルク城"
「西」MAPLay. C
前庭から見る "ニンフェンブルク城"
「北西」MAPLay. C
ニンフェンブルク城の前庭
「南」MAPLay. C
前庭から見る "ニンフェンブルク城"
「西南西」MAPLay. C
前庭から見る "ニンフェンブルク城"
「西」MAPLay. C
ニンフェンブルク城の前庭
「北」MAPLay. C
前庭に広がる "シュロスガルテン運河" [Schloßgartenkanal]
「南」MAPLay. C
ニンフェンブルク城の前庭
「北」MAPLay. C
前庭に広がる "シュロスガルテン運河" [Schloßgartenkanal]
「北」MAPLay. C
前庭に広がる "シュロスガルテン運河" [Schloßgartenkanal]
「北西」MAPLay. C
前庭に広がる "シュロスガルテン運河" [Schloßgartenkanal]
この後、夕食のレストランへ向かう。
「北西」MAPLay. C
Kastanienbiergarten (栗のビアガーデン)
夕食のレストラン & ビアガーデン。
「北」MAPLay. C
Kastanienbiergarten (栗のビアガーデン)
MAPLay. C
Kastanienbiergarten (栗のビアガーデン)
MAPLay. C
Kastanienbiergarten (栗のビアガーデン)
MAPLay. C
Kastanienbiergarten (栗のビアガーデン)
MAPLay. C
Kastanienbiergarten (栗のビアガーデン)
MAPLay. C
Kastanienbiergarten (栗のビアガーデン)
MAPLay. C
Kastanienbiergarten (栗のビアガーデン)
MAPLay. C
Kastanienbiergarten (栗のビアガーデン)
「北」MAPLay. C
Kastanienbiergarten (栗のビアガーデン)
栗の木が茂るビアガーデン。 このビアガーデンで、夕食を済ませ、昨日と同じ宿泊ホテル、"アジムット ホテル ミュンヘン" [AZIMUT Hotel Munich] へ向かう。 (連泊)
「北北西」MAPLay. C
ホテルに向かう途中の風景 (車窓から)
左手の広場は "Sendlinger-Tor-Platz-噴水" 。
「北」MAPLay. C
ホテルに向かう途中の風景 (車窓から)
マキシミリアン通り [Maximilianstraße] 。 前方中央の像は、マクシミリアン2世の記念碑 [König Maximilian II Denkmal] 。
「東南東」MAPLay. C


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