旅の栞(ドイツ)
7月16日
ローテンブルク ~ デュンケルスビュール ~
ニュルンベルク ~ ミュンヘン (宿泊)
2024年5月31日(金)10:00をもちましてURLは下記の通り変更になります。
https://arisada.wjg.jp/deutschland/newpage7.html
ローテンブルク [Rothenburg] ローテンブルクを出立する前に、市壁の散策に出かける。 市壁は1172年に都市権を得てから建設され、"レーダーガッセ" の "マルクス塔" や "ガルゲンガッセ" の "ヴァイサー塔" などは、最初に建設された市門である。 この頃はほぼ円形をしていた町もじき手狭となり、14世紀前半には東と南へ民家が広がっていった。 そのため東は "ガルゲン門" から "レーダー門" を通って、南の "ジーべルス塔" まで半円を描くように第2次市壁が建設された。 その後まもなく南へ延びる "シュピタール地区" が出来上がり、14世紀後半には北側の市壁が築かれて今日の形となった。 しかし、1945年3月31日、16機のアメリカ空軍機の爆撃を受け多くが破壊された。 幸いそれは町の東側、今日の "ガルゲンガッセ" 周辺から "レーダー門" あたりに集中しているため、中心部の教会や市庁舎などは破壊を免れた。(↓) 東側の市壁のほとんどは市民と全世界からの寄付によって修復が成されている。 市壁の歩哨通路を歩くと、壁に献金者の名前と壁の長さが記されている。 献金額によって修復出来る壁の長さが異なるため、個人では大体1m、会社の名前では5mほどの数字が刻まれている。 日本人らしき名前もたくさん見られる。 ![]() |
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1200年頃の市壁 (青線) と現在の市壁 (赤線) | 黒く塗られた部分が爆撃エリア |
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プリンツホテル ローテンブルク [Prinzhotel Rothenburg] の前庭 (07:34) ホテルの建築基盤は半地下構造になっている。 (建築造形条例の高さ制限のため?) 左の塔は、"女性たちの塔" [Weiberturm] (塔種別4) で、その名前は女性のための刑務所があった事に由来する。 刑務所は塔の市壁外にあった。 左の塔は "レーダー塔" [Röderturm] て゜、"Röder" は中世の頃、ローテンブルクが帝国自由都市であったために持っていた、裁判制度を意味している。 「南東」MAPLay. A ![]() |
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宿泊した "プリンツホテル ローテンブルク" [Prinzhotel Rothenburg] (07:35) ホテルの正面。 玄関は門を入って階段を少し下りたところにある。 「北」MAPLay. A ![]() |
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ホテルでの朝食 (07:36) ホテルで朝食を済ませ、市壁の散策に出かける。 MAPLay. A ![]() |
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市壁の歩哨通路 (塔種別3) (07:39) 前方の塔は、物見の塔と呼ばれる "トーマス塔" [Thomasturm] 。 "レーダーシュ" [Röderschütt] 通りから階段を上がった所で、この辺りの市壁は第二次世界大戦後に再建されている。 (参照) 「北」MAPLay. A ![]() |
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1.隅部監視塔 2.壁内監視塔 3.後退した壁内監視塔 4.突出あいは側防監視塔 |
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市壁の歩哨通路 (07:39) "レーダーシュ" [Röderschütt] 通りへの昇降階段。 「南」MAPLay. A ![]() |
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物見の塔と呼ばれる "トーマス塔" [Thomasturm] 内の通路 (塔種別3) (07:39) 「北」MAPLay. A ![]() |
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市壁の歩哨通路 (07:40) 前方に見える塔は、"ガルゲンガッセ門" [Galgentor] の塔。 「北」MAPLay. A ![]() |
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市壁から見る旧市街 (07:41) ドイツには、まず国家の定めた基本法があり、その下に州の法律がある。 更に各々の町に独自の建築規定があって、ローテンブルクの場合は建築造形条令と広告物条令の二つがある。 中世の街並が残っているローテンブルクでは、古い建物や町全体の景観を壊してはならないよう、厳しい指導が行われている。 「西」MAPLay. A ![]() |
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市壁から見る旧市街 (07:41) 右前方に見える塔は、"ガルゲンガッセ門" [Galgentor] の塔。 「北西」MAPLay. A ![]() |
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市壁の歩哨通路 (07:42) 前方に見える塔は、"ガルゲンガッセ門" [Galgentor] の塔。 「北北西」MAPLay. A ![]() |
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ガルゲンガッセ門 [Galgentor] の塔 (07:43) 第二次世界大戦によって破壊された市壁の再建に協力した、献金者の名前と壁の長さが右の壁面に記されている。 献金額によって修復出来る壁の長さが異なるため、個人では大体1m、会社の名前では5mほどの数字が刻まれている。 「北西」MAPLay. A ![]() |
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ガルゲンガッセ門 [Galgentor] の塔 (07:44) "Galgen" は絞首台を意味し、嘗て、門から20mほど旧市街側に入ったところに絞首台があった事から名付けられている。 絞首台ゲートは1388年に建てられ、市の最高点で海抜438mに建てられている。 19世紀初頭までは自由帝国都市の管轄区の象徴として立っていた。 三十年戦争では、有名なカトリックの将軍 "ティリー" [Tilly] (1631)と "トゥレンヌ" [Turenne] (1645)が実際に攻撃し、成功している。 「北北西」MAPLay. A ![]() |
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ガルゲン通り [Galgengasse] (07:44) ガルゲンガッセ門 [Galgentor] の歩哨通路から見るガルゲン通り 。 「西」MAPLay. A ![]() |
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ガルゲン通り [Galgengasse] (07:44) ガルゲンガッセ門 [Galgentor] の歩哨通路から見る "ガルゲン通り" 。 中央に見える2つの尖塔は "聖ヤコブ教会" [St Jakobskirche] の塔。 「西」MAPLay. A ![]() |
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ガルゲンガッセ門 [Galgentor] (07:44) 門は二重構造になっており、写真の左側には内門が、写真の右側には外門がある。 「北西」MAPLay. A ![]() |
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ガルゲンガッセ門 [Galgentor] (07:45) 門は二重になっており、写真の左側には内門が、写真の右下 (足下) には外門がある。 「西北西」MAPLay. A ![]() |
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ガルゲンガッセ門 [Galgentor] (07:45) 外門の歩哨通路から市壁外 (東側) を撮影。 「東北東」MAPLay. A ![]() |
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ガルゲンガッセ門 [Galgentor] (07:45) 外門の歩哨通路から内門 (西側) を撮影。 塔の中央には鷲を模ったドイツ帝国の紋章と、その左右にローテンブルク (赤い城) の紋章が掲げられている。 市の最高点で海抜438mに建てられている。 19世紀初頭までは自由帝国都市の管轄区の象徴として立っていた。 現在でも旧市街への主要な通用門となっている。 「西南西」MAPLay. A ![]() |
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ガルゲンガッセ門の歩哨通路 (07:46) ベランダの様に門の側壁に設けられた歩哨通路。 「西南西」MAPLay. A ![]() |
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ガルゲン通り [Galgengasse] (07:46) ガルゲンガッセ門の北側側面に、ベランダの様に設けられた歩哨通路から撮影。 「西南西」MAPLay. A ![]() |
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"ガルゲンガッセ門" の北側の歩哨通路 (07:46) "ガルゲンガッセ門" の北側側面に、ベランダの様に設けられた歩哨通路から撮影。 「北北東」MAPLay. A ![]() |
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ガルゲンガッセ門 [Galgentor] (07:47) 左の石壁は "ガルゲンガッセ門" の北側面で、ベランダの様に歩哨通路が設けられている。 門を潜る通りは、"ガルゲン通り" [Galgengasse] で、旧市街の主要な通りとなっている。 「南西」MAPLay. A ![]() |
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市壁の歩哨通路 (07:48) この通路の突き当たりに、"悲しみの角の塔" [Kummereckturm] がある。 「北北西」MAPLay. A ![]() |
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市壁の歩哨通路 (07:48) 右の通路の突き当たりは角地になっており、そこには "悲しみの角の塔" [Kummereckturm] (MAP) が建っている。 この塔は市壁の北東の角に建っているため、敵に包囲されやすく、要塞の弱点として、町の人々は心配し、悲しんでいた。 そのため、1481年には、"ガンセル塔" [Ganserturm] (MAP) と城壁が "悲しみの角の塔" [Kummereckturm] の前に配置された。 しかし、三十年戦争で、有名なカトリックの将軍 "ティリー" [Tilly] (1631) と "トゥレンヌ" [Turenne] (1645)は、ここを突破口として近くの "ガルゲン門" を占拠し、ローテンブルクを攻略している。 因みに、手前の木はモミの木。 余談だが、ドイツでは、クリスマスツリーは本物のモミの木を切り取って使われることが多く、使った後の処理 (道端に捨てる等) が問題になっている。 「北西」MAPLay. A ![]() |
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悲しみの角の塔 [Kummereckturm] (塔種別1) (07:49) 右の石壁は "悲しみの角の塔" と呼ばれる小さな監視塔で、正方形のブロックとピラミッド型の屋根を持つ正方形の採石場石で造られている。 14世紀の第3四半期に建てられている。 「西」MAPLay. A ![]() |
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悲しみの角の塔 [Kummereckturm] 内 (塔種別1) (07:49) (南側の出入口から西側出入り口方向を撮影) この塔は市壁の北東の隅にあり、要塞の弱点として、町を防御する人々に心配と悲しみを与えた。 そのため、1481年には、"ガンセル塔" [Ganserturm] (MAP) と城壁が "悲しみの角の塔" [Kummereckturm] の前に配置された。 しかし、三十年戦争で、有名なカトリックの将軍 "ティリー" [Tilly] (1631) と "トゥレンヌ" [Turenne] (1645)は、ここを突破口として近くのガルゲン門を占拠し、ローテンブルクを攻略している。 「西北西」MAPLay. A ![]() |
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悲しみの角の塔 [Kummereckturm] 内 (南側の出入口) (塔種別1) (07:49) 因みに、"Kummereckturm" の "Kummer" は (悲しみ) を、"eck" は (コーナー) を、"turm" は (塔) を意味する。 (塔種別1) 「東南東」MAPLay. A ![]() |
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悲しみの角の塔 [Kummereckturm] 内 (西側の出入口) (塔種別1) (07:49) 「西」MAPLay. A ![]() |
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中央の塔は "ガルゲン門" [Galgentor] (07:49) 市壁に沿って延びる通りは、"クリンゲンシュ" [Klingenschütt] 。 「南南東」MAPLay. A ![]() |
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クリンゲン門 [Klingentor] まで続く歩哨通路 (07:50) 市壁に沿って延びる通りは、"クリンゲンシュ" [Klingenschütt] と呼ばれている。 この市壁の突き当たりには、"クリンゲン門" [Klingentor] (MAP) があり、嘗て、市内の井戸 (噴水) に水を供給するための貯水槽を備えていた。 "クリンゲンシュ" の名はクリンゲン門に因んだ名前で、"Klingenschütt" の "Klingen" は急勾配に下る峡谷を意味し、人々は峡谷を常に "クリンゲ" と呼んでいた。 また "schütt" は瓦礫を意味する言葉で、嘗て市壁建設の際、瓦礫がこの通りの彼方此方に積まれていたため付けられた名前と思われる。 (渓谷はタウバー川を指しているものと思われる) 「南西」MAPLay. A ![]() |
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市壁の歩哨通路から眺める旧市街 (07:50) この辺りは、第二次世界大戦の被害を受けていない地域もあり、古い建物が残っている。 (参照) 「南西」MAPLay. A ![]() |
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市壁の歩哨通路から眺める旧市街 (07:50) この辺りは、第二次世界大戦の被害を受けていない地域もあり、古い建物が残っている。 (参照) 「南」MAPLay. A ![]() |
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市壁の歩哨通路から眺める旧市街 (07:52) この辺りより西側は、第二次世界大戦で爆撃を受けていない。 とは言っても、戦後70年も経ってば、建て直された家も多い。 (参照) 「西南西」MAPLay. A ![]() |
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市壁の歩哨通路から眺める旧市街 (07:52) この辺りより西側は、第二次世界大戦で爆撃を受けていない。 とは言っても、戦後70年も経ってば、建て直された家も多い。 (参照) 「西南西」MAPLay. A ![]() |
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市壁の歩哨通路から眺める旧市街 (07:52) この辺りより西側は、第二次世界大戦で爆撃を受けていない。 とは言っても、戦後70年も経ってば、建て直された家も多い。 (参照) 「西南西」MAPLay. A ![]() |
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市壁の歩哨通路から眺める旧市街 (07:52) この辺りより西側は、第二次世界大戦で爆撃を受けていない。 とは言っても、戦後70年も経ってば、建て直された家も多い。 (参照) 「西南西」MAPLay. A ![]() |
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絞首刑執行人の塔 [Henkersturm] 内の通路 (塔種別3) (07:53) 塔は1400年頃に建てられ、地下牢が備わった建物は数回焼失し、1927年の落雷後に復元されている。 塔は "絞首刑執行人の塔" [Henkersturm] と呼ばれているが、 死刑執行人はここに住んだことはなく、クリンゲン塔 (MAP) のコテージをオフィスにしていた。 因みに、この辺りより西側は、第二次世界大戦で爆撃を受けていない。 (参照) 「西」MAPLay. A ![]() |
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歩哨通路から見る市壁外の街並み (07:54) 市壁内の中世の街並が残っている町では、古い建物や町全体の景観を壊してはならないように厳しい指導が行われるが、市壁外では急勾配の赤い屋根は統一されているものの、その他については厳しい指導は行われていない。 「北」MAPLay. A ![]() |
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歩哨通路の狭間からの眺め (07:54) 「北」MAPLay. A ![]() |
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市壁の歩哨通路から眺める旧市街 (07:54) 「西南西」MAPLay. A ![]() |
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市壁の歩哨通路から眺める旧市街 (07:55) 2つの尖塔を持つ建物は、"聖ヤコブ教会" [St Jakobskirche] 。 「南南西」MAPLay. A ![]() |
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市壁の歩哨通路から眺める旧市街 (07:55) 木立に囲まれた広場は、Schrannenplatz 駐車場。 「南南西」MAPLay. A ![]() |
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パウダータワー [Pulverturm] 内の通路 (塔種別3) (07:55) パウダータワー [Pulverturm] は、1408年頃に建てられた塔で、火薬 [Pulver] を保管するために使用されていたが、三十年戦争で、カトリック同盟の指導者の軍によって爆破され、その結果、町はすぐにティリー将軍に乗っ取られた。 「西」MAPLay. A ![]() |
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北側の市壁通路 (07:55) 「西」MAPLay. A ![]() |
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北側の市壁通路から見る旧市街 (07:56) 中央の尖塔を持つ建物は、"聖ヤコブ教会" [St Jakobskirche] 。 「南」MAPLay. A ![]() |
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北側の市壁通路から見る旧市街 (07:56) 「西南西」MAPLay. A ![]() |
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北側の市壁通路から見る旧市街 (07:56) バスの出発時刻が近づいたので、ここで引き返す。 「西南西」MAPLay. A ![]() |
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Fürbringerstürmlein 監視塔から見る旧市街 (塔種別4) (07:56) 尖塔を持つ建物は、"聖ヤコブ教会" [St Jakobskirche] 。 「南南東」MAPLay. A ![]() |
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北側の市壁通路から見る旧市街 (07:57) 尖塔を持つ建物は、"聖ヤコブ教会" [St Jakobskirche] 。 「南東」MAPLay. A ![]() |
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北側の市壁通路から見る旧市街 (07:57) 中央の尖塔を持つ建物は、"聖ヤコブ教会" [St Jakobskirche] 。 「南」MAPLay. A ![]() |
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パウダータワー [Pulverturm] の東側にある市壁の昇降階段 (07:58) 下の通りは、"クリンゲンシュ" [Klingenschütt] 。 「東」MAPLay. A ![]() |
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Schrannenplatz 駐車場 (07:58) 「南」MAPLay. A ![]() |
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北側の市壁に設けられている狭間 (07:59) 「東」MAPLay. A ![]() |
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北側の市壁に設けられた昇降階段 (08:01) 下の通りは、"クリンゲンシュ" [Klingenschütt] 。 「東」MAPLay. A ![]() |
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北側の市壁に設けられた昇降階段 (08:01) 下の通りは、"クリンゲンシュ" [Klingenschütt] 。 「東」MAPLay. A ![]() |
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絞首刑執行人の塔 [Henkersturm] 内の通路 (塔種別3) (08:01) 塔は1400年頃に建てられ、地下牢が備わった建物は数回焼失し、1927年の落雷後に復元されている。 塔は "絞首刑執行人の塔" [Henkersturm] と呼ばれているが、 死刑執行人はここに住んだことはなく、クリンゲン塔 (MAP) のコテージをオフィスにしていた。 因みに、この辺りより西側は、第二次世界大戦で爆撃を受けていない。 (参照) 「東」MAPLay. A ![]() |
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悲しみの角の塔 [Kummereckturm] (08:03) 左側の通路は北の市壁で、前方には右に延びる東の市壁がある。 北の市壁と東の市壁が、直角に交わる位置に "悲しみの角の塔" [Kummereckturm] (MAP) が建っている。 この塔は、北東の隅に建っているため、敵に包囲されやすく、要塞の弱点として、町を防御する人々に悲しみと心配をもたらしていた。 そのため、1481年には、"ガンセル塔" [Ganserturm] (MAP) と城壁が "悲しみの角の塔" [Kummereckturm] の前に配置された。 しかし、三十年戦争で、有名なカトリックの将軍ティリー [Tilly] (1631) とトゥレンヌ [Turenne] (1645)は、ここを突破口として近くのガルゲン門を占拠し、ローテンブルクを攻略している。 「東南東」MAPLay. A ![]() |
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東の市壁からの眺め (08:04) 前方の塔は、"ガルゲン門" [Galgentor] の塔。 「南南西」MAPLay. A ![]() |
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東の市壁からの眺め (08:04) 中央の遠くに見える4つの塔は、左から "旧市庁舎の塔" (MAP) 、"白い塔" [Weißer Turm] (MAP) 、最後の2つの塔は "聖ヤコブ教会" [St Jakobskirche] (MAP) の塔。 「西南西」MAPLay. A ![]() |
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ガルゲン門 [Galgentor] と "ガルゲン通り" [Galgengasse] (08:05) 「南南西」MAPLay. A ![]() |
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ガルゲン門 [Galgentor] と "ガルゲン通り" [Galgengasse] (08:05) 「南南西」MAPLay. A ![]() |
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ガルゲン門 [Galgentor] と "ガルゲン通り" [Galgengasse] (08:05) 「南」MAPLay. A ![]() |
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ガルゲン門 [Galgentor] (08:05) 門は二重門になっており、左下に外門が、右下に内門がある。 「南」MAPLay. A ![]() |
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東の市壁からの眺め (08:06) 中央の塔は、物見の塔と呼ばれる "トーマス塔" [Thomasturm] (MAP) で、"ガルゲン門" [Galgentor] (MAP) と "女性たちの塔" [Weiberturm] (MAP) の中間に位置している。 「南」MAPLay. A ![]() |
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レーダー塔 [Röderturm] と "レーダー通り" [Rödergasse] (08:08) 「西」MAPLay. A ![]() |
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市壁に沿って続く通り "レーダーシュ" [Röderschütt] (08:08) 手前の塔は、"女性たちの塔" [Weiberturm] 、その向こうは "トーマス塔" [Thomasturm] (物見の塔)。 「北北東」MAPLay. A ![]() |
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レーダー塔 [Röderturm] からの眺め (08:09) 「北北西」MAPLay. A ![]() |
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レーダーシュ [Röderschütt] から見る "レーダー塔" (08:09) この後、ホテルに戻り、ディンケルスビュール [Dinkelsbühl] へ向かう。 「南」MAPLay. A ![]() |
ディンケルスビュール [Dinkelsbühl] 人口1万人余の市壁に囲まれた小さな街。 30年戦争や第2次世界大戦でも破壊を免れたため、15世紀に建てられたという美しい木組みの家が残る。 本物の中世の街並みと並んで周囲を水堀に囲まれた景観の美しさはロマンチック街道 [ Romantische Straße] 中でも指折り。 30年戦争の際、町を破壊から守ったのは、子供達だったと言われている。 ローテンブルクが新教徒 (プロテスタント) の町で、1618年から1648年まで続いた30年戦争の最中、旧教 (カトリック) 側の皇帝軍に包囲されたという史実もあれば、逆にディンケルスビュールのように新教 (プロテスタント) 軍に包囲された旧教(カトリック)徒の町もある。旧教徒の町ディンケルスビュールは、1632年に新教徒側のスウェーデン軍に包囲された。そのとき町の子どもたちが敵将軍の前にひざまずいて許しを乞い、敵将軍は心を動かされて、子どもたちの願いを聞き入れ、町は破壊から免れたというエピソードがある。 ドイツの町では、ローテンブルクの "マイスタートゥルンク" [Meistertrunk] (関連) と同様、キリスト教に関係する宗教祭や史実に基づく歴史祭が多いが、ディンケルスビュールの "キンダーツェヒェ" [Kinderzechel] 祭もまた、30年戦争中に生じたエピソードを基にして継承されたもので、1897年来、毎年7月半ばの第2あるいは第3金曜日から10日間繰り広げられている。 キンダー [Kinder] とは子どもたちを、ツェッヒェ [zechel] は飲み食いを意味する。 つまり、"キンダーツェヒェ祭" は、町が子供達を持てなす催し物となっている。 ![]() |
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一般道2419号 (St.2419) (車窓から) (08:49) 麦畑が広がるフランケン地方の平野の中を、ロマンテイック街道 [ Romantische Straße] はひたすら南へ続く。 ローテンブルク [Rothenburg] からデインケルスビユール [Dinkelsbühl] までは約45km 。 「西北西」MAPLay. B ![]() |
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一般道2419号 (St.2419) (車窓から) (08:49) 「西南西」MAPLay. B ![]() |
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ヴェルニッツ川 [Wörnitz] に架かる橋 (09:18) この橋は、ヴェルニッツ島 [Wörnitzinsel] の東側を流れるヴェルニッツ川に架かる歩行者用の橋で、少なくとも1926年の地図 (↓) には記載されておらず、それ以後に造られた比較的新しい橋と思われる。 「西南西」MAPLay. B ![]() |
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1926年の地図 出典:ミュンヘン工科大学 |
現在の地図 |
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ヴェルニッツ島の東側を流れる "ヴェルニッツ川" [Wörnitz] (09:18) 「北西」MAPLay. B ![]() |
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ヴェルニッツ川 [Wörnitz] (09:19) ヴェルニッツ川はこの辺りで、中州を形成し東西に分かれており、この川は東側の川。 「南」MAPLay. B ![]() |
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ヴェルニッツ島 [Wörnitzinsel] から見る旧市街 (09:19) 写真の左側に写っている、屋根が "おかっぱ頭" の様な塔は "農家の塔" [Bäuerlinsturm] 。 右の屋根が四角錐に尖った塔は、"死刑執行人の塔" [Henkersturm] 。 "農家の塔" [Bäuerlinsturm] は、特徴的な木組みの階層と急勾配の切妻屋根(16世紀)を備えた塔で、ディンケルスビュールの、街のシンボルになっている。 「南」MAPLay. B ![]() |
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ヴェルニッツ島 [Wörnitzinsel] (ヴェルニッツ川の中州) にて (09:20) 旧市街を取り囲む市壁には、ローテンブルクの様な回廊 (歩哨通路) は付いていないので、歩くことは出来ない。 回廊を付けなかった分、見張り塔を多く造っている。 (↓) 「南」MAPLay. B ![]() |
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ディンケルスビュールの概略図 |
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ヴェルニッツ島の西側を流れるヴェルニッツ川に架かる橋 (09:22) この橋は、ヴェルニッツ島 [Wörnitzinsel] の西側を流れるヴェルニッツ川に架かる歩行者用の橋で、少なくとも1926年の地図には記載されておらず、それ以後に造られた比較的新しい橋と思われる。 (関連) 「北西」MAPLay. B ![]() |
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ヴェルニッツ島の西側を流れるヴェルニッツ川に架かる橋 (09:22) 「西」MAPLay. B ![]() |
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島の西を流れる "ヴェルニッツ川" [Wörnitz] (09:22) 中央の塔は、"小さな要塞と3つの通路の塔" [Kleine Bastei und Dreigangs-Turm] 。 「北西」MAPLay. B ![]() |
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島の西を流れる "ヴェルニッツ川" [Wörnitz] (09:23) 中央に見える塔は、"農家の塔" [Bäuerlinsturm] と "死刑執行人の塔" [Henkersturm] 。 "農家の塔" [Bäuerlinsturm] は、街のランドマークになっている。 「南南東」MAPLay. B ![]() |
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島の西を流れる "ヴェルニッツ川" [Wörnitz] (09:23) 左手の塔は、"小さな要塞と3つの通路の塔" 。 川を挟んで右手側は、"島の牧草地駐車場" [Parkplatz Inselwiese] 。 「北北西」MAPLay. B ![]() |
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市壁に設けられた通路 (09:23) 少なくとも1926年の地図には記載されておらず、それ以後に設けられた生活通路と思われる。(関連) 「西南西」MAPLay. B ![]() |
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ヴェス路地 [Wethgasse] (09:24) 「南西」MAPLay. B ![]() |
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ネルドリンガー通り [Nördlinger Str.] (09:24) 「西北西」MAPLay. B ![]() |
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ネルドリンガー通り [Nördlinger Str.] (09:25) 中央の塔は、"聖パウルス教会" [St.-Pauls-Kirche] 。 「西北西」MAPLay. B ![]() |
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聖パウルス教会 [St.-Pauls-Kirche] (福音教会) (09:26) 「南」MAPLay. B ![]() |
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革市場 [Ledermarkt] 広場 (09:26) 右手に青地に黄色の十字の旗が立っているのはスエーデン軍の旗。 "キンダーツェヒェ" [Kinderzechel] 祭が、この日の翌日 (7/17) から26日まで開かれる。 そのための準備で、ドイツ国旗、州旗、スエーデン国旗が立てられている。 (関連) 「北西」MAPLay. B ![]() キンダーツェヒェ祭り ドイツで最も古い芸術祭の1つで、1897年来、毎年開かれている。 祭りの中心日には劇の出演者や、中世の衣装を身につけた町の人々による盛大な、パレードが行われるのは、ローテンブルクと同じであるが、大きな違いは、ディンケルスビユー ルの場合はハイライトシーンが外で起こったため、室内で演じられる第一部と、旧市庁舎広場で演じられる第二部とに分かれている。 劇が行われる日は、朝早くからヴェルニッツ門の外の草原にスウェーデン軍が野営し、大砲を轟かせている。 劇は、シュランネ [Schranne] と呼ばれる、嘗ての穀物倉庫を改築した宴会場の中で始まる。 新教徒側の市会議員たちが、 町が抱囲された知らせを聞いて事態を審議している。 そこへ聖ゲオルク教会の塔守の娘であるローレが、町の子どもたちと共に現れ、みんなで敵の将軍に慈悲をお願いすると告げる。 ここで第一部が終了し、舞台は、すぐさまスウェーデン軍が陣を敷く旧市庁舎広場の第二部へと移動する。 観客たちも一緒になって、ぞろぞろ広場へ向かう。 馬上のフォン・シュぺロイト将軍は町の破壊を言い渡すが、そのとき、ローレが大勢の町の子どもたちを引き連れて、将軍の前に歩みでる。 慈悲を請うローレの必死な叫びに最初は耳を貸さなかった将軍だったが、ふと見ると、その子供達の中に我が子とそつくりの小さな男の子が目に止まる。 シュぺロイトは我が子を思い出し、胸を熱くしてその男の子を抱き上げる。 そして最終的に子どもたち の願いは聞きとどけられ、町は破壊から免れた。 (関連) |
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ヴェルニッツ門 [Wörnitztor] (09:27) 革市場 [Ledermarkt] 通りの突き当たりにある塔は、ヴェルニッツ門 。 「北東」MAPLay. B ![]() |
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市が開かれる場所 [Marktplaz] (09:27) 中世都市の多くが、市庁舎と教会のあるマルクト広場を中心に発達しているのに対し、ディンケルスビュールには大きなマルクト広場がない。 聖ゲオルク大聖堂 [St.-Georgs-Münster] (MAP) が建つ "ヴァインマルクト" [Weinmarkt] (ワイン市場) から "マルクトプラッツ" Marktplaz] にかけてが、中心地となっている。 聖ゲオルク教会は、12世紀にその基礎が造られ、ロマネスク樣式の塔が聳える大きな教会である。 教会堂の方はゴシック様式で、改築と増築を重ねた結果15世紀には大体今日の形になった。 「北西」MAPLay. B ![]() |
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市場広場 [Marktplatz] からの眺め (09:29) 中央の塔は、"聖パウルス教会" [St.-Pauls-Kirche] 。 「南東」MAPLay. B ![]() |
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市場広場 [Marktplatz] からの眺め (09:30) ディンケルスビュールは戦災を全く受けておらず、本物の中世の町並みを留める町だが、ローテンブルクが近くにあるため、いつまでたっても観光地化されず、観光客は少ない。 ツアープランも1時間程度の自由見学になっている場合が多く、土産物店も殆ど見かけない。 「南」MAPLay. B ![]() |
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聖ゲオルク教会前から見る "ヴァインマルクト" [Weinmarkt] 通り (09:30) 「北」MAPLay. B ![]() |
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Dr. マルティン・ルター通り [Dr. Martin Luther Straße] (09:39) 右手前の黄色い建物は、"聖霊教会" [Heilig Geist Kirche] 。 その向こうの黄色い建物は、"旧聖霊病院" [Ehemaliges Spital Zum Heiligen Geist] 。 「北」MAPLay. B ![]() |
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"ヴァインマルクト" [Weinmarkt] (ワイン市場) 通り (09:40) 「南」MAPLay. B ![]() |
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Dr. マルティン・ルター通り [Dr. Martin Luther Straße] (09:41) 通りの右の建物で、手前の黄色い建物は、"聖霊教会" [Heilig Geist Kirche] 。 その向こうの黄色い建物は、"旧聖霊病院" [Ehemaliges Spital Zum Heiligen Geist] 。 中央の塔は "ローテンブルク門"* [Rothenburger Tor] 。 「北北東」MAPLay. B ![]() * 市壁門の名の多くは、主要な行き先が門の名前になっている。 |
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"Dr. マルティン・ルター通り" [Dr. Martin Luther Straße] (09:41) 通りの右の建物で、手前の黄色い建物は、"聖霊教会" [Heilig Geist Kirche] 。 その向こうの黄色い建物は、"旧聖霊病院" [Ehemaliges Spital Zum Heiligen Geist] 。 中央の塔は "ローテンブルク門"* [Rothenburger Tor] 。 「北北東」MAPLay. B ![]() * 市壁門の名の多くは、主要な行き先が門の名前になっている。 (関連) |
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ドイチェス・ハウス [Deutsches Haus] (09:43) 右へ入る路地から、左へ2軒目の7層の建物がドイチェス・ハウス。 ドイチェス・ハウスは、1440年にぺーター・ドレクセル・ドルフシュテッテン伯という市民によって建てられた。 それは1600年頃に改築され、今日のファサードを持つ館となった。 以来、後期ルネサンス様式の木組の家としては南ドイツで最も美しい建物とされている。 各階の窓の下には際立った木組模様が施されおり、窓に咲き誇る花々が一層美しさを添えている。当時の上層階級市民の館として建てられたものだが、1575年から旅籠となり、現在はロマンティック街道 [Romantische Straße] (ローマへの巡礼の道) の歴史を感じさせる有名なホテル・レストランとなっている。 ドイチェス・ハウスはディンケルスビュールで 一番格式高いホテルで、昔は市参事会員たちとツンフト・マイスター [Zunftmeister] たちが頻繁に利用した。 ツンフトとは中世ヨーロッバの手工業者の同業組合のことで、マイスターは親方という意味。 つまりドイチェス・ハウスは中世の昔からちよっとしたお偉いさん方が集まった場所だった。 右端の半分だけ写っている黄色い建物は、シュランネ [Schranne] と呼ばれている宴会場で、"キンダーツェヒェ" [Kinderzechel] の第一部が行われる所。 シュランネとは穀物市場のことで、ここは嘗て、穀物の倉庫と取引場として使われていた。 「南南西」MAPLay. B ![]() |
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Ehemaliges Spital Zum Heiligen Geist (旧聖霊病院) (09:47) 通りの右の建物は、中庭と三つの翼部が一体となった施設で、シュピタール (養老院) になっている。(MAP) 1280年ごろ寄贈され、1380年に "救貧院教会" [Heilig Geist Kirche] が建設された。 15世紀には、病める者と貧しい者のための救済施設としてシュピタール (養老院) が建てられ、現在は歴史博物館となって町の歴史と市民文化を伝える展示が行われている。 また中庭には1700年当時使用されていた、染物用の木製圧縮ローラーや大きな水車の輪などが置かれている。 博物館の建物の一部は今も養老院として使われている。 13世紀頃、この施設は市壁の外にあり、市門が閉ざされた後に町へ着いた旅人たちの宿泊所にも提供されていた。 病める者の施設が市壁の外にあったのは、ペストなどの疫病感染を防ぐためだった。 「北」MAPLay. B ![]() |
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スパイス&ティーギャラリー [Gewürz & Teegalerie] (09:47) ハーブティー等を販売している土産物店。 「西北西」MAPLay. B ![]() |
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スパイス&ティーギャラリー [Gewürz & Teegalerie] (09:50) ハーブティー等を販売している土産物店。 MAPLay. B ![]() |
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Dr. マーティン・ルター 通り [Doktor Martin Luther Straße] (09:51) 「西」MAPLay. B ![]() |
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Dr. マーティン・ルター 通り [Doktor Martin Luther Straße] (09:51) 「南西」MAPLay. B ![]() |
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Dr. マーティン・ルター 通り [Doktor Martin Luther Straße] (09:52) 「北北西」MAPLay. B ![]() |
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リエビズ・シティ・カフェ [Liebi's Stadtcafé] (09:54) パン屋 & カフェ。 「北西」MAPLay. B ![]() |
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Ehemaliges Spital Zum Heiligen Geist 前にある井戸とポンプ (10:03) Dr. マーティン・ルター 通り [Doktor Martin Luther Straße] の東側の歩道上にある、井戸とポンプ。 (詳細は不明) 「東」MAPLay. B ![]() |
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Ehemaliges Spital Zum Heiligen Geist (旧聖霊病院) (10:05) 中庭と三つの翼部が一体となった施設で、シュピタール (養老院) になっている。 中庭には1700年当時使用されていた、染物用の木製圧縮ローラーや大きな水車の輪などが置かれている。 博物館の建物の一部は今も養老院として使われている。 「北」MAPLay. B ![]() |
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Ehemaliges Spital Zum Heiligen Geist (旧聖霊病院) (10:05) 中庭と三つの翼部が一体となった施設で、シュピタール (養老院) になっている。 中庭には1700年当時使用されていた、染物用の木製圧縮ローラーや大きな水車の輪などが置かれている。 博物館の建物の一部は今も養老院として使われている。 「北」MAPLay. B ![]() |
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Ehemaliges Spital Zum Heiligen Geist (旧聖霊病院) (10:06) 中庭と三つの翼部が一体となった施設で、シュピタール (養老院) になっている。 中庭には1700年当時使用されていた、染物用の木製圧縮ローラーや大きな水車の輪などが置かれている。 博物館の建物の一部は今も養老院として使われている。 「北」MAPLay. B ![]() |
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Ehemaliges Spital Zum Heiligen Geist (旧聖霊病院) (10:06) 中庭と三つの翼部が一体となった施設で、シュピタール (養老院) になっている。 中庭には1700年当時使用されていた、染物用の木製圧縮ローラーや大きな水車の輪などが置かれている。 博物館の建物の一部は今も養老院として使われている。 「北西」MAPLay. B ![]() |
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Ehemaliges Spital Zum Heiligen Geist (旧聖霊病院) (10:07) 中庭と三つの翼部が一体となった施設で、シュピタール (養老院) になっている。 中庭には1700年当時使用されていた、染物用の木製圧縮ローラーや大きな水車の輪などが置かれている。 博物館の建物の一部は今も養老院として使われている。 「北北東」MAPLay. B ![]() |
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ローテンブルク門 [Rothenburger Tor] (10:08) 中央の塔は "ローテンブルク門"* [Rothenburger Tor] 。 市側 (内側) のローテンブルクゲートタワー [Rothenburger Torturm] (1390年頃)の最上部にはには、付け柱で飾られた階段状の切妻がある。 「北」MAPLay. B ![]() * 市壁門の名は、主要な行き先が門の名前になっている場合が多い。 (関連) |
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ローテンブルク門 と ローテンブルク池 (10:10) 「南南西」MAPLay. B ![]() |
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ローテンブルク門 と ローテンブルク池 (10:10) 「西南西」MAPLay. B ![]() |
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ローテンブルガー・ヴァイアー [Rothenburger Weiher] (ローテンブルク池) (10:10) 「西」MAPLay. B ![]() |
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ローテンブルク門 [Rothenburger Tor] (10:11) ゲート通路の "出し狭間" と出窓のある "バービカン" [Barbican] (16世紀)は、ディンケルスビュールの防御力を示している。 (関連) 内部には、拷問室、刑務所、魔女狩り等の資料が展示されている。 「南南西」MAPLay. B ![]() |
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市壁 [Stadtmauer] (左) と ローテンブルク池 [Rothenburger Weiher] (右) (10:11) 「西」MAPLay. B ![]() |
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ローテンブルク門 [Rothenburger Tor] の西側面 (10:12) 右の壁は、市壁。 「東南東」MAPLay. B ![]() |
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ローテンブルク門 [Rothenburger Tor] の西側面 (10:12) 「東南東」MAPLay. B ![]() |
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ローテンブルク門の Postern* (側門) からの撮影 (10:13) 「南」MAPLay. B ![]() * Postern は、大きなメインアーチの側にある、歩行者用の小さな門。 |
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ローテンブルク門 [Rothenburger Tor] (10:13) 「北北東」MAPLay. B ![]() |
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ローテンブルク門 [Rothenburger Tor] (10:13) 「北」MAPLay. B ![]() |
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通りの左側の黄色い塔は、"聖霊教会" [Heilig Geist Kirche] (10:14) その手前の黄色い建物物は、Ehemaliges Krankenhaus (旧病院) 。 「南」MAPLay. B ![]() |
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聖ゲオルク大聖堂 [Münster St. Georgs] (10:20) ヴァインマルクト [Weinmarkt] (ワイン市場) に建つ聖ゲオルク教会は、12世紀にその基礎が造られロマネスク樣式の塔が 聳える大きな教会。 教会堂の方はゴシック様式で、改築と増築を重ねた結果15世紀には大体今日の形になった。 「東」MAPLay. B ![]() |
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聖ゲオルク大聖堂 [Münster St. Georgs] (10:20) ここ聖ゲオルク教会では、竜の上に乗つて剣を突き刺すゲオルクの姿が見られる。 教会の扉を開けると、 聖堂内陣の大きさに驚く。 幅22.5m、奥行き77mで11組の対になった柱が高さ21m天井を支えている。 十字架にかけられたキリス卜を描いた中央祭壇には、馬にまたがる聖ゲオルクも描かれている。 南の側廊には聖アウレリウス [Aurelius] の遺骨がある。 紀元64年に皇帝ネロによって斬首刑に処せられた聖人の遺骨で、18世紀にローマからこの教会に移された。 「東」MAPLay. B ![]() |
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聖ゲオルク大聖堂 [Münster St. Georgs] (10:22) 聖ゲオルクとは、4世紀にディオクレティアヌス帝に仕えて殉死した聖者のことで、通常馬にまたがつて竜を退治する姿で描かれ、騎手や戦士の守護聖人として崇められている。 馬にまたがるゲオルクのモチーフは石像や噴水などでよく使われる。 (関連) 「西」MAPLay. B ![]() |
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聖ゲオルク大聖堂 [Münster St. Georgs] (10:22) 拝廊の上のパイプオルガンには、竜を退治するゲオルクの絵が飾られている。 「西」MAPLay. B ![]() |
ニュルンベルク [Nürnberg] 中世からの伝統ある都市であり、ドイツ統一を主導したホーエンツォレルン家がニュルンベルク城伯を世襲した都市である。 また、ナチス政権が最初の大会を開催した都市であり、それゆえナチス政権要人を裁く「ニュルンベルク裁判」が行われたことでも知られる。 リヒャルト・ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の舞台として知られ、また詩人ハンス ザックス、画家デューラーの出身地としても知られている。 現在も旧市街は中世の城壁で囲まれている。 ![]() |
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ニュルンベルク市街地図 |
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一般道2220号 (St.2220) からの眺め (車窓から) (10:43) 「北」MAPLay. C ![]() |
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アム・プレルラー [Am Plärrer] 通り (車窓から) (11:54) ニュルンベルクトラムは、1881年に開業したドイツ国鉄のハブ駅でもあるニュルンベルク中央駅を中心に運行している路面電車。 「西南西」MAPLay. C ![]() |
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アム・プレルラー [Am Plärrer] 通り (車窓から) (11:55) ニュルンベルクトラムは、1881年に開業したドイツ国鉄のハブ駅でもあるニュルンベルク中央駅を中心に運行している路面電車。 「西南西」MAPLay. C ![]() |
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聖母教会 [Frauenkirche] (12:06) 教会は、1349年のポグロム* (ペストの発生に関連して) の間に破壊された旧ユダヤ人の シナゴーグの代わりに、壮大な市場に建てられた。 教会の正面には、仕掛け時計があり、毎日1回だけ12時の鐘と共に仕掛け時計が動く。 ペストがヨーロッパを席巻した14世紀の中葉、ドイツの各都市でユダヤ人に対する迫害が連鎖式に起こった。 ペスト・ポグロムとも呼ばれるように、ペストがもたらした混乱がユダヤ人迫害の引き金になったと説明されている。 しかし事実は異なり、ニュルンベルクでは、ペストの被害がなくても、ユダヤ人が水に毒を入れたと濡れ衣を着せられ、迫害を受けた。 その際、破壊されたシナゴーグとユダヤ人の霊を慰めるため、この聖母教会が建てられた。 「南東」MAPLay. C ![]() * ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)を言う。 |
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旧救済院 [Heilig-Geist-Spital] (聖霊病院) (12:12) 右は、嘗て救済院だった建物。 現在、二階以上はアパートになっており、生活を豊かにするため、高齢者向けに106のアパートを提供している。 一階の宝飾店が並ぶアーケードを通って、レストランへ向かう。 天井に "Speiserestaurant Weinstube" (飲食店・ワインバー) と書かれた看板を右に折れればレストラン "WEINSTUBE・HEILG・GEIST・SPITAL" (ワインバー・救済院) に至る。 「東」MAPLay. C ![]() |
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WEINSTUBE・HEILG・GEIST・SPITAL (12:12) 玄関の上には "WEINSTUBE・HEILG・GEIST・SPITAL" (ワインバー・救済院) のエンブレムが掲げられている。 「南南東」MAPLay. C ![]() |
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WEINSTUBE・HEILG・GEIST・SPITAL (ワインバー・救済院) (12:12) ニュルンベルクのハイリヒ・ガイスト・スピタルは、旧自由帝国都市ニュルンベルクで最大の病院であった。 また、帝国レガリアの寄託所でもあり、1424年から1796年までニュルンベルクに保管されていた。 病院の一部はペーグニッツ川 [Pegnitz River] の上に建てられ、現在はレストラン兼、老人ホームとして機能している。 「南南東」MAPLay. C ![]() |
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"WEINSTUBE・HEILG・GEIST・SPITAL" のエントランスホール (12:12) 病院は1339年に教会と共にニュルンベルクの商人である "コンラート・グロース" [Konrad Groß] が "ハイリグ・ガイスト・スピタル" (救済院) を設立した。 1420年には諸聖人の礼拝堂が追加されている。 病院と老人ホームは中世ドイツで最大の社会制度であった。 第二次世界大戦中に破壊され、現在の建物は1950年代に再建されたもので、一階はレストランとして利用されている。 1424年から1796年まで、帝国の王冠の保管場所として使用されていた。 「南南東」MAPLay. C ![]() |
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WEINSTUBE・HEILG・GEIST・SPITAL (ワインバー・救済院) (12:13) 「北東」MAPLay. C ![]() |
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WEINSTUBE・HEILG・GEIST・SPITAL (ワインバー・救済院) (12:20) 「東」MAPLay. C ![]() |
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WEINSTUBE・HEILG・GEIST・SPITAL (ワインバー・救済院) (12:28) 「南」MAPLay. C ![]() |
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WEINSTUBE・HEILG・GEIST・SPITAL (ワインバー・救済院) (12:28) 「南」MAPLay. C ![]() |
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WEINSTUBE・HEILG・GEIST・SPITAL (ワインバー・救済院) (12:35) 「東」MAPLay. C ![]() |
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ミュージアムブリッジ [Museumsbrücke] (12:44) レストラン "WEINSTUBE・HEILG・GEIST・SPITAL" (ワインバー・救済院) の窓からの眺め。 前方の橋は、ミュージアムブリッジ [Museumsbrücke] 。 ミュージアムブリッジの石のアーチは、実は2つで、左端の一見アーチに見える穴は、ビルの下を迂回して流れる "ペーグニッツ川" [Pegnitz River] の側水路。 この辺りの川幅は極端に狭くなっているため、洪水を防ぐ目的で、第二次世界大戦後の復興に併せて増設された。 (↓) ペーグニッツに架かるニュルンベルク最古の橋は、今日のミュージアムブリッジのある場所と考えられている。 13世紀には木製の橋が記録されており、この橋はフランシスコ会修道院 (MAP) と街をつなぐため、バルフュッサーブリュッケ [Barfüßerbrücke] (裸足*の橋) と呼ばれていた。 しかし、その後何世紀にもわたって洪水がこの場所の橋を繰り返し破壊し、1484年には、石の下部構造と木製の上部構造を備えた新しい橋として使用されてきたが、1590年に、建物は再び洪水によってひどく被害を受けたため、市は1699年に強固な橋に置き換えることを決定した。 1700年に2つの石のアーチの開口部を備えた巨大な橋を造り、ジョセフ I [Joseph I] 世王にちなんで "ジョセフ" または "キングズ・ブリッジ" と名付けた。 19世紀には、旧バルフュッセル教会 [Barfüßerkirche] (裸足の教会) の跡地 (MAP) に社交と読書会のための「Gesellschaft Museum」と呼ばれる集会所があったため、名前は "ミュージアムブリッジ" [Museumsbrücke] に変更された。 「西」MAPLay. C ![]() * "裸足の橋" の裸足は、フランシスコ会では、各地を宣教する際、粗衣と裸足で行った事に由来する。 |
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1954年の復興当時の様子 写真出典:Wikimedia Commons |
側水路の地下経路 OpenStreetMap:MAP |
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側水路の流出口 (近年) 北西方向から見た撮影。 写真出典:Wikimedia Commons |
ミュージアムブリッジ (近年) 東側からの撮影。 橋脚の川上側には、漂流物の激突から橋脚を護るため、防護杭が設けられている。 |
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ミュージアムブリッジ 西側から見た風景版画。 (1730年頃) 現在と、殆ど変わっていない。 写真出典:Wikimedia Commons |
ミュージアムブリッジ 東側から見た風景。 (1880年) この時代には、まだ側水路は設けられていない。 写真出典:Wikimedia Commons |
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レストラン (ワインバー・救済院) の窓からの眺め (12:44) 「西」MAPLay. C ![]() |
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WEINSTUBE・HEILG・GEIST・SPITAL (ワインバー・救済院) (12:46) 「北北東」MAPLay. C ![]() |
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WEINSTUBE・HEILG・GEIST・SPITAL (ワインバー・救済院) (12:47) 「北北東」MAPLay. C ![]() |
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ミュージアムブリッジ [Museumsbrücke] からの眺め (13:09) ペーグニッツ川 [Pegnitz River] の上に建っているのが、昼食のレストラン "ワインバー・救済院" 。 「東南東」MAPLay. C ![]() |
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ミュージアムブリッジ [Museumsbrücke] からの眺め (13:09) 前方の橋は、ペーグニッツ川 [Pegnitz River] に架かる "フライシュ橋" [Fleischbrücke] 。 「西北西」MAPLay. C ![]() |
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ミュージアムブリッジ [Museumsbrücke] にて (13:10) 橋の中央の欄干に設置された碑文プレートは、皇帝レオポルト1世とジョセフ1世に敬意を表して置かれたもので、「ジョセフスブリュッケ」 (ジョセフの橋) と「ケーニヒスブリュッケ」 (国王の橋) という名前の由来にもなっているが、大衆には受け入れられなかった。 また、神聖ローマ帝国の紋章、ハンガリー王国とボヘミア王国の紋章、ニュルンベルクの紋章、最高位の評議員の紋章が刻まれたプレートもある。 「西北西」MAPLay. C ![]() |
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ミュージアムブリッジ [Museumsbrücke] にて (13:10) 露店が立ち並ぶ "ミュージアムブリッジ" 。 「南」MAPLay. C ![]() |
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ミュージアムブリッジ [Museumsbrücke] にて (13:10) 露店が立ち並ぶ "ミュージアムブリッジ" 。 「北北東」MAPLay. C ![]() |
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病院 (救済院) 路地 [Spitalgasse] (13:12) 右の建物群は、旧救済院 [Heilig-Geist-Spital] (聖霊病院) だった建物。 その中の一部の建物にレストラン "WEINSTUBE・HEILG・GEIST・SPITAL" (ワインバー・救済院) がある。 中央やや左にある彫刻は "阿呆船の噴水" [Narrenschiffbrunnen] 。 高さ3.60 mのブロンズ彫刻で、"エヘカルセル" [Ehekarussell] と同様に、ユルゲンヴェーバー [Jürgen Weber] の作品。 船は破滅の危機に瀕した世界を表し、聖書のシーンを表現力豊かにデザインされたフィギュアで構成されている。 船縁に刻まれた文字は、環境破壊、戦争、暴力に対する警告と共に現在との関わりを示している。 (実際には噴水設備は備わっていない) 尚、 この噴水彫刻は、セバスチャンブラント(1494年)によって書かれた諷刺文学本 "阿呆船" [Das Narrenschiff] の巻頭挿絵 (アルブレヒト・デューラーの木版画) の表現を取り入れている。 「北東」MAPLay. C ![]() |
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病院 (救済院) 路地 [Spitalgasse] (13:12) 右の建物群は、旧救済院 [Heilig-Geist-Spital] (聖霊病院) だった建物。 「東南東」MAPLay. C ![]() |
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ハウプトマルクト [Hauptmarkt] (中央市場) (13:13) 中央の建物は、聖母教会 [Frauenkirche] で、1349年のポグロム* (ペストの発生に関連して) の間に虐殺されたユダヤ人犠牲者の慰霊のためと、破壊された旧ユダヤ人の シナゴーグの代わりに、1361年にカール4世が建てたフランケン地方で最も古いホール式教会。 毎日正午の鐘の後、正面の時計下にある仕掛けが動く。 これは1356年公布の金印勅書を題材に1509年に造られたもので、赤い装束の7人の選帝侯が、カー ル4世に敬意を表しつつ周りを回る、ほぼ等身大の人形を使った 巨大な仕掛け時計。 (↓) ペストがヨーロッパを席巻した14世紀の中葉、ドイツの各都市でユダヤ人に対する迫害が連鎖式に起こった。 ペスト・ポグロムとも呼ばれるように、ペストがもたらした混乱がユダヤ人迫害の引き金になったと説明されている。 しかし事実は異なり、ニュルンベルクでは、ペストの被害がなくても、ユダヤ人が水に毒を入れたと濡れ衣を着せられ、迫害を受けた。 その際、破壊されたシナゴーグとユダヤ人の霊を慰めるため、この聖母教会が建てられた。 「北東」MAPLay. C ![]() * ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)を言う。 |
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写真出典:Wikimedia Commons |
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聖母教会 [Frauenkirche] (13:16) 「東」MAPLay. C ![]() |
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聖母教会 [Frauenkirche] (13:17) 「東」MAPLay. C ![]() |
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聖母教会 [Frauenkirche] (13:17) 「東」MAPLay. C ![]() |
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聖母教会 [Frauenkirche] (13:18) 「西」MAPLay. C ![]() |
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フュンファープラッツ [Fünferplatz] 通り (13:20) 官公庁が建ち並ぶ通り。 「北東」MAPLay. C ![]() |
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聖ゼーバルドゥス教会 [St. Sebalduskirche] (13:21) 8世紀の聖人ゼーバルドが眠る教会。 1225年ごろから建設が始められ、改築を重ねて現在の形になったのは15世紀後半。 東側は華麗なゴシック様式だが、入口のある西側は簡素なロマネスク様式になっている。 内部は13世紀のロマネスク様式を中心に、壁や内陣などは14世紀の増築でゴシック様式に改装されている。 内陣前にあるゼーバルドの墓は、ブロンズの棺にゴシック様式の装飾が施されている。 (↓) 「北北西」MAPLay. C ![]() |
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ゼーバルドの墓 写真出典:Wikimedia Commons |
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ラートハウスプラッツ [Rathausplatz] (市役所前広場) (13:21) バックの建物は、聖ゼーバルドゥス教会 [St. Sebalduskirche] 。 「北北西」MAPLay. C ![]() |
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ラートハウスプラッツ [Rathausplatz] (市役所前広場) (13:22) 「北」MAPLay. C ![]() |
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聖ゼーバルドゥス教会 [St. Sebalduskirche] (13:24) 入口のある西側は簡素なロマネスク様式になっている。 「北東」MAPLay. C ![]() |
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聖ゼーバルドゥス教会 [St. Sebalduskirche] (13:26) 入口のある西側は簡素なロマネスク様式になっている。 「東」MAPLay. C ![]() |
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聖ゼーバルドゥス教会 [St. Sebalduskirche] (13:26) 入口のある西側は簡素なロマネスク様式になっている。 「東」MAPLay. C ![]() |
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聖ゼーバルドゥス教会 [St. Sebalduskirche] の内部 (13:27) 身廊部。 「東」MAPLay. C ![]() |
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聖ゼーバルドゥス教会 [St. Sebalduskirche] の内部 (13:28) 「西」MAPLay. C ![]() |
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聖ゼーバルドゥス教会 [St. Sebalduskirche] の内部 (13:28) 左側廊と身廊部。 「東南東」MAPLay. C ![]() |
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ニュルンベルク市-市庁舎 [Stadt Nürnberg - Rathaus] (13:30) 最古の建物の部分は1340年に建築された長さ40m以上の大広間。 新市庁舎はルネサンスからバロックへの変遷期の1616-20年に、建築家ヤコブ・ウォルフ・ザ・ヤンガー [Jakob Wolff der Jüngere] (1571〜1620) と兄のハンス・ウォルフ [Hans Wolff] と共に、Wolff の建築手法よって拡張した。 第二次世界大戦中にひどく損傷し、1950年代に大部分を再建する必要があった。 北側の建物は2本目の窓軸で短縮され、以前より短くなっている。 南側には、アルブレヒト・デューラー [Albrecht Dürer] によって設計された統合ゴシックホールの建物がある。 地下には中世の "穴の牢獄" があり、観光名所となっている。 「南南東」MAPLay. C ![]() |
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聖ゼーバルドゥス教会の北側 (13:35) ゴシック様式の北側壁面。 「南南東」MAPLay. C ![]() |
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アルブレヒト・デューラー記念碑 [Albrecht Dürer Denkmal] (13:42) ドイツのルネサンス期の画家、版画家、数学者。 (1471-1528) 「北」MAPLay. C ![]() |
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聖ゼーバルドゥス教会 (13:43) アルブレヒト・デューラー記念碑前から見る、聖ゼーバルドゥス教会 [St. Sebalduskirche] 。 「南」MAPLay. C ![]() |
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ラートハウスプラッツ [Rathausplatz] (市役所前広場) (13:46) 左の木立の後ろに見える建物は、聖ゼーバルドゥス教会 [St. Sebalduskirche] 。 右の大きな建物は、ニュルンベルク市-市庁舎 [Stadt Nürnberg - Rathaus] 。 「北北東」MAPLay. C ![]() |
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ラートハウスプラッツ [Rathausplatz] (市役所前広場) (13:46) 左の木立の後ろに見える建物は、聖ゼーバルドゥス教会 [St. Sebalduskirche] 。 右の大きな建物は、ニュルンベルク市-市庁舎 [Stadt Nürnberg - Rathaus] 。 市庁舎の南側 (手前側) の右のページ色の部分は、ゴシック様式のホールになっている。 「北東」MAPLay. C ![]() |
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シェーナー・ブルネン [Schöner Brunnen] (美しい噴水) (13:50) 残念ながら訪れた時は工事中で、工事用のフェンスに取り付けられた、真鍮のリングしか見ることが出来なかった。 このリングは本来、噴水を囲むフェンスに埋め込まれており、それらを回転させる人々に幸運をもたらすと言われている。 (↓) 「北東」MAPLay. C ![]() |
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シェーナー・ブルネン [Schöner Brunnen] (美しい噴水) 写真出典:Wikipedia |
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商工会議所 [IHK Nürnberg für Mittelfranken] (13:56) 1560年以来、ニュルンベルクの商人の自治の拠点となっており、第二次世界大戦中、建物はほぼ完全に破壊されたが、1950年代に現在の形で再建されている。 「北北西」MAPLay. C ![]() |
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ハウプトマルクト [Hauptmarkt] (中央市場) 通り (13:56) 「北」MAPLay. C ![]() |
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聖ゼーバルドゥス教会 (13:56) ヴァーク路地 [Waaggasse] からの撮影。 この後バスで、"ミュンヘン" [München] へ向かう。 「北北西」MAPLay. C ![]() |
ミュンヘン [München] ミュンヘン [München] (MAP) は、ベルリン (MAP) 、ハンブルク (MAP) に次いでドイツでは3番目に大きな都市で、バイエルン州 (MAP) の州都でもある。 "ミュンヘン" [München] という名は僧院という意味で、ドイツ語で僧を表す "メンヒ" [Mönch] に由来する。 ミュンヘンの市章には地名の由来となった僧が黒と金と赤で表現されており、市旗には黒と金のツートーンカラー生地の中央に市章が描かれている。 黒と金と赤の配色は、神聖ローマ帝国の色で市の公式の色としてルートヴィヒ4世の時代以来使われている。 (↓) 尚、1972年には、ミュンヘン・オリンピックが行われている。 ![]() |
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ミュンヘン市旗 中央の僧は市章。 |
神聖ローマ帝国の国章 黒と金と赤の配色は、現在も受け継がれている。 |
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プリンツレゲンテン通り [Prinzregentenstraße] (車窓から) (16:25) 左手の尖り屋根の建物は、"バイエルン州立博物館" [Bayerisches Nationalmuseum] 。 「東」MAPLay. D ![]() |
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フランツ - ジョセフ 環状通り [Franz-Josef-Strauß-Ring] (車窓から) (16:27) 左の建物は、"州政府事務所" [Bayerische Staatskanzlei] と "州議会" [Bayerische Staatsregierung] 。 「北北西」MAPLay. D ![]() |
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バイエルン州立民族学博物館 [Museum Fünf Kontinente] (車窓から) (16:29) 「南東」MAPLay. D ![]() |
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マキシミリアン通り [Maximilianstraße] (車窓から) (16:29) 1850年にバイエルン国王の "マクシミリアンII" [Maximilian II.] によって計画され、開通された通りで、彼の名前を冠している。 「南西」MAPLay. D ![]() |
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マキシミリアン通り [Maximilianstraße] (車窓から) (16:29) 1850年にバイエルン国王の "マクシミリアンII" [Maximilian II.] によって計画され、開通された通りで、彼の名前を冠している。 「西南西」MAPLay. D ![]() |
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マキシミリアン通り [Maximilianstraße] (車窓から) (16:30) 左の建物は、1650 年代から続く有名なオペラ カンパニーが拠点とする、ネオクラシック様式の "バイエルン国立歌劇場" [Bayerische Staatsoper] 。 「東」MAPLay. D ![]() |
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テーリング=イェッテンバッハ宮殿 [Palais Toerring-Jettenbach] (車窓から) (16:30) マキシミリアン通り [Maximilianstraße] に面して建っているロココ様式の宮殿で、外交官、大臣、陸軍元帥である "イグナーズ・フェリックス・フォン・テリングバッハ" [Ignaz Felix von Törring-Jettenbach] のために、"イグナズ・アントン・グネツハイナー" [Ignaz Anton Gunetzrhainer] の設計に従って、1747年から1754年に建てられた。 計画は主に、ウィーンの法廷建築家 "ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラント" [Johann Lucas von Hildebrandt] と "ジョセフ・エマニュエル・フィッシャー・フォン・エルラッハ" [Joseph Emanuel Fischer von Erlach] によるもので、建物は、18世紀に於いて、ミュンヘンで最も洗練された貴族の宮殿だった。 「東北東」MAPLay. D ![]() |
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マックス・ヨーゼフ (マクシミリアン1世) 広場 [Max-Joseph-Platz] (車窓から) (16:30) 最後のバイエルン選帝侯 (在位:1799年 - 1805年) および初代バイエルン王 (在位:1806年 - 1825年)である、"マックス・ヨーゼフ" [Max Joseph] に因んで名付けられた広場。 マクシミリアン1世の全名は、"マクシミリアン・マリア・ミヒャエル・ヨハン・バプティスト・フランツ・デ・パウラ・ヨーゼフ・カスパール・イグナティウス・ネポムク" [Maximilian Maria Michael Johann Baptist Franz de Paula Joseph Kaspar Ignatius Nepomuk] で、"マックス・ヨーゼフ" [Max Joseph] の愛称で呼ばれている。 「北西」MAPLay. D ![]() |
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マックス・ヨーゼフ (マクシミリアン1世) 広場 [Max-Joseph-Platz] (16:31) 旧バイエルン王国ヴィッテルスバッハ王家の王宮 [Residenz München] 。 「北西」MAPLay. D ![]() |
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マックス・ヨーゼフ (マクシミリアン1世) 広場 [Max-Joseph-Platz] (16:32) 「西北西」MAPLay. D ![]() |
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マックス・ヨーゼフ (マクシミリアン1世) 広場 [Max-Joseph-Platz] (16:32) 旧バイエルン王国ヴィッテルスバッハ王家の王宮 [Residenz München] 。 「北西」MAPLay. D ![]() |
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バイエルン国立歌劇場 [Bayerische Staatsoper] (16:33) 国立歌劇場は八本の大列柱が並ぶ新古典様式の大きな建物で、1818年にバイエルン国王マックス・ヨーゼフ1世の命によって建設されたが、一度火災に遭って修復されている。 リヒャルト・ワーグナーゆかりの劇場で、『トリスタンとイゾルデ』、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、『ラインゴールド』、『ワルキューレ』などがここで初演された。 第二次世界大戦では基礎壁まで焼け落ちたが、ミュンヘン市民の寄付によって建て直され、1963年に再オープンとなった。 劇場の正面ファザードや屋根の破風部分はオリジナル通りに建てられ、いかにも名オペラ座らしい雰囲気を醸し出している。 「南東」MAPLay. D ![]() |
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マックス・ヨーゼフ (マクシミリアン1世) 広場 [Max-Joseph-Platz] (16:39) 正面の新古典様式の大きな建物は、"バイエルン国立歌劇場" 。 左側面の建物は、"ミュンヘン・レジデンツ" [Münchner Residenz] 。 右側面の建物は、"テーリング=イェッテンバッハ宮殿" [Palais Toerring-Jettenbach] 。 広場の中央に立っている象は、"バイエルン王・マクシミリアン1世(マックス・ヨーゼフ)の像" [König Maximilian I Joseph von Bayern Denkmal] 。 「東南東」MAPLay. D ![]() |
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マックス・ヨーゼフ (マクシミリアン1世) 広場 [Max-Joseph-Platz] (16:39) 左の建物は、"ミュンヘン・レジデンツ*" [Münchner Residenz] 。 右の建物は、"バイエルン国立歌劇場" 。 「北東」MAPLay. D ![]() * 城を意味する主なドイツ語にブルク、 シュロス、 レジデンツ、ホーフなどがあり、 どれも王侯貴族の住居なのだが、建てられた時代によって名前が変わってくる。 ブルク [Burg] と呼ばれているのは要塞のような城で、戦争に備えて建てられた中世の城のこと。 シュロス[Schoss] は中性後期から近世にかけて建てられた主に住むための城で、ブルクほど頑丈な造りではないが、 戦争に対する設備もあり、 山頂に建てられることもあった。 18世紀以降、町なかに建てられたレジデンツ [Residenz] やホーフ [Hof] は完全に住居の城 (宮殿)で、防備はない。 |
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旧バイエルン王国ヴィッテルスバッハ王家の王宮 [Residenz München] (16:40) 1385年シュテファン3世によって建設が開始され、その後ヴィッテルスバッハ家の宮殿として増改築を繰り返して現在の配置となった。 ドイツ革命でバイエルン王国が廃止された後に公開施設となった。 第二次世界大戦で損傷を受けたが、戦後修復され現在に至る。 「北北東」MAPLay. D ![]() 現在の施設としては、レジデンツ博物館(Residenzmuseum)、宝物庫(Schatzkammer)、諸聖人宮廷教会(Allerheiligen-Hofkirche)、キュビリエ劇場(Cuvilliés-theater)、ヘルクレスザール(de:Herkulessaal:バイエルン放送交響楽団の本拠)がある。 出典:Wikipedia |
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Residenz München 1階 | Residenz München 2階 |
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マックス・ヨーゼフ (マクシミリアン1世) 広場 [Max-Joseph-Platz] (16:42) 「南南東」MAPLay. D ![]() |
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マックス・ヨーゼフ (マクシミリアン1世) 広場 [Max-Joseph-Platz] (16:42) 「東南東」MAPLay. D ![]() |
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マックス・ヨーゼフ (マクシミリアン1世) 広場 [Max-Joseph-Platz] (16:45) 「東北東」MAPLay. D ![]() |
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マリエンの庭 [Marienhof] (16:46) 左手の建物が新市庁舎で、その背部にある庭。 「西南西」MAPLay. D ![]() |
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ラートハウス・グロッケンシュピール [Rathaus-Glockenspiel] (市庁舎カリヨン) (16:50) 毎日午前11時と午後12時(夏の午後5時も同様)は、16世紀の2つの物語を鐘のメロディーに合わせ、新市庁舎の大きな仕掛け時計が動き出す。 新市庁舎前広場のマリエン・プラッツ [Marienplatz] には大勢の人が集まり、塔を見上げている。 1908年に華麗なゴシック様式で完成した新市庁舎の塔に付けられた43個の鐘は、3オクターブ半の音域を持っている。 鐘 (グロツケ) の演奏 (シュピール) をグロッケン・シュピールといい、ヨー ロツパでは教会や市庁舎などでよく見かける。 鐘の演奏だけのものもあるが、ミュンヘン市庁舎のように32個の等身大の人形が付いていて、同時に動き出す仕掛けになっているものもある。 高さ85メートルの塔には等身大に近い大きな人形が2段構えで設置され、鐘がメロディーを奏で始め、暫くすると動き出す。 この塔の最上部には、本を持っている僧侶(または修道士)をモチーフにした、ミュンヒナー・キンドル [Münchner Kindl] (ミュンヘンの子供) の像が立っている。 (↓) ミュンヒナー・キンドルは、13世紀以来ミュンヘンの街の紋章のシンボルの名前になっており、"ミュンヘン" [München] という名は僧院という意味で、ドイツ語で僧を表す "メンヒ" [Mönch] に由来する。 「北」MAPLay. D ![]() ![]() |
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ミュンヒナー・キンドル [Münchner Kindl] 写真出典:Wikimedia Commons |
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マリエン広場 [Marienplatz] (16:51) マリエン広場は、三十年戦争中のスウェーデンの占領が終わるのを祝うため、1638年に広場の中央に建てられたマリアの柱 (右端に立っている柱) と呼ばれる "マリエン・ザウレ" [Mariensäule] (MAP) に因んで名付けられている。 (↓) 今日、マリエン広場は、北側の新市庁舎 [Neues Rathaus] (MAP) と東側の旧市庁舎 [Altes Rathaus] (MAP)に囲まれた位置にある。 広場は、1158年に造られて以来、街の中心部にあり、嘗ては、"Markth" (市場)、"Schranne" (穀物市場)、後に "Schrannenplatz" (穀物市場広場)と呼ばれていた。 「北」MAPLay. D ![]() |
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マリエンザウレ [Mariensäule] 写真出典:Wikimedia Commons |
マリアの像 頂部の、天の女王として、三日月の上に立つ金のマリアの像は、1590年に構築された。 写真出典:Wikimedia Commons |
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土台の "プット" [putto] 像 土台の各角には、フェルディナンド・ムルマンによって作られたプットの像がある。 4つのプットは、都市がいくつもの災難を克服する様子を象徴して、それぞれ異なった動物と戦っているところが彫られている。 左から:ドラゴンで飢饉を、ヘビで異端を、コカトリスで疫病を、ライオンで戦争を象徴している。 写真出典:Wikimedia Commons |
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聖ペーター教会 [Peterskirche] 展望台からの眺望 (17:25) 聖ペーター教会は、11世紀に建てられたミュンへン最古の教会で、地元では「年寄りのペーター」と呼ばれ親しまれている。 約300段の階段を上ると展望台に出る。 写真の下から上に延びるオレンジ色の屋根は、聖ペーター教会の屋根で、展望台 (撮影位置) はこの屋根の西の端に位置している。 中央のやや左、オレンジ色の尖り帽子状の屋根を持つ、高い塔は、旧市庁舎の塔 (おもちゃ博物館) で、その左の妻面 (妻側) の頭部を階段状したファザードを持つ白い建物が旧市庁舎。 「東」MAPLay. D ![]() |
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聖ペーター教会 [Peterskirche] 展望台からの眺望 (17:26) 「南」MAPLay. D ![]() |
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聖ペーター教会 [Peterskirche] 展望台からの眺望 (17:27) 「西」MAPLay. D ![]() |
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聖ペーター教会 [Peterskirche] 展望台からの眺望 (17:28) 中央の、2つの玉ねぎ頭の塔は、聖母教会 [Frauenkirche] の塔。 右端の尖塔を持つ大きな建物は、"新市庁舎" [Neues Rathaus] 。 その前の広場は、"マリエン広場" [Marienplatz] 。 「北西」MAPLay. D ![]() |
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聖ペーター教会 [Peterskirche] 展望台からの眺望 (17:29) 「北西」MAPLay. D ![]() |
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聖ペーター教会 [Peterskirche] 展望台からの眺望 (17:30) 新市庁舎 [Neues Rathaus] と "マリエン広場" [Marienplatz] 。 「北」MAPLay. D ![]() |
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聖ペーター教会 [Peterskirche] 展望台からの眺望 (17:31) 手前の左端の建物が、"新市庁舎" [Neues Rathaus] 。 手前の右端の白い建物は、"旧市庁舎/おもちゃ博物館" [Altes Rathaus / Spielzeugmuseum] 。 「北東」MAPLay. D ![]() |
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聖ペーター教会 [Peterskirche] 展望台からの眺望 (17:32) 「南東」MAPLay. D ![]() |
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聖ペーター教会 [Peterskirche] 展望台からの眺望 (17:33) 「北西」MAPLay. D ![]() |
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聖ペーター教会 [Peterskirche] 展望台からの眺望 (17:35) 「北」MAPLay. D ![]() |
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聖ペーター教会 [Peterskirche] 展望台からの眺望 (17:35) 「北」MAPLay. D ![]() |
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聖ペーター教会展望台 (17:36) 「北北東」MAPLay. D ![]() |
聖ペーター教会展望台 (17:36) 「南東」MAPLay. D ![]() |
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聖ペーター教会展望台 (17:36) 「北北西」MAPLay. D ![]() |
展望台の内部 (17:37) 「北北東」MAPLay. D ![]() |
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展望台の内部 (17:38) 右のドアが展望台への出入り口。 「西南西」MAPLay. D ![]() |
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展望台の内部 (17:38) 約300段の階段がある。 「南南東」MAPLay. D ![]() |
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聖ペーター教会 [Peterskirche] (18:05) 聖ペーター教会は、1158年にミュンヘンが都市として設立される前は、この場所にメロヴィング朝以前の教会があり、8世紀の修道士がこの教会の周りのピーターズバーグ [Petersbergl] と呼ばれる丘の上に住んでいた。 12世紀の終わりに、ロマネスク様式の新しい教会が奉献され、1327年の市の大火の直前にゴシック様式に拡張されたが、火災に遭い建物は破壊された。 再建後、教会は1368年に新たに奉納され、17世紀初頭に、91メートルのルネサンス様式の尖塔と新しいバロック合唱団席が追加された。 第二次世界大戦では、連合軍の爆撃を受け、大きな被害を受けている。 「北西」MAPLay. D ![]() |
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聖ペーター教会 [Peterskirche] (18:07) 聖ペーター教会のシュヴェに相当する部分。 (参照) 「南西」MAPLay. D ![]() |
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聖ペーター教会内部 写真出典:Wikimedia Commons |
聖ペーター教会の高祭壇 高祭壇の後方部が、シュヴェに相当する部分。 写真出典:Wikimedia Commons |
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カウフィンガー通り [Kaufingerstraße] (18:21) この交差点より向こうは、ノイウハウザー通り [Neuhauserstraße] 。 「西北西」MAPLay. D ![]() |
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カウフィンガー通り [Kaufingerstraße] (18:21) 歩いて来た通りを振り返っての撮影。 「東南東」MAPLay. D ![]() |
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アウグスティナー本店 [Augustiner Stammhaus] (18:24) 客席数1500の巨大な店で、1924年から営業のビアホール・ レストラン。 ミュンヘンの大ビール会社、アウグスティナーの経営で、入口のアーチを飾る (恐らくバイエルンの旗をモチーフにした) 青と白のリボンがかわいらしい。 店は、レストランとビアホールに分かれ、テラス席は中庭と通り沿いにある。 「西南西」MAPLay. D ![]() |
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アウグスティナー本店 [Augustiner Stammhaus] (18:29) MAPLay. D ![]() |
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アウグスティナー本店 [Augustiner Stammhaus] (18:29) MAPLay. D ![]() |
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アウグスティナー本店 [Augustiner Stammhaus] (19:11) MAPLay. D ![]() |
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"アウグスティナー本店" 前から観る "ノイウハウザー通り" (19:28) 中央の塔は、 聖母教会 [Frauenkirche] の塔。 「東」MAPLay. D ![]() |
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ノイウハウザー通り [Neuhauserstraße] (19:28) 前方の工事中の門は、カールス門 [Karlstor] 。 嘗ては、通りの名前を取って "Neuhauser Tor" と呼ばれていたが、1791年に選帝侯カールテオドール [Karl Theodor] によって建て直され、名前もカールス門となった。 「西北西」MAPLay. D ![]() |
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カールスプラッツ [Karlsplatz] (19:31) バイエルン選帝侯カール・テオドールの名に由来するミュンヘンの代表的な広場のひとつ。 嘗て、この地にあったという人気の "パブBeim Stachus" に因んで、"シュタフス" [Stachus] とも呼ばれている。 UバーンやSバーンの鉄道アナウンスでさえ、非公式の名前 "Stachus" を使用している。 (カール・テオドールはバイエルンの君主としては人気が無かった) 「北北西」MAPLay. D ![]() |
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ゾンネン通り [Sonnenstraße] (19:33) 中央のドームを持つ建物は、"ミュンヘン第一地方裁判所" [Landgericht München I] 。 「北」MAPLay. D ![]() |
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バイエルン州立博物館 [Bayerisches Nationalmuseum] (車窓から) (19:45) 「北東」MAPLay. D ![]() |
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バイエルン州立博物館 [Bayerisches Nationalmuseum] (車窓から) (19:45) 「北北東」MAPLay. D ![]() |
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ルイトポルト橋 [Luitpoldbrücke] (車窓から) (19:45) 「北」MAPLay. D ![]() |
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平和の天使 [Friedensengel] (車窓から) (19:46) 平和の天使は、ボーゲンハウゼンのミュンヘン郊外 (MAP) にある記念碑。 建築家は、ハインリッヒ・デュル [Heinrich Düll] 、ゲオルグ・ペゾルド、マックス・ハイルマイアー [Georg Pezold und Max Heilmaier] 。 「北」MAPLay. D ![]() |
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平和の天使 [Friedensengel] (車窓から) (19:46) 「北」MAPLay. D ![]() |
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平和の天使 [Friedensengel] 写真出典:Wikimedia Commons |
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平和の天使 [Friedensengel] (車窓から) (19:47) 「北」MAPLay. D ![]() |
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アインシュタイン通り [Einsteinstraße] (車窓から) (19:51) 1956年迄は、シュヴェールヴィナー・シュトラーセと呼ばれ、現在は、物理学者アルバート・アインシュタインと音楽学者アルフレッド・アインシュタインに敬意を表し、アインシュタイン・シュトラーセと呼ばれている。 「東」MAPLay. D ![]() |
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宿泊ホテル、アジムット ホテル ミュンヘン [AZIMUT Hotel Munich] (20:02) 「東北東」MAPLay. D ![]() |
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アジムット ホテル ミュンヘン [AZIMUT Hotel Munich] (20:02) 「南東」MAPLay. D ![]() |
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アジムット ホテル ミュンヘン [AZIMUT Hotel Munich] (20:03) 「東」MAPLay. D ![]() |
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アジムット ホテル ミュンヘン [AZIMUT Hotel Munich] (20:27) 「北北西」MAPLay. D ![]() |
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アジムット ホテル ミュンヘン [AZIMUT Hotel Munich] (20:28) MAPLay. D ![]() |
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アジムット ホテル ミュンヘン [AZIMUT Hotel Munich] (20:28) 「北東」MAPLay. D ![]() |
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アジムット ホテル ミュンヘン [AZIMUT Hotel Munich] (20:33) 「北北西」MAPLay. D ![]() |
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アジムット ホテル ミュンヘン [AZIMUT Hotel Munich] (20:33) 「北北東」MAPLay. D ![]() |