旅の栞(ドイツ)
7月13日
イースト サイド ギャラリー ~ サンスーシ新宮殿、旧宮殿 ~
ツェツィリエンホフ宮殿 ~ ブランデンブルグ門 ~
テロのトポグラフィー ~ ベルリン大聖堂 ~ ペルガモン博物館
2024年5月31日(金)10:00をもちましてURLは下記の通り変更になります。
https://arisada.wjg.jp/deutschland/newpage4.html
宿泊ホテル "Tryp by Wyndham Berlin City East"![]() |
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客室 (06:15) 「西北西」MAPLay. A ![]() |
朝食を済ませ出発準備 (06:40) MAPLay. A ![]() |
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宿泊ホテル "Tryp by Wyndham Berlin City East" (07:41) これより、ベルリン [Berlin] 市内観光へ向かう。 「北西」MAPLay. A ![]() |
ベルリン [Berlin] 市内車窓観光 (注意:バスのフロントガラス以外の窓ガラスはカラーガラスが使用されていたので、写真のホワイトバランス補正は完全でない。) ![]() |
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フランクフルト門 [Frankfurter Tor] (07:48) 「北西」MAPLay. A ![]() |
フランクフルト門 [Frankfurter Tor] (07:48) 「西北西」MAPLay. A ![]() |
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フランクフルト門 [Frankfurter Tor] この場所に昔しは、フランクフルト門 [Frankfurter Tor] と言う、ベルリンの街の城壁門があた。 城壁門の名前は、その門をくぐって街を出た際に、行き着く場所の名前が付けられることが多い。 ベルリンの東へ車で一時間ほど走ると、ポーランドとの国境にフランクフルトという街があり、この街の名前が付けられている。 西ドイツ側にもフランクフルトという街があるが、ポーランドとの国境にあるフランクフルトとは区別される。 なぜ同じ名前の街が有るかと言えば、フルトと言うのは人が渡れるような川の浅瀬を意味し、フランクはフランケン人を意味する。 つまり、フランクフルトはフランケン人が渡った川の浅瀬と言う意味で名付けられた名前であるためで、2つのフランクフルトを区別するために、 西ドイツ側のフランクフルトはマイン川の辺にあることからフランクフルト・アム・マイン [Frankfurt am Main] (MAP) 。 東ドイツ側のフランクフルトは オーデル川という川の辺にあるためフランクフルト・アン・デア・オーデル [Frankfurt an der Oder] (MAP) と名付け、区別されている。 その他、フルトと名の付く街は、エアフルト [Erfurt] (彼が渡った川の浅瀬) (MAP) 、オクゼンフルト [Ochsenfurt] (牡牛が渡った川の浅瀬) (MAP) 、シュヴァインフルト [Schweinfurt] (ブタが渡った川の浅瀬) (MAP) 等がある。 と言うのも、日本の様な島国では海の港の近くに主要な街が築かれているが、ヨーロッパでは内陸で海がない国もあり、川が重要な商業通路となっている。 そのため、川の港の近くには、多くの街が築かれ、ここ、ベルリン (MAP) ではシュプレー川 [Spree] の辺に街が築かれている。 ヨーロッパの色々な街を思い浮かべると、街の中には必ずと言って良いほど川が流れており、海のあるフランス内陸の街パリ (MAP) ではセーヌ川が、島国であるイギリス内陸の街ロンドン (MAP) ではテムズ川が流れている。 写真出典:Wikipedia |
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ヴァルシャウアー・シュトラーセ駅 [Warschauer Straße] (07:53) 左手のレンガ造りの建物は、ヴァルシャウアー・シュトラーセ駅 で、1902年に初めて造られた地下鉄1号線の駅になっている。 ベルリンは低地であるため地下水が湧きやすく、又この辺りは嘗てベルリンの郊外であった為、鉄道は高架線として造られている。 「南南西」MAPLay. A ![]() |
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イースト サイド ギャラリー [East Side Gallery] (07:55) シュプレー川 [Spree] 沿いのベルリンの壁を利用したギャラリー。(↓) 1989年11月10日のベルリンの壁の崩壊を喜び、その喜びを表すため、国内外のアーティスト118人に依頼し、東ベルリン側から壁に描かれた絵画。 約1.3kmの壁に100枚弱の絵が描かれている。 (2015年7月13日) 「西北西」MAPLay. A ![]() |
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出典:Googleマップ |
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イースト サイド ギャラリー [East Side Gallery] (07:55) ベルリンの壁の左向こう側にはシュプレー川 [Spree] が流れており、この辺りでは、シュプレー川が東西ベルリンの国境になっていた。 いまバスが走っているとこは東ベルリン側で、川向こうは西ベルリンであった。 (2015年7月13日) 「西北西」MAPLay. A ![]() |
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分割占領されたドイツ 1945年5月8日ナチス・ドイツ (フレンスブルク政府) が第二次世界大戦で敗れると、ドイツは連合国4か国軍 (アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦) に占領された。連合国軍は、管理目的のために1945年5月8日から1949年までの4年間、ドイツを4つに分割占領して軍政を布いた。 |
ベルリンの連合国各国の占領域 1944年9月12日に欧州諮問委員会が採択した「ドイツ占領および大ベルリン管理に関する合意議定書」と11月14日の修正協定により、ベルリン市区域は連合国四カ国による分割占領と、四カ国軍司令官によって構成される連合国統治機関による統治が決定された。 当時ベルリンはソ連軍の占領下にあり、米英仏の三国軍がベルリンに入ったのは1945年7月3日から4日にかけてのことであった。 |
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東西ドイツの設立 1949年5月、西側3か国の占領区域にはドイツ連邦共和国 (西ドイツ) が、またソ連占領区域にも西側諸国に倣い1949年10月にドイツ民主共和国 (東ドイツ) が、それぞれ設立された。 なお、1955年の両ドイツへの主権全般の返還にもかかわらず、1990年に統一ドイツが誕生するまで完全な主権回復はなされなかった。 事実上の「ドイツ国」と連合国との講和条約に相当するドイツ最終規定条約が1991年3月15日に全ての関係国によって批准・締結されて、はじめて完全な主権回復が成された。 |
赤線は東西ドイツの国境線 東ドイツと西ドイツの間の国境は1952年に閉鎖されたが、ベルリンにおいては東西の間の移動は壁の建設まで自由で、通行可能な道路が数十あったほかに地下鉄 (Uバーン) や高速鉄道 (Sバーン) などは両方を通って普通に運行されていた。 国境線の近くでは、西ドイツへの脱出者を発見しやすくするため、草木や建物は取り除かれていた。 Googleマイマップ |
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赤枠は西ベルリン、黒枠は東ベルリン 1961年8月13日、西ベルリンが完全に隔離された当初は壁ではなく、コンクリートの支柱に有刺鉄線を張り巡らしたフェンスだった。 その数日後からコンクリート・ブロックで壁が築かれ始め、ベルリンでも最も複雑に入り組んだ中心部に、ほぼ1年で長さ約12キロの壁が建設された。 Googleマイマップ |
西ベルリンを取り囲む障壁 当初、ベルリンの壁があったのは、脱出者が隠れやすい市街地のみで、西ベルリンを囲む残り137.5キロは田園地帯・牧草地帯・森林地帯・湖沼が多く、巻いた有刺鉄線の仕切りが二列に並べられた。 その後,監視塔と銃座,地雷に守られた有刺鉄線付きのコンクリート壁 (高さ最大5メートル) に変った。 1980年代までに,壁と電流フェンス,堡塁による障壁は 45キロに及び、東西ベルリンを分断、その後さら西ベルリンと東ドイツの国境線に、120キロに及ぶコンクリート壁が築かれ、西ベルリンは東ドイツから完全に隔離された。 |
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イースト サイド ギャラリー [East Side Gallery] (07:55) ミューレン通り [Mühlenstraße] (2015年7月13日) 。 「西北西」MAPLay. A ![]() |
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イースト サイド ギャラリー [East Side Gallery] (2009年修復完成間際の絵) イースト サイド ギャラリーで1番有名になった絵。 左側の男性がレオニード・ブレジネフ [Leonid Brezhnev]、右側の男性はエーリッヒ・ホーネッカー [Erich Honecker] 。 1979年ドイツ民主共和国の30周年を記念する会合でモスクワを訪れた東ドイツ首相ホーネッカーとソビエト連邦最高指導者ブレジネフがキスを交わすシーン。 アーティスト ドミトリー・ヴルーベリ [Dmitri Vrubel] 本人が1990年の初作を2009年に再塗装した。 作品のタイトルは、〖神よ、この恐ろしい愛から生き延びさせてください [Mein Gott, hilf mir, diese tödliche Liebe zu überleben]〗と名付けられた。 当時の東ドイツとソ連の密接な関係を皮肉混じりに表現している。 (作品の前をペンを持って歩いている男性が、作者ドミトリー・ヴルーベリ) 写真出典:Wikipedia |
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![]() モデルになった実際の写真 (1979年) |
(左) ドミトリー・ヴルーベリ本人が行った2009年の再塗装 ドイツ・ベルリン [Berlin] 東部のイースト・サイド・ギャラリー [East Side Gallery] で、描き直し作業が終了した作品を眺める作者ドミトリー・ヴルーベリ [Dmitry Vrubel] 。 絵の下には〖Mein Gott, hilf mir, diese tödliche Liebe zu überleben〗のタイトルが書かれている。(2009年6月22日撮影) 兄弟キスについて 社会主義の兄弟のキスまたは共産主義の兄弟のキスは、共産主義者グループとの同盟関係を知らせるために、キスを通して連帯を表明した共産主義者の個人および小グループの歓迎の儀式。 参照記事 |
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イースト サイド ギャラリー[East Side Gallery] 落書きと経年劣化によって傷んだ1990年の作品。 (元の作品) 出典:Google Street View (2008/06撮影) |
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イースト サイド ギャラリー[East Side Gallery] 左は1990年の作品、右は2010年の作品。 半開きになった扉の向こうに、日の丸を背にした富士山と五重塔が描かれ、左前には、〖日本地区への迂回路〗と書かれた看板が立っている。 この絵は、親日家のドイツ人画家の トーマス・クリンゲンシュタイン [Thomas Klingenstein] が東ドイツ側から描いた絵で、タイトルの意味するところは、 『当初、壁が崩壊すれば東ドイツ分の人口増加で、景気が良くなると考えられていた。 しかし、いざ壁が崩壊し1990年 (平成2年) 10月3日 に東西ドイツの統一がなされると、東ドイツの人々が、まず欲しがったのは日本製の中古車、西ドイツで同じ値段であれば日本車の装備の方が優れていた。 日本製の家庭電化製品も同様に良く売れ、西ドイツは日本へ行く迂回路でしかなかった。』 出典:作者トーマス・クリンゲンシュタイン [Thomas Klingenstein] のHp |
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イースト サイド ギャラリー[East Side Gallery] 落書きと経年劣化によって傷んだ1990年の作品。 出典:Google Street View (2008/06撮影) |
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聖ニコライ教会 [Nikolaikirche] 1230~1250の間に建てられたベルリンで最古の教会。 このニコライ教会の周り一帯は、ニコライ街と呼ばれる旧市街で、ベルリン発祥の地となっている。 写真出典:Wikipedia |
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ベルリンテレビ塔 [Berliner Fernsehturm] と赤の市庁舎 [Rotes Rathaus] (08:05) 団子に串を刺したような塔は、ベルリンテレビ塔。 テレビ塔は、旧ドイツ民主共和国 (東ドイツ) によって、東ベルリンの街の中心に1965年から1969年にかけて建設され、東ベルリンのシンボルとなってきた。 ベルリン中心部のどこからでも見ることができるベルリンの有名なランドマークである。 建設された当時の高さは365 mで、世界で3番目に高い塔だった。 1990年代に新しいアンテナが設置されたため、現在の高さは368 mとなっている。 テレビ塔からの眺めはベルリンでも最高で、今でも年に100万人の観光客が訪れている。 塔の中ほどにある球体の真ん中には、展望台と回転レストランがあり観光客の人気スポットである。 展望台は高さ204mの位置にあり、晴れた日には40km以上先までが見える。 20分で360度回転するレストランは展望台の数メートル上に位置している。 左手の時計台のある赤い建物は、ベルリンの市庁舎。 市庁舎は、同じ場所で数回建て替えられ、現在の市庁舎は19世紀末に建てられた。 赤いレンガで造られていることから、通称 "赤の市庁舎" と呼ばれている。 時計台の上で、はためいている旗はベルリン市の旗。 旗には熊がデザインされており、熊はベルリンのシンボルとなっている (↓) 。 熊の謂われは、ベルリンだからベアと言う人や、昔ベルリンの町がつくられた頃は、熊が棲んでいたからと言う人がいるが、唯、ベルリンと言う街の名前は、当初、この地に住み着いたのはスラヴ人で、ベルリンはスラヴ語で湿地帯を意味していた。 「北」MAPLay. A ![]() |
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ベルリン市の旗 |
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聖マリエン (マリア) 教会 [St. Marienkirche] (08:05) テレビ塔の左にある尖塔を持つ建物は、ベルリンの中心部で2番目に古い教会、聖マリエン教会 [St. Marienkirche] 。 建設は1270年に始められた。 途中火災による再建や増改築が行われ、取り分け1893/94年に始められた大規模な改造工事は現在の教会の外観に決定的な影響を与えた。 「北東」MAPLay. A ![]() |
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聖マリエン (マリア) 教会 [St. Marienkirche] (08:06) 森鴎外が1884年から4年間ドイツへ医学を学ぶために留学した時に執筆された、短編小説『舞姫』(まいひめ) の中で、主人公でドイツ帝国に留学した官吏・太田豊太郎が、クロステル巷 [Klosterstraße] の古寺の前で、涙に暮れる美少女エリスと出会うシーンが描かれている。 このクロステル巷 [Klosterstraße] の古寺をマリエン教会 [Marienkirche] とする説があるが、クロステル通り [Klosterstraße] には、もう一つ別に、フランシスコ会修道院教会 [Franziskaner-Klosterkirche] が古くからあり、文章内容から、美少女エリスと出会ったのは、この教会の前とするのが妥当だと思われる。 「クロステル小路の古い教会の前まで来たとき」と書かれているが、クロステル通りから見ると、聖マリエン教会は前ではなく後ろに当たり、また「凹字の形に引っ込んで建っている三百年前の遺跡と思える古寺」と書かれているが、、聖マリエン 教会より、フランシスコ会修道院教会の方がシチュエーションが一致している。(↓) 参考資料:「舞姫」(森鷗外) の口語訳と原文 「北東」MAPLay. A ![]() |
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舞姫の文章中に「ある日の夕暮れのこと、私は動物公園を散歩して、ウンテル・デン・リンデンを通り過ぎ、モンビシュウ通りの自分の下宿に帰ろうとして、クロステル小路の古い教会の前まで来ていた。」と書いてある、豊太郎が通った場所を現在の地図に示した。 Googleマイマップ |
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クロステル通り [Klosterstraße] に面している古寺 | |
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1906年当時の聖マリエン教会 教会の前の道路は、カール・リエブネヒト通り[Karl-Liebknecht-Str] 。 |
現在の聖マリエン教会 教会の前の道路は、カール・リエブネヒト通り[Karl-Liebknecht-Str] 。 |
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1934年当時のフランシスコ会修道院教会 舞姫の文章中の「凹字の形に引っ込んで建っている」に該当する。 |
現在のフランシスコ会修道院教会の遺跡 舞姫の文章中の「凹字の形に引っ込んで建っている」に該当する。 |
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ベルリン大聖堂 [Berliner Dom] の南東側の背面 (08:07) Liebknecht橋から見る大聖堂。 下を流れる川はシュプレー川 [Spree] 。 「北西」MAPLay. A ![]() |
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ベルリン大聖堂 [Berliner Dom] の南南東側の側面 (08:07) 「北西」MAPLay. A ![]() |
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旧博物館 [Altes Museum] (08:08) 「北西」MAPLay. A ![]() |
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ウンター・デン・リンデン [Unter den Linden] 通り (08:09) 前方の中央分離帯に立っている騎馬像は、フリードリヒ大王騎馬像 [Reiterstandbild Friedrichs des Großen] 。 像の後方に見える並木は菩提樹で、この通りの名前の由来になっている。 Unterは下、Lindenは菩提樹で、菩提樹の下を走る通りであることを示している。 右手の建物は、フンボルト大学 [Humboldt-Universität zu Berlin] で、正面にはフンボルト兄弟の石像が飾られている (↓) 。 右手の石像 (上の写真には写っていない) は、弟のアレクサンダー・フォン・フンボルト [Alexander von Humboldt] で、フンボルトペンギン、フンボルト海流で名が知られている。 「西」MAPLay. A ![]() |
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フンボルト大学 フンボルト大学の正面に飾られている、フンボルト兄弟の石像。 写真出典:Google Street View |
フンボルト大学 右側のアレクサンダー・フォン・フンボルト[Alexander von Humboldt] の石像。 写真出典:Wikimedia Commons |
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ウンター・デン・リンデン [Unter den Linden] 通り (08:10) 昔のベルリンのメイン・ストリート。 両サイドに植えられている並木は菩提樹 [ Linden] 。 「西」MAPLay. A ![]() |
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ブランデンブルグ門 [Brandenburger Tor] (08:11) 前方に見えてきたのは、ブランデンブルグ門。 「西」MAPLay. A ![]() |
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国会議事堂 [Reichstagsgebäude] (08:13) 「北北東」MAPLay. A ![]() |
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左右に広がる森は "Großer Tiergarten" (08:16) ベルリンの都市公園ティーアガルテン [Tiergarten] で、17世紀の終わりに、かつての狩猟場は「市民のための公園」になっている。 Tierは動物、Gartenは園を指すが、俗に言う動物園ではない。 前方に見える塔は戦勝記念塔 [Siegessäule] で、デンマーク戦争での勝利を記念して1864年に建設が始められ、1872年に完成した。 この間、普墺戦争 (1866年) 、普仏戦争 (1870年 - 1871年) にも勝利し、これら戦勝をも顕彰する建造物となった。(↓) 「西」MAPLay. A ![]() |
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グローサー・シュテルン [Großer Stern] (大きな星) の中心にある戦勝記念塔 [Siegessäule] デンマーク戦争での勝利を記念して1864年に建設が始められ、1872年に完成した塔で、当初、帝国議会前の広場に建てられていたが、ベルリンを世界首都に改造するヒトラーのゲルマニア計画の実施に先立ち、1939年に現在のティーアガルテンのグローサーシュテルンのロータリー中央に移設された。 因みに、土台と塔の間に立てられた16本の円柱は、敵から奪い取った砲身が使用されている。 塔の上に乗っている象は、勝利の女神 ヴィクトリア [Victoria] で、フリードリヒ・ドレイク [Friedrich Drake] の作品。 ベルリンでは、この像を ゴールド・エルゼ [Goldelse] と呼んでいる。 この名前のは、像が金メッキされている事と、当時、非常に人気のあった Eugenie Marlitt の書いた、貴族批判を中心とした長編小説〖金髪のエルゼ [Goldelse]〗のタイトルが元になっている。 小説〖Goldelse〗は、雑誌 "Die Gartenlaube" の中で非常に人気のあった物語を続編として1866年 (単行本としては1867年) に出版されたもの。 写真出典:Wikipedia |
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ヘルムート・カール・ベルンハルト・グラーフ・フォン・モルトケ [Helmuth Karl Bernhard Graf von Moltke]
像 (08:18) 1858年から1888年にかけてプロイセン参謀総長を務め、対デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争を勝利に導き、ドイツ統一に貢献した。近代ドイツ陸軍の父と呼ばれる。最終階級は元帥。(↓) 出典:Wikipedia 「北」MAPLay. A ![]() |
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モルトケ伯爵像 (↑) 写真出典:Wikipedia |
ローン伯爵像 (↓) 写真出典:Wikipedia |
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アルブレヒト・テオドール・エミール・フォン・ローン伯爵 [Albrecht Theodor Emil Graf von Roon] 像 (08:18) プロイセン陸軍大臣 (在職1859年-1873年) として国王ヴィルヘルム1世の軍制改革を任せられていた。 オットー・フォン・ビスマルクを宰相に据え、軍制改革を断行してドイツ統一に関わる3つの戦争の勝利に貢献した。 1873年には一時的にプロイセン首相も務めた。 軍人としての最終階級は1873年1月元帥。(↑) 出典:Wikipedia 「北西」MAPLay. A ![]() |
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ビスマルク国立記念碑 [Bismarck-Nationaldenkmal] ビスマルクは、プロイセン東部の地主貴族ユンカーの出身。 代議士・外交官を経て、1862年にプロイセン国王ヴィルヘルム1世からプロイセン首相に任命され、軍制改革を断行してドイツ統一戦争に乗り出した。 1867年の普墺戦争の勝利で北ドイツ連邦を樹立し、ついで1871年の普仏戦争の勝利で南ドイツ諸国も取り込んだドイツ帝国を樹立した。 出典:Wikipedia |
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6月17日の通り [Straße des 17. Juni] (08:20) ドイツのベルリン中心部を横断する東西幹線道路の区間名称で、東はブランデンブルク門 (MAP) から西はエルンスト=ロイター広場 (MAP) までの区間を言う。 1953年6月17日の東ベルリン暴動では、多くの労働者の命が在独ソ連軍とドイツ人民警察に奪われた。 この悲劇を後世に伝えるため、西ベルリン側にあったこの通りは同年、現名称に改称された。 「西」MAPLay. A ![]() |
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シャルロッテンブルク門 [Charlottenburger Tor] (08:20) 写真中央の像は、フリードリヒ1世 [Friedrich I.] の像。 「西南西」MAPLay. A ![]() |
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シャルロッテンブルク門 [Charlottenburger Tor] (08:20) シャルロッテンブルク (MAP) は、ベルリン西部のシュプレー川沿いに位置するの地区で、1705年に都市権を与えられ、 ベルリンに統合される1920年まで独立した裕福な都市であった。 当時、シャルロッテンブルクはベルリンよりも税収が多く裕福であったため、ブランデンブルク門に対抗する形で、1907年/1908年にネオバロック様式の装飾的な門を独自に建てたのが、シャルロッテンブルク門 [Charlottenburger Tor] で、 シャルロッテンブルクの名は、プロシア (プロイセン) 王フリードリヒ1世 (1657~1713,在位1701~1713) の妃ゾフィー・シャルロッテ [Sophie Charlotte] の名を取って命名されている。 尚、ブルク [Burg] は要塞を意味する。 「西北西」MAPLay. A ![]() |
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統合後のベルリン (大ベルリン) 1920年にベルリンに合併した新しい地域の地図。 現在のベルリンとほぼ同じ大きさになっている。 図中7が Charlottenburg 。 図出典:Wikipedia |
統合前のベルリン (濃いピンク) 濃いピンク色の部分が1920年以前 (統合前) のベルリン市で、1920年の大ベルリン法によってベルリン市の周囲都市は統合され、大ベルリンになった。 |
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シャルロッテンブルク門 [Charlottenburger Tor] 左の像はフリードリヒ1世 [Friedrich I.] 、右の像は妃ゾフィー・シャルロッテ [Sophie Charlotte] の像。(↓) 出典:Wikipedia |
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フリードリヒ1世 [Friedrich I.] | ゾフィー・シャルロッテ [Sophie Charlotte] |
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エルンストロイター広場 [Ernst-Reuter-Platz] (08:21) 1948年から1953年の間、東西に分断された西ベルリンの一代目の市長を務めた Ernst Rudolf Johannes Reuter の名を取った広場。 エルンストロイター市長は、とても人気のあった市長で、未だ嘗て、これ程、市民に愛された市長はいないだろうと言われている。 第二次世界大戦終結後の1952年に東ドイツと西ドイツの間の国境は閉鎖されたが、西ベルリンと西ドイツとの間の往来は、指定された高速道路アウトバーン、直通列車 (東ドイツ領内では国境駅以外停まらない回廊列車) 、および空路により可能であった。 東ドイツを横切る際の安全は協定で保証されたが、西ベルリンに入れる航空機はアメリカ・イギリス・フランスのものに限られた。 しかし、1948年6月、西ベルリンをめぐる領有権争いから、東ドイツに囲まれ陸の孤島になっていた西ベルリンへの物資供給の為の鉄道と道路を、ソビエトが約一年間に渡って封鎖した事件 (ベルリン封鎖) があった。 これは西側に西ベルリンの支配を放棄させるために行った、ソ連の兵糧攻め作戦であった。 しかし、この時奮起したのが、エルンストロイター市長で、市長はアメリカ軍、イギリス軍の軍用機を使って、旧西ドイツから物資を空輸させ (ベルリン大空輸) 、西ベルリンの人々を餓死から救い、西ベルリンがソビエトに奪取されるのを防いだ。 このことが、市長が愛される所以になっている。(↓) 「南南西」MAPLay. A ![]() |
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西側占領地域と西ベルリンを結ぶ航空路 出典:Wikipedia |
西ベルリンのテンペルホーフ空港に物資を空輸してきた輸送機を見上げるベルリン市民。 出典:Wikipedia |
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テンペルホーフ空港で物資を降ろすC-47輸送機 出典:Wikipedia |
輸送機に搭載された牛乳 出典:Wikipedia |
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エルンストロイター広場 [Ernst-Reuter-Platz] (08:21) 「南西」MAPLay. A ![]() |
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ベルリン・ドイツ・オペラ劇場 [Deutsche Oper Berlin] (08:24) ベルリンにはオペラ劇場は3つあり、その内の1つ。 昔からのオペラ劇場は東ベルリン側になってしまったため、西ベルリン側に新しく造った (建設1961年) 唯一の歌劇場。 東ベルリンのベルリン国立歌劇場に対抗する存在であった。 Googleマイマップ 「北北西」MAPLay. A ![]() |
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カイザーダム [Kaiserdamm] 通り (08:27) 1904年まで、Lietzensee には未舗装の道路が1つしか無かった。 カイザー・ヴィルヘルム2世の要請により、ビスマルク通り (MAP) の延長線上に幅50メートルの大通りができ、1906年11月1日に交通用に開放された。 1906年12月18日以来、通りはカイザーヴィルヘルム2世を記念して今日の名前を冠している。 国民社会主義の時代には、カイザーダムは1939年に完成した東西軸の一部であった。 東西軸 [Ost-West-Achse] は、ヒトラーが唱えた、都市改造構想「世界首都ゲルマニア」の一部で、 ベルリンの東西を幅広い道路で貫き、ロンドンやパリをしのぐ世界の首都にふさわしい外観と規模にしようとした大計画。 (↓) ゲルマニアに関する参考記事 「西」MAPLay. A ![]() |
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カイザーダム [Kaiserdamm] 通り Theodor-Heuss-Platzからカイザーダムを東に向かって 空撮。 この通りは国道2号線と5号線が合わさって造られている。 カイザーダムは1939年に完成した東西軸の一部であった。 写真出典:Wikipedia |
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アウトバーン115 に今も残るアヴス [AVUS] の観客席 (08:31) アウトバーン115は、古いAVUSレーストラックの一部を使用して、Berliner StadtringとBerliner Ringを接続している。 AVUSはヨーロッパで最も古い高速道路 (1921年) で、公道でありながら、1998年までは 車の性能を試験するためのレース・トラックとしても使われていた。 スタートとゴール地点になっていた、この場所には今も観客席が残っている。 アウトバーンはヒトラーの時代、軍備のための増設や拡張がなされた。 例えば、戦車や軍用車が列を連ねて移動しなければならないし、軍用機の離着陸のための滑走路 (代替滑走路) としても必要であった (↓) 。 また、失業対策としても役だった。 ドイツのアウトバーンの特徴として、① 基本的に無料である。 ただし、EU統合 (1993年11月1日) に伴って2006年から大型貨物トラックは有料になっている。 ② 基本的に速度制限は設けられていない。 ただし、市内とか危険ヶ所は例外。 ③ 車種によって制限時速が定められている。 たとえば、大型トラックは時速 80km まで、バスは時速 100km まで、となっている。 尚、バスや大型トラックには、リミッターが設けられており、制限時速以上のスピードは出ない。 「西」MAPLay. A ![]() |
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代替滑走路であることを示す標識。 出典:Wikipedia |
NATO演習「Highway '84」の時にアウトバーン 29に着陸するC-130輸送機。 出典:Wikipedia |
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ヴァン湖 (ヴァンゼー) [Großer Wannsee] (08:42) ケーニヒ通り[Königstraße] からの眺め。 ヴァン湖は、旧西ベルリン側で1番有名な観光地、保養地になっていた。 べルリンは低地で、この辺りから北の、北海、バルト海、までほぼ平らになっている。 そのため、湖が多く、大小合わせて63の湖がある。 この63の湖は、2本の大きな川に繫がれており、1本はベルリン発祥の川であるシュプレー川 [Spree] 、もう1本はハーフェル川 [Havel] である。 シュプレー川はベルリンの南東、ドイツとポーランドとチェコの三カ国の国境近くから流れ出しており ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ここから北北西 1.4km の所に ヴァンゼー会議が行われた "ヴァンゼー会議の家" (MAP) がある。 ヴァンゼー会議は、1942年1月20日に15名のヒトラー政権の高官が会同して、ヨーロッパ・ユダヤ人の移送と殺害について分担と連携を討議した会議で、高級住宅地、ヴァンゼー湖畔にある親衛隊の所有する邸宅で開催された。 「北北東」MAPLay. A ![]() *エルベ川 [Elbe] は、チェコ側からラベ 川 [Labe] と呼ばれる。(チェコから流れ出たラベ 川はエルベ川と合流しているため。) |
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ケーニヒ通り [Königstraße] (08:49) 前方に見える橋は、グリーニッケ橋 [Glienicker Brücke] 。 橋の向こうは、ソビエトが支配する旧東ドイツ、手前はアメリカ合衆国が支配する旧西ベルリン。 この橋の中央が国境線となっていた。 (↓) 「西」MAPLay. A ![]() |
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南側のBabelsberg公園からの眺め 橋の中央 (旧国境) を境にして、左 (旧東ドイツ) 右 (旧西ベルリン) 微妙に色が違うのが分かる。 出典:Wikipedia |
ポツダム側からの眺め 旧東ドイツのポツダム側からの眺め。 対岸はアメリカ支配域の旧西ベルリンだった。 出典:Wikipedia |
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橋の中央にある金属プレート かつての国境線と東西ドイツの統一を記念した金属プレートが橋の中央に埋め込まれている。 『DEUTSCHE TEILUNG bis 1989』は、ドイツが1989まで分割されていた事を示している。 出典:Wikipedia |
ポツダム側からの眺め 境界線と分断の廃止を記念して立てられている旧東ドイツ・ポツダム側の茶色の看板。 出典:Wikipedia |
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グリーニッケ橋 [Glienicker Brücke] (08:49) 嘗て、この橋の真ん中が国境になっていて、西側 (進行方向) が旧東ドイツのポツダム、東側 (後方) が旧西ベルリン。 ドイツのハーフェル川にかかる橋で、冷戦時代は、アメリカ合衆国が支配する西ベルリンとソビエト連邦が支配する東ドイツとを繋ぐ立地から、米ソ間のスパイ交換の場として使われたことで知られる。 現在は冷戦時代を象徴する観光名所となっている。 スパイ映画や小説で人質交換の舞台となっている。 (↓) この橋で実際にあった人質交換 1962年から1986年の間に、合計40人の人々との3回のやりとりがグリエニケ橋で行われた。 1962年2月10日の1回目の交換は、題名『ブリッジ・オブ・スパイ』として映画化 (2015年) されている。 出典:Wikipedia 「北西」MAPLay. A ![]() ![]() |
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グリーニッケ橋 [Glienicker Brücke] の位置関係 (最近の地図に、東西ドイツ時代の支配域を書き加えた地図。) |
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グリーニッケ橋 [Glienicker Brücke] (08:49) 下を流れる川は、ハーフェル川 [Havel] 。 「北西」MAPLay. A ![]() |
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グリーニッケ橋 [Glienicker Brücke] (08:50) 橋を渡りきると、対岸は旧東ドイツのポツダム [Potsdam] (MAP) 。 ポツダムはブランデンブルク州の州都。 因みに、ドイツには16の州があり、その中に3つの都市州がある。 都市州は、一つの都市ないし都市圏によって構成される州で、首都ベルリンや中世以来の自由ハンザ都市を起源とするハンブルクは各々単独で州としての行政権限が認められ、また同じく自由ハンザ都市を起源とするブレーメンはその外港ブレーマーハーフェンと併せて一つの州として認められている。 この3市は都市州 [Stadtstaat] とも呼ばれている。 (↓) 「西」MAPLay. A ![]() |
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ドイツの連邦州 地図上に赤で示された 3, 5, 6 が都市州。 都市州は都市そのものが州になっているため、ブランデンブルク州の真ん中にあるベルリン市はベルリン州でもある。 出典:Wikipedia |
地方行政のピラミッド 出典:Wikipedia |
Neue Palais (新宮殿) ここから約1.6km 離れた同じ庭園内に、プロイセン王国時代の1745年から1747年にかけて、フリードリヒ2世の命によって建てられたロココ建築のサンスーシ宮殿 [Schloss Sanssouci] があるが、国威発揚のため新たに大規模な宮殿が必要になった。 そのため、オーストリアとの戦い (七年戦争) の後、1763年から1769年にヴェルサイユ宮殿を模して後期バロック様式 (ロココ様式への移行期) で建てられたのが、この新宮殿 [Neues Palais] 。 フリードリヒ2世皇帝は、1888年から1918年までの間、この宮殿を夏の住居としていた。 ![]() |
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BESUCHER ZENTRUM (ビジターセンター) (09:07) 「北」MAPLay. A ![]() |
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BESUCHER ZENTRUM (ビジターセンター) (09:08) 入場券や宮殿内部の撮影に必要なフォトチケット、お土産などを販売している。 「北」MAPLay. A ![]() |
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ビジターセンター内 (09:18) 宮殿内の撮影にはフォトチケットが必要。 買い忘れると宮殿から戻るのが大変。 MAPLay. A ![]() |
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ビジターセンターのテラスから見る 新宮殿 [Neue Palais] (09:24) 三階建てで200以上もの部屋がある。 因みに旧サンスーシ宮殿は11部屋しかない。 「北北東」MAPLay. A ![]() |
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凱旋門 [Triumphbogen] と 柱廊 [Kolonnade] (09:26) 勝利の回廊*を挟んで建つ二つの建物が建っている。 手前の建物は召使いの住居、向こう側の建物は台所になっている。 「北北西」MAPLay. A ![]() * 七年戦争の勝利 (実は、勝敗は判然としていない) を誇示するため、フリードリヒ2世が建てさせた回廊。 |
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凱旋門 [Triumphbogen] と 柱廊 [Kolonnade] (09:28) "勝利の回廊" を挟んで二つの建物が建っている。 左手の建物は召使いの住居、右手の建物は台所になっている。 食事は地下道を通って向かいの宮殿に運ばれ、宮殿ではエレベーターで地階から各階に運ばれていた。 「北西」MAPLay. A ![]() |
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新宮殿 [Neue Palais] (09:28) 右手の建物が新宮殿で、手前の修復中の建物の中には劇場がある。 "新宮殿" と向かい合う "勝利の回廊" は、長期にわたる戦い (七年戦争) によって衰退した国威を発揚するため、1745年から1747年にかけてフリードリヒ2世が建てさせた。 「北」MAPLay. A ![]() |
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凱旋門 [Triumphbogen] と 柱廊 [Kolonnade] (09:28) "勝利の回廊" を挟んで建つ二つの建物が建っている。 左手の建物は召使いの住居、右手の建物は台所になっている。 食事は地下道 (↓) を通って向かいの宮殿に運ばれ、宮殿ではエレベーターで地階から各階に運ばれていた。 「北西」MAPLay. A ![]() |
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凱旋門 [Triumphbogen] から新宮殿 [Neues Palais] への地下道 この図は計画図であり、この通り造られたのか、どうかは定かでない。 出典:Wikimedia Commons |
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凱旋門 [Triumphbogen] と 柱廊 [Kolonnade] (09:29) 勝利の回廊*を挟んで左右に二つの建物が建っている。 左手の建物は召使いの住居、右手の建物は台所になっている。 食事は地下道を通って向かいの宮殿に運ばれ、宮殿ではエレベーターで地階から各階に運ばれていた。 「西」MAPLay. A ![]() * 七年戦争の勝利 (実は、勝敗は判然としていない) を誇示するため、フリードリヒ2世が建てさせた回廊。 |
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新宮殿 [Neue Palais] (09:29) 右手の修復中の建物の中には劇場がある。 「東北東」MAPLay. A ![]() |
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新宮殿 [Neue Palais] (09:30) 新宮殿は、長期に及ぶ戦い (七年戦争) で疲弊した国力を発揚するため、1745年から1747年にかけてフリードリヒ2世によって建てられた。 「東」MAPLay. A ![]() |
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新宮殿 [Neue Palais] (09:30) 正面入口、人が並んでいるところが見学者の入口。 「東」MAPLay. A ![]() |
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新宮殿 [Neue Palais] (09:31) 工事中の建物の中には、劇場が備わっている。 「南南東」MAPLay. A ![]() |
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凱旋門 [Triumphbogen] と 柱廊 [Kolonnade] (09:31) "新宮殿" 前からの眺め。 "勝利の回廊*" を挟んで、左手は召使いの住居、右手は台所の建物になっている。 "勝利の回廊" と向かい合う "新宮殿" は、長期に及ぶ七年戦争によって疲弊した国威を発揚するため、フリードリヒ2世によって同時期建てられた。 「西」MAPLay. A ![]() * 七年戦争の勝利 (実は、勝敗は判然としていない) を誇示するため、フリードリヒ2世が建てさせた回廊。 |
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新宮殿 [Neue Palais] 入場口 (09:32) 宮殿内部の撮影には、フォトチケットが必要。 購入場所は先ほど訪れたビジターセンター内。 「北」MAPLay. A ![]() |
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新宮殿 [Neue Palais] 入場口 (09:32) 「北北東」MAPLay. A ![]() |
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丸で囲んだ数字は撮影場所を示し、矢印は撮影方向を示している。 それぞれ、以下の写真に対応している。 |
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下部玄関ホール [Unteres Vestibül] (09:33) 地上階:① 左手の大きなドアの向こうには、洞窟ホール [Grottensaal] があるが、今は工事中のため入室出来ない。 新宮殿は夏の宮殿として夏場だけ使用し、冬はポツダム城で過ごしていた。 洞窟ホールは夏の宮殿を快適に過ごすために造られた部屋で、涼を取るための工夫が多く成されている。 例えば、床は大理石で敷き詰め、壁の装飾には自然石が埋め込まれている、また、セメントの中には小粒のガラスが埋め込まれ、水の流れを表現したりしている。 MAPLay. Z ![]() |
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下部玄関ホール [Unteres Vestibül] (09:33) 地上階:② MAPLay. Z ![]() |
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天井画〖アポロとミューズ〗 (09:34) 地上階:③ 天井には、画家 Johann Christoph Frisch によって、フレスコ画〖アポロとミューズ〗[Apollo und die Musen] (1767年 ) が描かれている。 (↓) MAPLay. Z ![]() |
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①アポロ [Apollo] ②ウーラニアー [Urania] ③カリオペー [Calliope] ④クレイオー [Clio] ⑤テルプシコラー [Terpsichore] ⑥エウテルペー [Euterpe] ⑦エラトー [Erato] ⑧彫刻と絵画の天使 ⑨演奏の天使 ⑩エウテルペー [Euterpe]に付き添う天使 | |||
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下部玄関ホール [Unteres Vestibül] の窓から見る "勝利の回廊" (09:34) 地上階:④ MAPLay. Z ![]() |
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下部玄関ホール [Unteres Vestibül] (09:37) 地上階:⑤ MAPLay. Z ![]() |
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控えの間 [Vorzimmer] (09:39) 地上階:⑥→ 壁の装飾は当時ヨーロッパで流行った中国趣味の美術様式で、シノワズリ [仏: chinoiserie] と言う。 実際に中国に行った画家は殆ど居なく、絵にはリアリティが無い。 MAPLay. Z ![]() |
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控えの間 [Vorzimmer] (09:39) 地上階:⑦ 壁の装飾は当時ヨーロッパで流行った中国趣味の美術様式で、シノワズリ [仏: chinoiserie] と言う。 実際に中国に行った画家は殆ど居なく、絵にはリアリティが無い。 MAPLay. Z ![]() |
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控えの間 [Vorzimmer] (09:39) 地上階:⑥→ 壁の装飾は当時ヨーロッパで流行った中国趣味の美術様式で、シノワズリ [仏: chinoiserie] と言う。 実際に中国に行った画家は殆ど居なく、絵にはリアリティが無い。 MAPLay. Z ![]() |
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書斎 [Schreibkabinett] (09:42) 地上階:⑧→ 暖炉の上には、マイセンの壺が飾られている。 18世紀に、この宮殿はロココ・スタイルで造られている。 嘗て、貝殻の曲線を多用したインテリア装飾をロカイユ [rocaille] 装飾 (ロカイユ模様) と呼んでいたが、それが転じてロココ [Rococo] と呼ばれるようになった。 例えば、鏡の縁や額の縁、天井の装飾などを見ると貝殻を想起させる曲線で装飾されている。 MAPLay. Z ![]() |
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書斎 [Schreibkabinett] (09:42) 地上階:⑧→ 部屋全体を貝殻様の曲線を用いて、ロココ様式で纏められている。 MAPLay. Z ![]() |
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書斎 [Schreibkabinett] (09:42) 地上階:⑧→ 天井装飾も、植物の葉や花は自然色を使い、ロココ調に纏められている。 MAPLay. Z ![]() |
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書斎 [Schreibkabinett] (09:42) 地上階:⑧→ 中央にある書き物机を見ると、天板が椅子側に傾斜しているのが分かる。 これは、当時の女性達の為の仕様で、女性は腰にコルセットを嵌めていたため前屈みになりにくく、天板の方を手前に傾けていた。 当時の女性は、5才になると腰にコルセットを嵌めし、理想とされていた腰のサイズ (36cm) を大人なっても維持しようとした。 因みに、18世紀当時の女性はコルセットによる内蔵圧迫傷害のため、長生き出来なかったと言われている。 MAPLay. Z ![]() |
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書斎 [Schreibkabinett] (09:42) 地上階:⑨ 左手の書き物机の天板を見ると、傾斜しているのが良く分かる。 MAPLay. Z ![]() |
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男性のベッドルーム [Herrenschlafzimmer] から見る見学通路 (09:43) 地上階:⑩→ MAPLay. Z ![]() |
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男性のベッドルーム [Herrenschlafzimmer] (09:43) 地上階:⑩→ MAPLay. Z ![]() |
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男性のベッドルーム [Herrenschlafzimmer] (09:43) 地上階:⑩→ MAPLay. Z ![]() |
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男性のベッドルーム [Herrenschlafzimmer] (09:45) 地上階:⑪ ベッドの前に十字架か描かれている。 この部屋で、「百日皇帝」と言われたフリードリッヒ3世 (1831年10月18日 - 1888年6月15日) が亡くなっている。 (在位:1888年3月9日 - 1888年6月15日) MAPLay. Z ![]() |
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男性のベッドルーム [Herrenschlafzimmer] (09:46) 地上階:⑪ 「百日皇帝」と言われたフリードリッヒ3世 (1831年10月18日 - 1888年6月15日) が亡くなったベッド・ルーム。 (在位:1888年3月9日 - 1888年6月15日) MAPLay. Z ![]() |
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男性のベッドルーム [Herrenschlafzimmer] (09:46) 地上階:⑩→ 部屋の片隅に飾られ二つの絵は、上がフリードリッヒ3世 [Frederick III] 、下が妃ヴィクトリア・アデレイド・メアリ・ルイーズ [Victoria Adelaide Mary Louise] 。 MAPLay. Z ![]() |
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男性のベッドルーム [Herrenschlafzimmer] (09:46) 地上階:⑩→ フリードリッヒ3世の胸像。 MAPLay. Z ![]() |
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男性のベッドルーム [Herrenschlafzimmer] (09:46) 地上階:⑫ 絵のタイトルは、『ケーニヒスベルクでのヴィルヘルム1世の戴冠式』、(1861年メンツェル作) (↓) 1861年の兄王 (フリードリヒ・ヴィルヘルム4世) の崩御でヴィルヘルム1世がプロセイン王に即位した時の戴冠式を描いた作品。 (ヴィルヘルム1世は10年後、初代ドイツ皇帝になっている) ヴィルヘルム1世はこの部屋で亡くなったフリードリヒ3世 (百日皇帝) の父に当たる。 奇しくも、フリードリヒ3世は父ヴィルヘルム1世と同じ年 (1888年) の3ヶ月後に亡くなっている。 (↓) MAPLay. Z ![]() |
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『ケーニヒスベルクでのヴィルヘルム1世の戴冠式』 (アドルフ・フォン・メンツェル画) 出典:Wikimedia Commons |
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男性のベッドルーム [Herrenschlafzimmer] (09:46) 地上階:⑫ 『ケーニヒスベルクでのヴィルヘルム1世の戴冠式』に描かれている人物の説明書。 リアルに書かれているため、肖像画としての価値もあった。 この絵が書き始められたのは、1861年で、完成には1年以上の歳月が費やされた。 1862年にプロイセン王国首相になったオットー・フォン・ビスマルクは、この戴冠式には出席していなかったが、重要人物であるため、後から加筆されている。 (リストの65番) MAPLay. Z ![]() |
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赤い絢緞子の部屋 [Rotes Damastzimmer] (09:47) 地上階:⑬ 東ドイツ時代に絹の壁布が張り替えられている。 ロココ・スタイルの部屋は家具を含め床から天井まで貝殻を模した半円形の装飾で統一されている。 例えば、テーブルや椅子の足、家具の角等も半円形を基調としている。 MAPLay. Z ![]() |
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赤い絢緞子の部屋 [Rotes Damastzimmer] (09:47) 地上階:⑭→ 暖炉の上にある壺は、KPM (ベルリン王立磁器製陶所) 製。 王立磁器製陶所ベルリンは、1763年9月19日にフリードリッヒ大王 (フリードリヒ2世) によって創立された。 一般的にマイセンよりKPMの方が高価とされている。 ドイツ磁器の代表的なブランドには、マイセン [Meissen] 、ドレスデン [Dresden] 、KPMベルリン、ルードヴィヒスブルグ [Ludwigsbug] 、ローゼンタール [ Rosenthal] がある。 MAPLay. Z ![]() |
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赤い絢緞子の部屋 [Rotes Damastzimmer] (09:47) 地上階:⑭→ MAPLay. Z ![]() |
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赤い絢緞子の部屋 [Rotes Damastzimmer] (09:48) 地上階:⑭→ MAPLay. Z ![]() |
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赤い絢緞子の部屋 [Rotes Damastzimmer] (09:48) 地上階:⑭→ MAPLay. Z ![]() |
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赤い絢緞子の部屋 [Rotes Damastzimmer] (09:49) 地上階:⑭→ MAPLay. Z ![]() |
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赤い絢緞子の部屋 [Rotes Damastzimmer] (09:49) 地上階:⑮ 暖炉の上にある壺は、KPM (ベルリン王立磁器製陶所) 製。 王立磁器製陶所ベルリンは、1763年9月19日にフリードリッヒ大王 (フリードリヒ2世) によって創立された。 一般的にマイセンよりKPMの方が高価とされている。 ドイツ磁器の代表的なブランドには、マイセン [Meissen] 、ドレスデン [Dresden] 、KPMベルリン、ルードヴィヒスブルグ [Ludwigsbug] 、ローゼンタール [ Rosenthal] がある。 MAPLay. Z ![]() |
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赤い絢緞子の部屋 [Rotes Damastzimmer] (09:49) 地上階:⑯→ 左の開いているドアの向こうは、先ほど通ってきた "男性のベッドルーム [Herrenschlafzimmer] " 。 MAPLay. Z ![]() |
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赤い絢緞子の部屋 [Rotes Damastzimmer] (09:49) 地上階:⑯→ 右の開いているドアの向こうは、先ほど通ってきた "男性のベッドルーム [Herrenschlafzimmer] " 。 MAPLay. Z ![]() |
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赤い絢緞子の部屋 [Rotes Damastzimmer] (09:50) 地上階:⑯→ MAPLay. Z ![]() |
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コンサートの部屋 [Konzertzimmer] (09:51) 地上階:⑰→ 飾られている絵画は、ギリシャ神話を題材に描かれている。 左脇にあるテーブル状のキャビネットは、ハンマークラビア [Hammerklavier] と言う楽器。 Hammerklavier の、Hammer はハンマー、klavier はビアノを意味する。 19世紀初期のドイツで、チェンバロと区別して、ピアノをさした呼称。 それまであったチェンバロは撥弦楽器 (弦をはじく楽器) であるのに対しピアノは打弦楽器 (弦を打つ楽器) であるため、ハンマーの名が冠されている。 (ドイツ以外ではフォルテピアノと呼ばれる場合が多い) 音色はチェンバロとビアノが混在している感じ。 MAPLay. Z ![]() |
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コンサートの部屋 [Konzertzimmer] (09:51) 地上階:⑰→ MAPLay. Z ![]() |
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コンサートの部屋 [Konzertzimmer] (09:54) 地上階:⑱→ MAPLay. Z ![]() |
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コンサートの部屋 [Konzertzimmer] 地上階:⑱ MAPLay. Z ![]() |
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コンサートの部屋 [Konzertzimmer] (09:54) 地上階:⑱→ MAPLay. Z ![]() |
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コンサートの部屋 [Konzertzimmer] (09:55) 地上階:⑲→ 鏡の前に置かれた楽器は、ハンマークラビア [Hammerklavier] (ドイツ語圏以外では、フォルテピアノ) と呼ばれている。 18世紀から19世紀前半の様式のピアノを、20世紀以降のピアノと区別する際に用いられる呼称で、これに対して現代のピアノを特に指す場合はモダンピアノという。 ドイツ語圏でのフォルテピアノの製作を始めたのはゴットフリート・ジルバーマンで、 ジルバーマンはプロイセンのフリードリヒ2世の庇護を受け、フリードリヒはジルバーマンの楽器を数多く購入した。 ここに置かれている フォルテピアノ (ハンマークラビア) もジルバーマンの作品。 ジルバーマンの制作したフォルテピアノは、ニュルンベルクのドイツ国立博物館に1台、ポツダムの新宮殿 (↑) とサンスーシー宮殿 (↓) に1台ずつ遺されている。 1747年5月、ポツダムでヨハン・ゼバスティアン・バッハがプロイセン国王フリードリヒ2世の与えた主題による即興演奏を行った。 この際使用されたのはジルバーマン作のフォルテピアノであった。 この即興演奏を元に作曲されたのが『音楽の捧げもの』である。 また、バッハの次男、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ [ Carl Philipp Emanuel Bach] もフリードリヒ2世の下でチェンバロ奏者として働いていたことがある。 (↓) MAPLay. Z ![]() |
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『サンスーシ宮殿でのフルートコンサート』 (1850年-1852年) (アドルフ・フォン・メンツェル作) 中央で右向きに立ってフルートを吹いているのがフリードリヒ2世で、そのかたわらに腰掛け、大王を横目に見ながらチェンバロで伴奏しているのがカール・フィリップ・エマヌエル。 |
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房 (ふさ) の部屋 [Tressenzimmer] (09:55) 地上階:⑳ Tressen はフランス語のTresse から由来した言葉で、フランス語では、組紐、三つ編み、真田編み、ひだ等を意味する。 ドイツ語のTressen では絹糸、金糸、銀糸などで織った布や糸を束ねた房、金線や銀線を扁平にしたり、コイル状にして作った飾り物等を指し、この部屋では壁材に多く使用されている事から "Tressenzimmer" と呼ばれている。 部屋の修復の様子を見れば、よく分かると思います。 (YouTube) (YouTube) MAPLay. Z ![]() |
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コンサートの部屋 [Konzertzimmer] (09:55) 地上階:⑲→ MAPLay. Z ![]() |
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コンサートの部屋 [Konzertzimmer] (09:56) 地上階:⑲→ MAPLay. Z ![]() |
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カップのヘッドルーム [Tassenkopfzimmer] (09:56) 地上階:㉑→ 床板が綺麗な部屋で、腰板から天井まで花模様が連なっている。 部屋の形状は伏せられたカップに似ている。 MAPLay. Z ![]() |
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カップのヘッドルーム [Tassenkopfzimmer] (09:56) 地上階:㉑→ このシャンデリアはKPM製。 MAPLay. Z ![]() |
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カップのヘッドルーム [Tassenkopfzimmer] (09:56) 地上階:㉒ MAPLay. Z ![]() |
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カップのヘッドルーム [Tassenkopfzimmer] (09:56) 地上階:㉒ 奥の床は18世紀のオリジナル、手前の床は通路になっているため傷みが早く、19世紀に張り替えられている。 MAPLay. Z ![]() |
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二階に上がるための階段へ向かう (09:56) 地上階:㉓ MAPLay. Z ![]() |
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2階階段の廊下 (振り返っての撮影) (09:58) 二階:㉔ 正面の小さなドアはエレベーターのドア (現在は使用されていない) 。 直接油圧式乗客エレベーターで、1903年ヴィルヘルム2世の委託によって設置された。 (↓) この後、次の部屋 (撮影者の後方) へ行った後、その部屋の階段から一旦1階に下り、皇后の湯 [Bad der Kaiserin] を見学する。 その後、再び2階に戻る。 MAPLay. Z ![]() |
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新宮殿 [Neues Palais] 出典:ポツダム応用科学大学 |
新宮殿 [Neues Palais] 緑色の縦線がエレベーターの設置位置。 出典:ポツダム応用科学大学 |
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エレベーターへの動力伝達用油圧バイブ 元となる駆動エネルギーは水から得ていた。 出典:ポツダム応用科学大学 |
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皇后の湯 [Bad der Kaiserin] (09:58) 地上階:㉕ 2階から一旦1階に下り、皇后の湯を見学。 この宮殿が建てられた18世紀頃は風呂はなく "プーダカンマ" [Puderkammer] (散布室) として使われていた。 プーダカンマは頭部に髪粉と呼ばれる白い粉 (主に小麦粉) を振りかける専用の部屋のことで、この時代の人々は鬘を被っていたため、鬘のテカリ*を消すためとか、頭髪の汚れを隠すためとか、体の臭いを消すためとか、で髪粉を使っていたと言われている。 当時の人は、男も女も、老いも若きも、みんな揃って髪粉を頭から振り掛けていた。 MAPLay. Z ![]() * 鬘は髪形を整えるため油脂を塗ってあった。 |
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"プーダカンマ" [Puderkammer] (散布室) の様子を描いた絵 | |||
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皇后の湯 [Bad der Kaiserin] (09:59) 地上階:㉕ 1898年オランダの「デルフトタイル」で装飾された皇后の浴室。 この宮殿が建てられた18世紀頃は水からペストなどの感染症が伝播すると恐れられていたため、風呂に入る習慣はなく造られていなかった。 しかし、19世紀にセントラルヒーティングの設置が行われた際には風呂も付けられた。 MAPLay. Z ![]() |
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皇后の湯 [Bad der Kaiserin] (09:59) 地上階:㉕ 召使いを呼ぶための、引き紐がぶら下がっている。 MAPLay. Z ![]() |
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皇后の湯 [Bad der Kaiserin] (09:59) 地上階:㉕ この後、同じ階段で、再び2階へ戻る。 MAPLay. Z ![]() |
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執筆室 [Schreibkabinett] (09:59) 二階:㉖ 緑の壁の羽目板と銀色の装飾が施された白い天井。 室内には豪華なテーブルが備えられている。 MAPLay. Z ![]() |
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執筆室 [Schreibkabinett] (10:00) 二階:㉖ 緑の壁の羽目板と銀色の装飾が施された白い天井。 室内には豪華なテーブルが備えられている。 MAPLay. Z ![]() |
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女性の寝室 [Damenschlafzimmer] (10:03) 二階:㉗ ここに展示されている家具はベルリン城にあった家具。 ベルリンの壁が崩壊する前の東ベルリン時代に、イギリスでオークションに出されていた物を買い戻した。 当時、多くの水は使えなかったので、部屋の隅の器に最低限の水だけを入れていた。 夜はベッドの側に 置いた "おまる" で用を足し、昼は庭で用を足した。 当時の服装はコルセットを着用し、クジラの骨の入った長くて裾が広がったスカートを穿いていたので、しゃがめばそのまま用が足せた。 因みに、当時の女性は下着を着けていなかった。 MAPLay. Z ![]() |
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女性の寝室 [Damenschlafzimmer] (10:03) 二階:㉘→ MAPLay. Z ![]() |
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女性の寝室 [Damenschlafzimmer] (10:04) 二階:㉘→ MAPLay. Z ![]() |
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女性の寝室 [Damenschlafzimmer] (10:04) 二階:㉘→ MAPLay. Z ![]() |
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狩猟室 [Jagdkammer] (10:04) 二階:㉙→ 全て狩猟に関連した、金色の トロフィー・ハンティング* [Trophy Hunting] や漁網の彫刻が壁面に飾られている。 ドアのアーチ部分には貝殻の中で寝そべる猟犬の彫刻、ドアの縁の部分にはオークの幹を象った彫刻、椅子の肘掛けには猟犬を象った彫刻が夫々施されている。 MAPLay. Z ![]() * 猟で得た獲物の剥製や角、毛皮など、体の一部を記念として残しておく物。 |
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狩猟室 [Jagdkammer] (10:04) 二階:㉙→ 金色の装飾と自然主義的に描かれたフローラルリースの天井。 シャンデリアはKPM製で、シャンデリアの直ぐ上の付け根の部分にパイナップルの装飾が施されている。 嘗て、サンスーシ宮殿の温室でパイナップルが栽培されていた事を示している。 MAPLay. Z ![]() |
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狩猟室 [Jagdkammer] (10:05) 二階:㉚→ この部屋は、ドイツ最後の皇帝 [ヴィルヘルム2世] が使っていた部屋。 MAPLay. Z ![]() |
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狩猟室 [Jagdkammer] (10:06) 二階:㉚→ この部屋には、絵が展示され、傍らに募金箱が置かれている。 この絵は、長年行方不明になっていたが、最近オークションで発見され、買い戻すための費用を募っている。 この絵は "大理石のホール" [Marmorsaal] に展示するため、画家が王に贈ったサンプル画で、嘗ては、王にサンプル画を献上し、承諾を乞うていた。 現在 "大理石のホール" には、これと同じ絵は展示されておらず、経緯は不明。 (私が調べた限りでは) MAPLay. Z ![]() |
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狩猟室 [Jagdkammer] (10:06) 二階:㉛ 全て狩猟に関連した、金色の トロフィー・ハンティング* [Trophy Hunting] や漁網の彫刻が壁面に飾られている。 ドアのアーチ部分には貝殻の中で寝そべる猟犬の彫刻、ドアの縁の部分にはオークの幹を象った彫刻、椅子の肘掛けには猟犬を象った彫刻が夫々施されている。 MAPLay. Z ![]() * 猟で得た獲物の剥製や角、毛皮など、体の一部を記念として残しておく物。 |
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狩猟室 [Jagdkammer] (10:07) 二階:㉛ "大理石のホール" [Marmorsaal] に展示するため、画家が王に贈ったサンプル画。 MAPLay. Z ![]() |
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狩猟室 [Jagdkammer] (10:07) 二階:㉜ この部屋は、ドイツ最後の皇帝 [ヴィルヘルム2世] が使っていた部屋。 MAPLay. Z ![]() |
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緑の絢緞子の部屋 [Grüne Damastkammer] (10:07) 二階:㉝ この部屋は、ドイツ最後の皇帝 [ヴィルヘルム2世] が使っていた部屋。 経緯 『第一次世界大戦敗北を契機として勃発した1918年のドイツ革命によって、君主制の廃止と共和制への移行が宣言されたのを受けて、1919年1月にワイマールにて憲法制定の国民会議が開催され、起草決定された。 起草文はドイツ民主党の政治家で弁護士であったフーゴー・プロイスによって作成、初代大統領に選出されたフリードリヒ・エーベルトが1919年8月11日に調印し制定、8月14日に公布・施行された。』 これによって、ヴィルヘルム2世は皇帝の座を失い、最後の皇帝となった。 その後、ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命するが、その際に家具とか調度品を全部持ち去ったため、部屋は "がらん" としている。 MAPLay. Z ![]() |
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緑の絢緞子の部屋 [Grüne Damastkammer] (10:08) 二階:㉞ この部屋は、ドイツ最後の皇帝 [ヴィルヘルム2世] が書斎として使っていた部屋。 MAPLay. Z ![]() |
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緑の絢緞子の部屋 [Grüne Damastkammer] (10:10) 二階:㉟ この部屋は、ドイツ最後の皇帝 [ヴィルヘルム2世] が書斎として使っていた部屋。 MAPLay. Z ![]() |
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緑の絢緞子の部屋 [Grüne Damastkammer] (10:10) 二階:㊱→ この部屋は、ドイツ最後の皇帝 [ヴィルヘルム2世] が書斎として使っていた部屋。 MAPLay. Z ![]() |
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緑の絢緞子の部屋 [Grüne Damastkammer] (10:10) 二階:㊱→ この部屋は、ドイツ最後の皇帝 [ヴィルヘルム2世] が書斎として使っていた部屋。 MAPLay. Z ![]() |
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男性のベッドルーム [Herrenschlafzimmer] (10:12) 二階:㊲ ロシア皇帝エカチェリーナ2世 (カタリーナ2世) の肖像画。 プロシャ (ロシア) のカタリーナ2世がプロセインとの友好のため、フリードリヒ2世に寄贈した自分自身の肖像画。 MAPLay. Z ![]() |
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男性のベッドルーム [Herrenschlafzimmer] (10:13) 二階:㊲ ロシア皇帝エカチェリーナ2世 (カタリーナ2世) の肖像画。 MAPLay. Z ![]() |
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男性のベッドルーム [Herrenschlafzimmer] (10:13) 二階:㊳→ フリードリヒ2世の肖像画が2点飾られている。 フリードリヒ2世はモデル (不動) になっての肖像画を描かせなかったが、画家達は見た印象と過去の肖像画を参考にして、リアルな肖像画を描いたと言われている。 MAPLay. Z ![]() |
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男性のベッドルーム [Herrenschlafzimmer] (10:14) 二階:㊳→ MAPLay. Z ![]() |
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書斎 [Schreibkabinett] (10:14) 二階:㊴ MAPLay. Z ![]() |
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控えの間 [Vorzimmer] (10:14) 二階:㊵ MAPLay. Z ![]() |
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3階への階段 (10:15) 二階:㊶ 写真のみで、3階には上がっていない。 左横には1階へ下りる階段がある。 MAPLay. Z ![]() |
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上部玄関ホール [Oberes Vestibül] (10:15) 二階:㊷ 左の大きなドアの向こうには "大理石の間" があるが、現在は工事中で入室出来ない。 "大理石の間" は、吹き抜けになっており、床、壁、全てが大理石で装飾されている。 この "上部玄関ホール" は、一見、大理石のように見えるが、 模造で、"漆喰大理石" [Stuckmarmor] で出来ている。 "大理石の間" は、当初、ダンスパーティーの場として使用する予定であったが、一回目のダンスパーティーで床が波打ったため、それ以降一度もダンスパーティーは開かれていない。 階下の "洞窟の間" には柱が無く、また "大理石の間" の床材が重すぎたため床が歪んでしまった。 MAPLay. Z ![]() |
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上部玄関ホール [Oberes Vestibül] (10:18) 二階:㊸ 見学を終わり外部へ。 部屋を出た直ぐ左手に1階へ下りる階段がある。 MAPLay. Z ![]() |
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凱旋門 [Triumphbogen] と 柱廊 [Kolonnade] (10:24) 「西」MAPLay. A ![]() |
サンスーシ宮殿 [Schloss Sanssouci] 生涯、戦争に明け暮れたプロイセン国王フリードリヒ2世が、憂いのない場所を求めて夏の離宮として1745年から1747年にかけて建てた宮殿。 ブランデンブルク州の州都ポツダム市街の西に広がるサンスーシ公園北東部に建つロココ建築の宮殿は、フランスのヴェルサイユ宮殿を摸して建てられた。 サンスーシ [Sans Souci] とは、もともとフランス語で「憂いなし」を意味し、日本や中国では漢訳して無憂宮とも呼ぶ。 1990年に、宮殿の建物および庭園は「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」の1つとしてユネスコの世界遺産 (文化遺産) に登録された。 ![]() |
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駐車場でバスを降り宮殿へ向かう (10:51) 「西北西」MAPLay. A ![]() |
風車小屋 (10:52) この辺りは平地で風を遮る物は無く、嘗ては、多くの風車があった。 この地方の風車は粉挽き用の風車で、水を汲み出すオランダの風車とは異なっている。 写真の風車は壊れていた風車小屋を建て直し、観光客用に粉挽きの様子を見せている。 「南東」MAPLay. A ![]() |
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オランダ式庭園 [Holländischer Garten] (10:59) 「東」MAPLay. A ![]() |
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宮殿西側の翼 (10:59) 東西の翼は、フリードリヒ2世の死後63年目 (1849年) に建てられた。 右手に見えるグリーンの建物は、東屋とパーゴラ*を兼ねた建物。 「東南東」MAPLay. A ![]() * 独:Lauben und Pergolen 英:Arbours and pergolas |
宮殿西側の翼 (10:59) 東西の翼は、フリードリヒ2世の死後63年目に建てられた。 右手に見えるグリーンの建物は、太陽のモチーフで飾られた、東屋とパーゴラを兼ねた建物。 「南東」MAPLay. A ![]() |
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サンスーシ宮殿 [Schloss Sanssouci] の北側 (11:00) 中央の一段突き出したところが、玄関。 柱廊に囲まれた広いスペースは車寄せとして利用されていた。 北側には玄関、台所、召使いの部屋、廊下などが造られていた。 「南東」MAPLay. A ![]() |
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馬車の通用門 (11:01) 柱廊の途切れた所 (柵がある所) が嘗ての馬車の出入り口だった所。 柵の向こう側は、結構急な坂道になっていて、当時、2頭立てだった馬車は上ることが出来なかった。 そのため、別の2頭の馬を坂の下に待機させておき、4頭立てにして上っていたと言われている。 「北北東」MAPLay. A ![]() |
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丘の上に飾られた遺跡 (11:01) 丁度、フリードリヒ2世の時期に、ポンペイで遺跡が発掘され、発掘のニュースは当時の人々の関心を独占していた。 フリードリヒ2世は、それをヒントに、18世紀半ば装飾として丘に遺跡を造らせた。 (↓) 「北」MAPLay. A ![]() |
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丘の上の遺跡 [ [Normannischer Turm auf dem Ruinenberg] の説明パネル (11:02) 「南」MAPLay. A ![]() |
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丘の上の遺跡 [Normannischer Turm auf dem Ruinenberg] 1748年、プロイセン王のフリードリヒ2世は、サンスーシ宮殿に水を供給するために7600m³の容量の人工貯水池を造り、それを人工遺跡で装飾した (MAP) 。 フリードリヒ2世は当時計画していたプロジェクト (噴水複合施設、ネプチューンの洞窟 (MAP)、サンスーシ公園の大理石の柱廊の為の水利計画) のために沢山の水を欲しがっていた。 計画は風車でハーフェル川 [Havel] から山の上の人工貯水池まで水を引き、そこから下のサンスーシ公園まで木の幹の筒を通して流し、水を噴水まで持って来ることだった。 しかし、部下の技術的な無知のために成功しなかった。 出典:Wikimedia |
蒸気機関の家 [Dampfmaschinenhaus] サンスーシ宮殿の建設から約1世紀後、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はフリードリヒ2世の夢を実現した。 蒸気エンジンと最新の配管システムによって、噴水は設置された。 1841年から1843年にかけて、ハーフェル川の岸に蒸気エンジン(August Borsig)とそのポンプ機のための建物が建てられた (MAP) 。 この建物は、モスクに似た外観で、Ludwig Persiusによって設計された。 出典:Wikimedia |
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サンスーシ宮殿 [Schloss Sanssouci] (11:02) 北側から見た宮殿。 中央の3つのガラス張りの格子は開き扉になっており、宮殿への入口になっている。 「南」MAPLay. A ![]() |
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サンスーシ宮殿 [Schloss Sanssouci] の見取り図 1747年に完成したサンスーシ宮殿は、客室とフリードリヒ2世のプライベートな部屋のみで占められ、配偶者エリーザベトの部屋が無い。 「エリーザベトは1733年に17歳で王太子フリードリヒと結婚したが、夫フリードリヒはエリーザベトを完全に遠ざけていたため、夫婦生活は皆無であり、当然子供はできなかった。 父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が死去 (1740年5月31日) した後、王位を継承した夫フリードリヒ2世はエリーザベトを王妃にしたものの、彼女と完全に別居するようになっていた。 エリーザベトは美しい容姿で、信仰心が篤く善良な人柄であったが、フリードリヒは終生彼女に関心を持つことがなかった。」 バーチャルツアー |
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サンスーシ宮殿 [Schloss Sanssouci] の見取り図 1 Vestibül, 2 Marmorsaal, 3 Audienzzimmer, 4 Konzertzimmer, 5 Arbeits- und Schlafzimmer, 6 Bibliothek, 7 Galerie, 8 Gästezimmer, 9 Gästezimmer, 10 Gästezimmer, 11 Gästezimmer „Voltairezimmer“, 12 Gästezimmer „Rothenburgzimmer“, 13 die Dienerzimmer (和訳) 1 玄関ホール 2 大理石のホール 3 謁見室 4 コンサートの部屋 5 書斎と寝室 6 図書館 7 回廊 8 客室 9 客室 10 客室 11 客室 (ヴォルテールの部屋 [Voltairezimmer]) 12 客室 (ローテンブルクの部屋 [Rothenburgzimmer]) 13 使用人の部屋 |
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サンスーシ宮殿 [Schloss Sanssouci] (11:03) 宮殿と柱廊の接続部。 それより向こう側の西翼部は、宮殿が出来た当初は造られておらず、フリードリヒ2世の没後63年目に増設されている。 「西南西」MAPLay. A ![]() |
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フリードリヒ2世の墓 (11:05) フリードリヒ2世 [Friedrich II] は1786年8月17日、サンスーシ宮殿で老衰により崩御した。 生前の1744年に遺言でこの地の愛犬の墓に一緒に埋葬して欲しいと言い残していたが、亡くなった後、遺体は遺言に相違して、ポツダムのガルニゾン教会 [Garnisonkirche] (MAP) に埋葬された。 その後、第二次世界大戦中に遺体は各地を転々とさせられるなどの運命をたどったが、ドイツ再統一後の1991年8月17日テレビ局が終日実況中継する中、サンスーシ宮殿の庭先の芝生に墓が移され、現在は生前の希望通り11匹のイタリアン・グレイハウンド犬たちと一緒に眠っている。 向こう側の2列に並んだ小さな墓石が愛犬の墓。 話は変わって、フリードリヒ2世の墓の上のジャガイモが供えられているのは、フリードリヒ2世の時代、7年戦争で畑は荒れ果て、男手は少なくなり、パンの原料である小麦の栽培が困難な状態になっていた。 そこでフリードリヒ2世は、非常食としてジャガイモを食べるようにと、寒冷地や痩せた土地でも生育できるジャガイモの栽培を奨励した。 ジャガイモ栽培は食糧事情の改善に大きく役だち、ドイツ国民を飢えから防いだ。 今でもドイツでは多くのジャガイモ料理が作られ、ドイツ料理のメインになっている。 墓石の上のジャガイモは、フリードリヒ2世への感謝の気持ちを込めて置かれている。 「南」MAPLay. A ![]() |
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南側テラス (11:08) 中央のやや右側の丸い建物は、フリードリヒ2世図の書館。 その右の木立のある棟 (東翼) は台所で、フリードリヒ2世の死後63年目に建てられている。 「西」MAPLay. A ![]() |
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フリードリヒ2世と愛犬の墓 (11:08) 一番向こうの大きな1基はフリードリヒ2世の墓、手前の11基は愛犬の墓。 「北」MAPLay. A ![]() |
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フリードリヒ2世と愛犬の墓 (11:10) 右の大きな1基はフリードリヒ2世の墓、左の11基は愛犬の墓。 「西北西」MAPLay. A ![]() |
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フリードリヒ2世と愛犬の墓 (11:10) 南側のテラスの東の端にある、フリードリヒ2世と愛犬の墓。 中央やや左に見えるグリーンの建物は、東屋とパーゴラ*を兼ねた建物。 「北北東」MAPLay. A ![]() * 独:Lauben und Pergolen 英:Arbours and pergolas |
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南側テラス (11:11) 中央のやや右側の丸い建物は、フリードリヒ2世図の書館。 その右の木立のある棟 (東翼) は台所で、フリードリヒ2世の死後63年目に建てられている。 「北西」MAPLay. A ![]() |
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南側テラスからの眺め (11:11) 元々自然の丘だった所を6段のテラスに切り込んで、左右対称に幾何学模様のバロック庭園に造らせている。 「南南西」MAPLay. A ![]() |
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南側テラスにて (11:12) 「北西」MAPLay. A ![]() |
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南側テラス (11:12) 元々自然の丘だった所を6段のテラスに切り込んで、左右対称に幾何学模様のバロック庭園にしている。 「南南西」MAPLay. A ![]() |
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南側テラス (11:17) 元々自然の丘だった所を6段のテラスに切り込んで、左右対称に幾何学模様のバロック庭園にしている。 「北」MAPLay. A ![]() |
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南側テラス (11:18) この南のテラスは、丘の南斜面を階段状に6段に区切り、それぞれの段にオランジェリーを設けてイチジクを栽培している。 この地方の緯度は北緯52.4度で日本の近くで言えば樺太に相当する (MAP) 。 そのため、冬には-20度まで下がり、イチジクは越冬出来なくなる。 それを防ぐ為、冬が近づくとイチジクの枝を落とし、オランジェリーの扉を閉め、温度を保っていた。 その他、オランジェリーの外壁面を利用してブドウを栽培をしていたが、日照時間が短いため、酸味の強い少量のワインしか造れなかった。 この写真は夏の写真で、晩秋の写真を左下に示している。 「北」MAPLay. A ![]() |
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11月頃のオランジェリー ガラス張りのグリーンの扉の中にはイチジクの木が植えられており、扉を閉めれば温室状態になる。 扉と扉の間の壁面にはブドウ栽培用の支柱が設けられている。 |
6段に造られたテラス それぞれの、テラスの南端部にはイチジク栽培用のオランジェリーが設けられ、オランジェリーの上部は帯状に芝生で覆われている。 写真出典:Wikimedia Commons |
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南側テラス (11:19) 元々自然の丘だった所を6段のテラスに切り込んで、左右対称に幾何学模様のバロック庭園に造らせている。 「北」MAPLay. A ![]() |
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南側テラス (11:24) 宮殿内部の見学は、していないので写真は無いが、こちらのサイトでバーチャルツアーが可能。 「東北東」MAPLay. A ![]() |
ツェツィーリエンホーフ宮殿 [Schloss Cecilienhof] ツェツィーリエンホーフ宮殿は、1917年に当時皇太子であったヴィルヘルム・フォン・プロイセンのために建設された宮殿だったが、後に、妃 ツェツィーリエ・アウグステ・マリー・ツー・メクレンブルク が私人として暮らしていた事から、この名が付いた。 日本ではポツダム会談が開かれた場所として有名。 1945年に赤軍によって占領された。 1990年に、宮殿の建物および庭園は「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」の1つとしてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。 一部がホテルとして利用されている。 出典:Wikipedia ![]() |
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ツェツィーリエンホーフ宮殿 [Schloss Cecilienhof] (11:55) 1914年~1916年に "ヴィルヘルム・フォン・プロイセン" (ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の長男で、最後のドイツ皇太子) のためにプロイセン王室が建てた最後の宮殿。 後に、妃 ツェツィーリエ・アウグステ・マリー・ツー・メクレンブルク が私人として暮らしていた事から、この名が付いた。 建物の西棟の部分は、昨年 (2014年) まで民間の "古城ホテル・ ツェツィーリエンホーフ" [Schlosshotel Cecilienhof] に貸していた。 来年 (2016年) は建立100周年記念と言うことで、今は大々的な改装工事が行われ、閉鎖されている。 改装後は再びホテルとして利用される予定。 その他、ポツダム会談が行われた部屋など、歴史的に重要な建物、家具などは厳重に管理され、記念館として解放されている。 (この日は休館日) 「東」MAPLay. B ![]() |
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皇太子妃ツェツィーリエと宮殿との関わり (11:55) ツェツィーリエ [Cecilie] の皇太子妃としての安穏な生活は、第1次世界大戦の終焉とともに起きたドイツ革命 (1918年11月) により、終わりを告げた。 ツェツィーリエは退位した舅 (しゅうと) のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と皇后アウグステ・ヴィクトリア、そして夫の皇太子ヴィルヘルムと一緒にオランダへ亡命することを拒んだ。 彼女は6人の子供たちとともにベルリンに残り、平穏に暮らしていたが、 1933年のナチ党の権力掌握後、全ての君主制支持組織が解散させられた。 元皇太子妃ツェツィーリエは最終的に公の場から退くことを余儀なくされ、ポツダムのツェツィーリエンホーフ宮殿で私人として暮らすことになった。 第二次世界大戦末期の1945年2月にベルリンへ赤軍 (ソ連陸軍) が迫ると、ツェツィーリエは持ち運べるだけの荷物を持って安全な場所へ避難せざるを得なくなった。 彼女は次男のルイ・フェルディナント一家とともにバイエルンのバート・キッシンゲンに移り、1952年まで暮らし、1952年から1954年までは、シュトゥットガルト郊外で生活した。 1954年5月6日、訪問先のバート・キッシンゲンのゾーティアー邸で脳梗塞を起こし、急死した。 尚、宮殿は1945年9月に赤軍によって占拠されている。 「南西」MAPLay. B ![]() |
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ツェツィーリエンホーフ宮殿 [Schloss Cecilienhof] の庭園 (11:56) 「南南東」MAPLay. B ![]() |
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ツェツィーリエンホーフ宮殿 [Schloss Cecilienhof] の庭園 (11:56) 「東南東」MAPLay. B ![]() |
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ツェツィーリエンホーフ宮殿 [Schloss Cecilienhof] (11:56) 「東」MAPLay. B ![]() |
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ツェツィーリエンホーフ宮殿 [Schloss Cecilienhof] (11:56) 来年 (2016年) は建立100周年記念と言うことで、今は大々的な改装工事が行われている。 「北」MAPLay. B ![]() |
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ツェツィーリエンホーフ宮殿 [Schloss Cecilienhof] (11:56) 中央の入口の上には、2つのワッペンがあり、左のワッペン [Wappen] はプロイセンの鷲、右のワッペンはメクレンブルク・シュヴェリーンの牛を表している。 同様に、その上の煙突にも、鷲と牛の模様が着けられている。 「北」MAPLay. B ![]() |
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館内案内パネル 「北北東」MAPLay. B ![]() |
左:船室 [Ship's Cabin] 右:朝食ルーム [Breakfast Room] 「北北東」MAPLay. B ![]() |
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左:会議ホール [Conference Holl] 中:音楽の間 [Music Salon] 右:船室 [Ship's Cabin] 「北北東」MAPLay. B ![]() |
左:The Big Three(チャーチル、トルーマン、スターリン) 右:会議ホール [Conference Holl] 「北北東」MAPLay. B ![]() |
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上:宮殿の後部 [Rear of the Palace] 中:皇太子妃の更衣室 [Crown Princess's Dressing Room] 下:皇太子のバスルーム [Crown Prince's Bathroom] 「北」MAPLay. B ![]() |
上:皇太子ヴィルヘルム、1932 [Crown Prince Wilhelm,1932] と 皇太子妃ツェツィリエ、1934 [Crown Princess's
Cecilie,1934] 中:宮殿の後部 [Rear of the Palace] 下:皇太子妃の更衣室 [Crown Princess's Dressing Room] 「北」MAPLay. B ![]() |
ポツダム会談が開かれたツェツィーリエンホーフ宮殿 ポツダム会談は、ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日から8月2日、ソ連占領地域 (東ドイツ) となったポツダムに、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦の3カ国の首脳が集まって行われた、第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談。 第二次世界大戦の連合国三大国の首脳会談が行われたのはこれで3度目であり、最後となった。 会議の最後にはポツダム協定が策定された。また7月26日には日本政府に対して日本軍の無条件降伏などを求めるポツダム宣言が表明されたことで知られているが、会議の公式日程において対日問題は協議されなかった。 対日問題については既に、第二次世界大戦中の1943年11月22日から11月26日にかけて、カイロで行われたカイロ会談で決定されていた。 (参加者: 蒋介石、ルーズベルト、チャーチル) (ルーズベルトは、1945年4月12日の昼食前に脳卒中で死去し、副大統領ハリー・S・トルーマンが大統領に昇格している。) 出典:Wikipedia |
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ツェツィーリエンホーフ宮殿 [Schloss Cecilienhof] (11:59) 「北」MAPLay. B ![]() |
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"古城ホテル・ ツェツィーリエンホーフ" [Schlosshotel Cecilienhof] (11:59) 2000年1月から、41室の客室とスイートを備えた ホテルとして、利用してきたが、Cecilienhof 宮殿の大規模な改装工事のため、2014年1月5日に閉鎖されている。 改装工事は2018年末まで継続する予定。 「東」MAPLay. B ![]() |
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ツェツィーリエンホーフ宮殿の案内パネル 下のホテル案内図と照らし合わせると、宮殿の約半分をホテルが占めている事が分かる。 東ドイツ側にあった、このような、宮殿や庭園は、東西に分断されていた頃は東ドイツ政府が国で管理していたが、東西ドイツ統一後、東側にあった宮殿や庭園を元の持ち主に返還しようとしたが、プロイセン王室の末裔達は、今は一般人になっており、経済的な理由からこれを断った。 因みに、このポツダムにある3つの宮殿の庭の手入れをするだけで、ポツダムの市税が吹っ飛ぶと言われている。 今現在これらを管理しているのはプロイセン財団で、財団は2つの部門に分かれている、一つはプロイセン文化財団で、プロイセン王室が持っていた財宝、絵画、彫刻など、博物館関係の宝物を管理している。 もう一つはプロイセン宮殿と庭園財団で、プロイセン王室が所有していた宮殿や庭園の管理を担っている。 このプロイセン財団の財源の70%は国や地方自治体からの援助や個人、企業等からの寄付金によって賄われており、残りの30%は、財団が自ら捻出している。 例えば、入場料、館内販売の絵葉書やガイドブックの収入など。 その他、このツェツィーリエンホーフ宮殿のように建物を民間のホテルに貸し出し、家賃収入を財源に充てている。 |
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ツェツィーリエンホーフ宮殿の見取り図 |
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"古城ホテル・ ツェツィーリエンホーフ" [Schlosshotel Cecilienhof] (11:59) Cecilienhof 宮殿の大規模な改装工事のため、2014年1月5日に閉鎖されている。 「北北西」MAPLay. B ![]() |
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"古城ホテル・ ツェツィーリエンホーフ" [Schlosshotel Cecilienhof] (11:59) Cecilienhof 宮殿の大規模な改装工事のため、2014年1月5日に閉鎖されている。 「北北東」MAPLay. B ![]() |
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"古城ホテル・ ツェツィーリエンホーフ" [Schlosshotel Cecilienhof] (12:00) Cecilienhof 宮殿の大規模な改装工事のため、2014年1月5日に閉鎖されている。 「南西」MAPLay. B ![]() |
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"古城ホテル・ ツェツィーリエンホーフ" [Schlosshotel Cecilienhof] (12:00) Cecilienhof 宮殿の大規模な改装工事のため、2014年1月5日に閉鎖されている。 「西南西」MAPLay. B ![]() |
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ツェツィーリエンホーフ宮殿 [Schloss Cecilienhof] の中庭 (12:00) 「北西」MAPLay. B ![]() |
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ツェツィーリエンホーフ宮殿 [Schloss Cecilienhof] の中庭 (12:01) 「南西」MAPLay. B ![]() |
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ツェツィーリエンホーフ宮殿 [Schloss Cecilienhof] の中庭 (12:01) 「西南西」MAPLay. B ![]() |
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ツェツィーリエンホーフ宮殿 [Schloss Cecilienhof] の中庭 (12:01) 右手の出っ張った部屋の1階は、皇太子妃ツェツィーリエ [Cecilie] の書斎であった所、その2階は寝室になっていた。 ポツダム会談が開かれた時には、1階部分はソ連軍、2階部分はイギリス軍が執務室として使っていた。 (因みに、ポツダム会談を主催したのはソ連軍) 会談は当初ベルリンで行われる予定で、新聞もベルリン会談と報じていた。 しかし、警備に問題が有る事が分かり、急遽ポツダムで行われることになった。 当時のベルリンの街は治安が悪く、空襲で瓦礫の山になっていた。 それに対し、ポツダムのこの辺りは空襲を受けておらず、ベルリンから近く、宮殿は20世紀に入ってから建てられた新しい建物で、しかも終戦間際までツェツィーリエと6人の子供たちが暮らしていたため、電気、電話、などの近代設備が整っていた。 「西」MAPLay. B ![]() |
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ツェツィーリエンホーフ宮殿 [Schloss Cecilienhof] の中庭 (12:01) 「南西」MAPLay. B ![]() |
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ツェツィーリエンホーフ宮殿 [Schloss Cecilienhof] の中庭 (12:02) 「南西」MAPLay. B ![]() |
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ツェツィーリエンホーフ宮殿 [Schloss Cecilienhof] の中庭 (12:02) 「南南西」MAPLay. B ![]() |
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ツェツィーリエンホーフ宮殿 [Schloss Cecilienhof] の中庭 (12:02) 「南」MAPLay. B ![]() |
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ツェツィーリエンホーフ宮殿 [Schloss Cecilienhof] の裏手 (12:03) 来年 (2016年) は建立100周年記念と言うことで、今は大々的な改装工事が行われている。 中央の窓が白くなっている部屋は、嘗て王室の人が音楽室として使っていた部屋で、ポツダム会談が開かれていた期間中は、ソ連軍が応接間として使っていた。 宿泊は、各国10部屋ずつ割り当てがあったが、デレゲーション (派遣団) は各国100人程度いたので、市内に宿を借り、そこから毎日通っていた。 「南」MAPLay. B ![]() |
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ポツダム会談が行われた 会議ホール [Conference Holl] (12:05) 第二次世界大戦の概要 1939年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻で開始。 1941年、6月独ソ戦、日本は1937年に日中戦争が開始されている最中、1941年12月の真珠湾攻撃で太平洋戦争に突入し、世界戦争に拡大した。 基本的には連合国 (フランス,イギリス,アメリカ合衆国,ソビエト連邦,中国) と枢軸国 (ドイツ,イタリア,日本) の二陣営による世界戦争。 42年中頃から枢軸側の後退が始まり、43年7月にイタリア、45年5月にドイツ、8月に日本が降伏して終結した。 ポツダム会談に至るまでの概要。 第二次世界大戦が1939年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻で開始。→ 1943年11月22日から11月26日にカイロ会談が行われる。→ 1943年11月28日から12月1日かけてテヘラン会談が行われる。→ 1945年2月4日から11日にかけて、ヤルタ会談が行われる。→ 1945年2月8日に極東密約 (ヤルタ協定) が行われる。→ 1945年7月17日から8月2日にポツダム会談が行われる。 中央の吹き抜けになった部屋が、ポツダム会談が行われた 会議ホール。 その右の5つの小窓が上下2列になった部屋は皇太子ヴィルヘルムの書斎と喫煙室だった所で、会期中はイギリス軍が執務室として使っていた。 その右の出窓のある部屋はヴィルヘルムの読書室だった所で、アメリカ軍が執務室として使っていた。 (↓) 「西南西」MAPLay. B ![]() |
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ポツダム会議中の使用領域 (1階)![]() ![]() ![]() ![]() |
ポツダム会議中の使用領域 (2階)![]() ![]() |
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イベントカレンダー [VERANSTALTUNGSKALENDER] (12:20) イベントカレンダーに載っていた、ポツダムのビッグスリー&外相達。 |
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1945年7月17日から8月2日に行われたポツダム会談の出席者 ポツダムに集まった3ヶ国首脳。前列左から 英:アトリー*1、米:トルーマン*2、ソ連:スターリン。 後列左から唯一人原爆投下に反対した リーヒ米国参謀長、ベヴィン英外相、バーンズ米国務長官、モロトフソ連外務人民委員。 *1 アトリーは会談の途中チャーチルの後を引き継いでいる。 イギリスは総選挙を控えていたため、このポツダム会談には保守党のチャーチルと労働党のアトリーも次席として参加していた。 1945年7月5日に投票が行われ、26日に開票が行われた結果、保守党が大敗したためチャーチルは7月25日に帰国、翌26日に内閣総辞職した、大勝した労働党のアトリーはイギリス首脳としてポツダム会議を引き継いだ。 *2 第二次世界大戦の連合国三大国の首脳会談が行われるのはこれで3度目で、最後となったこの会談にはアメリカのルーズベルト大統領は出席できなかった。 ルーズベルトは、1945年4月12日の昼食前に脳卒中で死去し、当時、副大統領であったハリー・S・トルーマンが大統領に昇格していた。 写真出典:Wikimedia Commons |
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昼食のレストラン (中華料理店) (13:21) 嘉楽 (からく) Jolly アジア・料理 [ASIAN CUISINE] 「西」MAPLay. B ![]() |
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嘉楽 Jolly (13:21) 「西」MAPLay. B ![]() |
嘉楽 Jolly (13:24) MAPLay. B ![]() |
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嘉楽 Jolly (13:25) MAPLay. B ![]() |
嘉楽 Jolly (13:59) MAP Lay. B ![]() |
ブランデンブルク門 [Brandenburger Tor] ベルリンはかつて星型要塞に囲まれた城郭都市だったが、市街地の要塞外への拡大と要塞の軍事的価値の減少に伴い、1734年にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は要塞の廃止を命じた。 その代わりに市街地全体を大きく取り囲むようにベルリン税関壁が設けられた (↓) 。 ベルリンから各地に向かう街道と壁が交差するところには、14か所 (のちに18か所に増える) の関税門が設けられ、ベルリンを出入りする物資に関税を課していた。 ブランデンブルク門も関税門のひとつであった。 1868年からの税関壁の取り壊しとともに門も多くが姿を消していく中、ブランデンブルク門は残された。 ベルリンの街は、1920年に周りの街々を統合して現在の街の大きさとほぼ同じ大きさの "大ベルリン" になった。 ![]() |
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星型要塞に囲まれたベルリン (1688年) | 税関壁 (赤線) が設けられたベルリン (1855年頃) ベルリンから各地に向かう街道と壁が交差するところには、14か所(のちに18か所に増える)の関税門が設けられ、ベルリンを出入りする物資に関税を課していた。 |
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ブランデンブルグ門の名の由来 (14:33) 関税門の名前は、「ハンブルク門」「シレジア門」「ポツダム門」「アンハルト門」など、街道の先にある都市や地方の名前から取られており、ブランデンブルク門の場合はホーエンツォレルン家 (ブランデンブルク辺境伯から、プロイセンの地を得てプロイセン王国の王、ドイツ帝国の皇帝となった) がベルリンに遷都するまで、ブランデンブルク辺境伯国の首都だった ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル [Brandenburg an der Havel] (MAP) に通ずる道を監理する役割を担っていたことから名づけられた。 「南」MAPLay. C ![]() |
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ティーアガルテン内のソビエト戦争記念碑 [Sowjetisches Ehrenmal im Tiergarten] (1983年頃) ブランデンブルグ門から400m東側の6月17日通りに面した所にある。 (MAP) この施設は、第二次世界大戦で亡くなった赤軍 (ソ連) 兵士への賛美と慰霊のために1945年に建設された。 当初、この記念碑は西ベルリンのイギリス軍占領地域にあったが、ソビエト兵士によって守られていた。 1961年にベルリンの壁が築かれてからは閉鎖され、イギリスの占領軍が保管管理していた。 1994年に軍隊が撤退するまでは、ソビエト・ロシア軍の衛兵がいた。 その後、施設はベルリンに引き渡されたが、二国間協定でドイツとロシア連邦との間で、戦争墓地などの維持管理を約束している。 因みに、道沿いに2台の戦車が飾られているのは、第二次世界対戦の際ベルリンに一番乗りしたソ連軍の戦車。 また、建物の上にはレフ・ケルベルによる赤軍兵士の像が飾られている。 写真出典:Wikimedia Commons |
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ブランデンブルク門 [Brandenburger Tor] (14:34) ブランデンブルク門はフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により建築家カール・ゴットハルト・ラングハンス [Carl Gotthard Langhans] によって古代ギリシャ風で設計され、1788年から3年間の建設工事を経て1791年8月6日に竣工した。 門の上には、1793年、彫刻家ヨハン・ゴットフリート・シャドウ [Johann Gottfried Schadow] が制作した四頭立ての馬車 (クアドリガ) に乗った勝利の女神ヴィクトリアの像が乗せられた。 完成直後にナポレオン・ボナパルトによりベルリンは征服されブランデンブルク門はナポレオンのパレードの舞台と化し、1806年12月ヴィクトリア像はフランスへ戦利品として持ち去られた。 その後のナポレオン戦争によりプロイセン軍がパリを占領すると、1814年、陸軍元帥ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルが取り返し、ヴィクトリア像は再度ベルリンに持ち帰られ門の上に戻された。 門は戦勝と凱旋のシンボルとなり、門のあるカレ広場 [Quarré] (四角形広場の意) はパリ広場に改名され、ヴィクトリアの持つ杖にはオリーブのリース [Wreath] に替わり勝利を記念して鉄十字紋章が取り付けられた。 しかし、第二次世界大戦後の東西ドイツ時代は、東ドイツ側に位置していたブランデンブルグ門のヴィクトリアの杖の鉄十字紋章は取り除かれていた。 鉄十字紋章が戻ったのは東西ドイツの統一が成された1990年以後になる。 現在、門の前は大使館やホテル・アドロン [HOTEL ADLON] など、主要な建物が建ち並び、ベルリンの中心地となっている。 因みに、女神ヴィクトリア像はベルリンの中心地を向いて立っている。 「西」MAPLay. C ![]() |
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ベルリンへのナポレオン1世の参入1806年10月27日 写真出典:Wikimedia Commons |
1961年8月14日、東西ベルリン時代 ヴィクトリアの持つ杖から鉄十字紋章が取り除かれている。 西ベルリン側からの写真。 写真出典:Wikimedia Commons |
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ベルリンの壁建設(1961年秋) 壁の左側は東ベルリン、右側が西ベルリン。 写真出典:Wikimedia Commons |
現在の四頭立ての馬車 (クアドリガ) ヴィクトリアの持つ杖には勝利を記念した鉄十字紋章が取り付けられている。 写真出典:Wikimedia Commons |
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ホテル アドロン ケンピンスキー [Hotel Adlon Kempinski] (14:38) オリジナルホテル・アドロンは1907年 (明治40年) にオープンし、1932年 (昭和7年) 製作のアメリカ合衆国映画グランドホテル*[Grand Hotel] はホテル・アドロンに着想を得た映画と言われている。 第二次世界大戦の終結の1945年に大規模に破壊され、 破壊を免れた一部の建物で1984年まで営業は続けられたが、1984年3月10日に建物は全て取り壊された。 その後、1995年から1997年の間に新しいホテルが建設され、現在のホテルがオープンしたのは1997年8月23日。 日本からは、小渕前首相、2011年には皇太子殿下が宿泊している。 アメリカからは、クリントン大統領、ブッシュ大統領が、イギリスからは、エリザベス女王が宿泊している。 2002年、マイケル・ジャクソンが、赤ちゃんをファンに見せようと、ホテルの5階の窓から子供を持ち上げ、手すりの外側まで手を伸ばした時、子供が腕から落ちそうになって、顰蹙を買った当のホテルとしても知られている。 (YouTube) 「東南東」MAPLay. C ![]() ![]() * グランドホテル [Grand Hotel] とは、欧米では規模が大きく、伝統的な建築様式で建てられた高級ホテルに対して用いられる。 しかし日本においては、一般クラスのホテルでも「グランドホテル」という名称を用いているものが少なくない。 |
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パリ広場 [Pariser Platz] (14:39) 右側の2本の旗が掲げられた白い建物はフランス大使館 [Französische Botschaft] 。 その他、この広場の南側には、アメリカ大使館、ロシア大使館、イギリス大使館もある。 「北北西」MAPLay. C ![]() |
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パリ広場 [Pariser Platz] (14:40) パリ広場は、嘗て、カレ広場 [Quarré] (四角形広場の意) と呼ばれていたが、ナポレオン戦争によりプロイセン軍が勝利し、ナポレオンによって持ち去られていたヴィクトリア像が、1814年ベルリンに持ち帰られ、再び門の上に据えられた。 門は戦勝と凱旋のシンボルとなり、門のあるカレ広場 [Quarré] は勝利を記念し、パリ広場と改名された。 「西」MAPLay. C ![]() |
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パリ広場 [Pariser Platz] (14:40) 「西」MAPLay. C ![]() |
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ブランデンブルク門 [Brandenburger Tor] (14:42) 「北西」MAPLay. C ![]() |
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ブランデンブルク門 [Brandenburger Tor] (14:42) 「西」MAPLay. C ![]() |
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ブランデンブルク門 [Brandenburger Tor] (14:43) 「北東」MAPLay. C ![]() |
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エーベルト通り [Ebertstraße] (14:43) 中央に見えるのは国会議事堂。 「北北西」MAPLay. C ![]() |
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国会議事堂 [Reichstagsgebäude] (14:45) 1894年から帝政ドイツ、ヴァイマル共和国を通じて下院の議事堂として使われていたが、1933年に不審火によって炎上した。 ナチス・ドイツ時代、国会はほとんど開かれず、全焼した国会議事堂の修復はまったく行われなかった。 第二次世界大戦中、半ば崩れた国会議事堂は1943年のベルリン大空襲の被害を受け、1945年のベルリン市街戦では、武装親衛隊の強力な抵抗拠点の一つとなっていたため赤軍の主要な攻撃目標とされ、さらに徹底的に破壊された。 国会議事堂の屋根にソ連兵がソ連国旗を掲げる写真は、ベルリン陥落を象徴するよく知られた一枚になっている。 戦後は西ベルリンの歴史博物館として使われていたが、東西ドイツが統一されてからは再び議事堂として使用されることが決まった。 1999年に建物は修復され、2002年の秋からドイツ連邦議会の議事堂として使われている。 (↓) 「北西」MAPLay. C ![]() |
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1933年の不審火による火災 | 破壊された国会議事堂 (1945年6月3日撮影) |
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ソ連兵がソ連国旗を掲げる写真 | ソ連兵の落書きだらけの内部 |
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国会議事堂 [Reichstagsgebäude] (14:45) 道路に "ベルリンの壁" の痕を示す、2列の敷石が残されている (↓) 。 2列の敷石のあるところは、西ベルリン側から見ると前壁にあたり、前壁と東ベルリン側の後背地の壁との間は "死の地帯" [英:Death strip] になっていた。 ブランデンブルク門は、"死の地帯" [独:Todesstreifen] に位置していたため、東西どちらからも一般人は近づけなかった。 「北西」MAPLay. C ![]() |
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2列の敷石 この敷石は、壁のあった位置を示すのみで、壁厚は示していない。 ブランデンブルク門付近の壁厚は約3mあった。 他の場所では、15~30cmが一般的。 |
2列の敷石 出典:Google Street View |
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実際の写真 ①前面の壁、自動車バリア、コントロール・ストリップ、巡回路、照明 ②こぶ障壁 ③トゲのあるマット ④信号フェンス 1945年以降の冷戦下でドイツは東西陣営に分裂していたが、往来が自由であったベルリン市内の境界線を経由して東側から西側への人口流出が続き、東ドイツに深刻な影響を及ぼした。 東ドイツは自国の体制を守るべく、1961年8月13日、突如として東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、西ベルリンの周囲をすべて有刺鉄線で隔離、のちにブロック壁、コンクリート壁へと強化されていった。 出典:Wikimedia |
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ベルリンの壁 街を東と西に分けた、悪名高い "デス・ストリップ" (地雷原、監視塔、コンクリートの壁、有刺鉄線) が何マイルにもわたり街中を蛇行していく様子をビデオは示している。 青線は前面の壁、赤線は後背地の壁を示している。 出典:YouTube |
ベルリンの壁 赤線は前面壁のみを示している。 出典:YouTube |
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ブランデンブルク門 [Brandenburger Tor] (14:47) ベルリンの壁があった時代、ここは "死の地帯" [独:Todesstreifen] になっていた。 「南」MAPLay. C ![]() |
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ブランデンブルク門 [Brandenburger Tor] (14:48) 「南南東」MAPLay. C ![]() |
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ブランデンブルク門の門柱 (14:48) 門柱のニッチ [Niche] には、ヨハン・ゴットフリート・シャドウ [Johann Gottfried Schadow] 作、女神ミネルウァ [Minerva] 像 (1792年) のレプリカ (1951年) が飾られている。 「南南東」MAPLay. C ![]() |
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パリ広場 [Pariser Platz] (14:49) 中央の緑の屋根の建物は、ホテル アドロン ケンピンスキー [Hotel Adlon Kempinski] 、その右のガラス張りの建物は芸術アカデミー、右端のアメリカ国旗が掲揚されている建物はアメリカ大使館。 「東南東」MAPLay. C ![]() |
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ブランデンブルク門 [Brandenburger Tor] (14:49) 現在の門の上には、四頭立ての馬車 (クアドリガ)が据えられており、ヴィクトリアの持つ杖には勝利を記念した鉄十字紋章が取り付けられている。 これらの像は、ベルリンの中心に向かって立っている。 「南西」MAPLay. C ![]() |
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パリ広場 [Pariser Platz] (14:50) 中央の緑の屋根の建物は、ホテル アドロン ケンピンスキー [Hotel Adlon Kempinski] 、その右のガラス張りの建物は芸術アカデミー、右端のアメリカ国旗が掲揚されている建物はアメリカ大使館。 「南東」MAPLay. C ![]() |
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パリ広場 [Pariser Platz] (14:52) フランス大使館前から見るブランデンブルグ門。 写真の左端にアメリカ国旗が掲揚されている建物はアメリカ大使館。 「南西」MAPLay. C ![]() |
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パリ広場 [Pariser Platz] (14:53) 前を横切る道路から向こうがパリ広場で、手前はウンターデンリンデン通り [Unter den Linden] 。 写真の右上に写っている樹木は菩提樹 [Linden] で、菩提樹の下を意味する "Unter den Linden" から、この通りの名前が付けられている。 因みに、"梓みちよ"の歌に〖リンデンバウム [LINDENBAUM] の歌〗がある。 ドイツ語で、"Linden" は菩提樹 (セイヨウシナノキ) を、"Baum" は木を意味する。 「西」MAPLay. C ![]() ![]() |
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ホロコースト [Holocaust] 記念碑 (15:01) ホロコーストとは、ナチス・ドイツが組織的に行った大量虐殺を指す。 (車窓から) 「北西」MAPLay. C ![]() |
ホロコースト [Holocaust] 記念碑 (15:02) ヒットラー総統官邸の跡地に造られている。 (車窓から) 「北北西」MAPLay. C ![]() |
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虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑 (車窓から) (15:02) [Denkmal für die ermordeten Juden Europas] 「優生学」や「優生政策」といえば、ナチス政権期ドイツにおけるユダヤ人の迫害や障害者の安楽死などがまず想起されるが、程度の差こそあれ、アメリカや日本、北欧の福祉国家でも数々の優生政策が実施されていた。 ドイツでは、ナチス政権期に先立つワイマール社会国家の時代から優生政策がとられ、「優生思想」を拡大させる土壌となったことが指摘されている。 「北」MAPLay. C ![]() |
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ポツダム広場[Potsdamer Platz] (15:04) 1990年以降、空っぽの広場はベルリンの中心部からすぐという魅力的な場所のため、注目を集めた。 ベルリン市はこの地域を4分割し、それぞれを開発するデベロッパーに売却した。 4つの地区のうち最大のものはダイムラー・ベンツが担当したダイムラー・シティ。 2番目に広い地区はソニーが担当し、ヨーロッパ本社を建設した。 ↗ 「西」MAPLay. C ![]() |
ポツダム広場[Potsdamer Platz] (15:04) → ソニーセンターには、戦前のベルリンを代表するホテル「エスプラナーデ」に残されていたカイザーザール(皇帝の間)を取り込むかたちで保存しており、レストランとして利用されている。 1901年にドイツで初めて信号機が設置されたのもポツダム広場の交差点で、それ程、交通量が多かった事が窺える。 「南西」MAPLay. C ![]() |
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ポツダム広場 [Potsdamer Platz] (15:04) 嘗て、ベルリンの市街地全体を大きく取り囲むように税関壁が設けられていた。 ベルリン市街地から各地に向かう関税門 (税関壁に設けられた門) は、14か所 (のちに18か所に増える) 設けられ、物資に関税を課していた。 それぞれの門には、行先の主要都市名が付けられていた。 1868年からの税関壁の取り壊しに伴って、多くの関税門が姿を消し、その中の1つにポツダムに通ずるポツダム門 [POTSDAMER THOR] があった。 ポツダム広場は、嘗て、ポツダム門があった場所を記念して造られている。 (関連) 「西」MAP Lay. C ![]() |
テロのトポグラフィー [Topographie des Terrors] (テロリズムの系譜) 1933年から1945年までの統治期間中のドイツの国家社会主義時代のテロの記録と処理のために、1987年以来ベルリンで存在しているプロジェクト。 嘗て、この地域はナチス政権下の重要な機関の本部が集中し、まさに恐怖政治の発信源であった。 当時ナチスのゲシュタポ (秘密国家警察) 、SS (ナチス親衛隊) 、SD (親衛隊情報部) の本部があり、かつての建物は、敗戦後取り壊され、今では残っていないが、東西ドイツ統一後に跡地の発掘調査が行われた際、ゲシュタポ本部の地下牢の一部が発見され、屋外展示場として利用されている。 ![]() |
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マルティン・グロピウス・バウ [Gropius-Bau] (15:08) この建物は、1877年から1881年にかけて、ウォルターグロピウスの大叔父であるマーティングロピウスと、ネオルネサンス様式のハイノシュミーデンによって建築された。 元々はベルリンの応用美術館を収容するために設計され、第一次世界大戦後、ベルリンの先史および初期史博物館と東アジア美術館コレクションが収容された。 第二次世界大戦の最後の週に1945年にひどく損傷し、1978年に戦後の復興が始まった後、1981年に再開された。 1998/ 1999年に更なる改修が行われ、ドイツで最も美しい歴史的展示館になっている。 「東南東」MAPLay. C ![]() |
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ベルリン市 (州) 議会議事堂 [Abgeordnetenhaus von Berlin] (15:08) 19世紀にプロシア州議会として造られた建物。 第二次世界大戦の時にはヒトラー・ユーゲント [Hitlerjugend] (ナチスの青少年隊) の本部になっていた。 今は、ベルリン州 (市) 議会が入っている。 (ベルリンは都市州) 「北」MAPLay. C ![]() |
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マルティン・グロピウス・バウ [Gropius-Bau] (15:09) 「東」MAPLay. C ![]() |
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マルティン・グロピウス・バウ [Gropius-Bau] (15:09) この建物は、1877年から1881年にかけて、ウォルターグロピウスの大叔父であるマーティングロピウスと、ネオルネサンス様式のハイノシュミーデンによって建築された。 元々はベルリンの応用美術館を収容するために設計され、第一次世界大戦後、ベルリンの先史および初期史博物館と東アジア美術館コレクションが収容された。 第二次世界大戦の最後の週に1945年にひどく損傷し、1978年に戦後の復興が始まった後、1981年に再開された。 1998/ 1999年に更なる改修が行われ、ドイツで最も美しい歴史的展示館になっている。 「南南東」MAPLay. C ![]() |
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連邦財務省 [Bundesministerium der Finanzen] (15:10) 左手の薄グレー色の建物は、建築家エルンスト・セージビールの計画の後、1935/1936年の国家社会主義の時代に建設され、1945年の終戦までドイツ航空省(RLM)の所在地であった。 ドイツで初めて地下駐車が造られた建物でもある。 今は連邦財務省として使用されている。 「東北東」MAPLay. C ![]() |
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ベルリンの壁があった場所 (15:10) この辺りの壁の厚さは、下が15cmで上が10cm、高さは3.7m程度、ブランデンブルク門の近くの壁の厚さは3m前後あった。 壁の左側は旧東ドイツで、左の道路のあるところは、"死の地帯" [英:Death strip] になっていた。 「東北東」MAPLay. C ![]() |
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ベルリンの壁があった場所 (15:11) 〖ベルリンの壁 1961 - 1989〗 とプレートに刻まれている。 1949年の東西ドイツ分裂後の冷戦下で、当初、往来が自由であったベルリン市内の境界線を経由して東側から西側への人口流出が続き、東ドイツに深刻な影響を及ぼした。 東ドイツは自国の体制を守るべく、1961年8月13日、突如として東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、西ベルリンの周囲をすべて有刺鉄線で隔離、のちにコンクリートの壁を造った。 「北北西」MAPLay. C ![]() |
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テロのトポグラフィー [Topographie des Terrors] (15:11) ベルリンの壁に隣接して、ナチス・ドイツが統治した時代 (1933-1945) のテロの記録が展示されているが、ベルリンに壁が設置されたのは、ナチス・ドイツの敗戦後、ソ連 (旧東ドイツ) が1961年に造ったもので、ナチスのテロとは直接関係がない事に注意。 「北東」MAPLay. C ![]() |
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テロのトポグラフィー [Topographie des Terrors] (15:14) 嘗てのゲシュタポ本部の地下牢の一部が屋外展示場として利用されている。 「東」MAPLay. C ![]() |
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テロのトポグラフィー [Topographie des Terrors] (15:14) 「北東」MAPLay. C ![]() |
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ベルリンの壁とテロのトポグラフィー (15:15) 旧西ベルリン側から見るベルリンの壁。 西ベルリン側からは、壁に接する所まで近づけたが、東ドイツ側からは手前に "死の地帯" [英:Death strip] があり、近づくことは出来なかった。 「東北東」MAPLay. C ![]() |
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テロのトポグラフィー [Topographie des Terrors] (15:15) 嘗てのゲシュタポ本部の地下牢の一部が屋外展示場として利用されている。 「東北東」MAPLay. C ![]() |
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テロのトポグラフィー [Topographie des Terrors] (15:17) 嘗てのゲシュタポ本部の地下牢の一部が屋外展示場として利用されている。 「北」MAPLay. C ![]() |
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テロのトポグラフィー [Topographie des Terrors] (15:17) 嘗てのゲシュタポ本部の地下牢の一部が屋外展示場として利用されている。 「北西」MAPLay. C ![]() |
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テロのトポグラフィー [Topographie des Terrors] (15:17) 「東」MAPLay. C ![]() |
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ベルリンの壁 (15:19) この辺りの壁の厚さは、下が15cmで上が10cm、高さは3.7m程度、横から見ればブロック塀と変わらない程の厚さだが、車の体当たり突破で西側への亡命を防ために、主要な場所では、自動車に対するバリアが設けられていた。 また、人が壁を乗り越え亡命するのを防ぐため、壁の上には半円筒形の土管のような物を被せて、手掛かりを無くしていた。 壁の左は東ベルリン、右は西ベルリンであった。 (関連) 「東」MAPLay. C ![]() |
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ベルリンの壁 (15:19) この壁は、オリジナルで当時のまま保存されている。 東ベルリン側からの眺め。 この道路は、嘗て "死の地帯" [英:Death strip] であった。 1961年8月13日、西ベルリンが完全に隔離された当初は壁ではなく、コンクリートの支柱に有刺鉄線を張り巡らしたフェンスだった。 その数日後からコンクリート・ブロックで壁が築かれ始め、ベルリンで最も複雑に入り組んだ中心部には、ほぼ1年で長さ約12キロの壁が建設された。 当初、ベルリンの壁があったのは、脱出者が隠れやすい市街地のみで、西ベルリンを囲む残り137.5キロは田園地帯・牧草地帯・森林地帯・湖沼が多く、巻いた有刺鉄線の仕切りが二列に並べられた。 その後,監視塔と銃座,地雷に守られた有刺鉄線付きのコンクリート壁 (高さ最大5メートル) に取り替えられた。 1980年代までに,壁と電流フェンス,堡塁による障壁は 45キロに及び、東西ベルリンを分断、その後さら西ベルリンと東ドイツの国境線に、120キロに及ぶコンクリート壁が築かれ、西ベルリンは東ドイツに完全に囲まれた陸の孤島になった。 「東」MAPLay. C ![]() |
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ベルリンの壁 (15:19) 1961年8月13日、西ベルリンが完全に隔離された当初は壁ではなく、コンクリートの支柱に有刺鉄線を張り巡らしたフェンスだったが、その数日後からコンクリート・ブロックで壁が築かれ始めた。 1965年頃には鉄骨でコンクリート・パネル (ブロック) を支える方法でコンクリート壁が造られ、1975年から1980年には鉄筋コンクリート製の一体壁が造られるようになった。 「東」MAPLay. C ![]() |
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テロのトポグラフィー [Topographie des Terrors] (15:20) 左の道路は、嘗て東ベルリン側で "死の地帯" [英:Death strip] であった場所。 このような市街地では道路が "死の地帯" になっている場合が多く、郊外では70m以上も幅が取られていた。 「東」MAPLay. C ![]() |
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US ARMY CHECKPOINT (アメリカ陸軍検問所) (15:36) チェックポイント・チャーリー [Checkpoint Charlie] と呼ばれていた国境検問所で、第二次世界大戦後の冷戦期においてドイツ・ベルリンが東西に分断されていた時代に、同市内の東ベルリンと西ベルリンの境界線上に置かれていた。 1945年から1990年まで存在し、ベルリンの壁と並ぶ東西分断の象徴として、また一部の東ドイツ市民にとっては自由への窓口として、冷戦のシンボルのように捉えられていた。 ジョン・ル・カレなどのスパイ小説や映画にもたびたび登場している。 (↓) 尚、「チェックポイント・チャーリー」という名称は西側諸国による呼称で、NATOフォネティックコードの「C」に当てられる "Charlie" から取られたもの。 「北西」MAPLay. C ![]() ![]() |
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旧西ベルリン側からの写真 通りの真ん中に立てられているのは、ソ連兵の写真で、裏側にはアメリカ兵の写真がある。 前方の横に走る道路の向こう側は、東ベルリン、手前が西ベルリンになる。 写真出典:Google Street View |
旧東ベルリン側からの写真 因みに、ここに立っている軍服姿の人は、兵士に扮した役者さんで、一緒に写真を撮ると2ユーロ請求される。 写真出典:Google Street View |
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ハンス・コンラート・シューマン [Hans Conrad Schumann] 1961年8月15日に人民軍兵士コンラート・シューマンはルピン通りとベルナウ通りが交わる地点 (MAP) の国境線で逃亡を企てる者を阻止する任務についていたが、反対側の西側の多くの人々が見ている前で有刺鉄線を飛び越えて西へ逃れた。 この兵士が有刺鉄線を飛び越えた瞬間の写真はその後『自由への飛翔』として有名なものとなった。 因みに、東ベルリンから西ベルリンへの逃亡で亡くなった方は100名強、ドイツ全体では約1000名だったと言われている。 東西統一後、統計を取ってみたところ、成功率は90%であったと言われている。 初期の頃は有刺鉄線のみであったため、比較的容易だったと考えられる。 出典:Wikipedia |
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ドイツ大聖堂 [Deutscher Dom] (車窓から) (15:39) ドイツの大聖堂は、フランス大聖堂とシャウシュピールハウス [Schauspielhaus] とともに、ベルリンで最も美しい広場のひとつ、ジャンダルメンマルクト [Gendarmenmarkt] にある3つの部分からなる建物のアンサンブルを形成している。 建物には教会の機能がなかったため、「Dom」という名前は混乱を招く。 この用語は、ドームのある建築形態を指しているに過ぎない。 ドイツ大聖堂は、バロック様式のマルティン・グリュンベルク [Martin Grünberg] の設計に従って、1701年から1708年に建てられた。 ほぼ80年後、ドイツ大聖堂は老朽化のために取り壊され、ネオバロック様式で再建された。 第二次世界大戦中、ドイツ大聖堂は大きく破壊されたが、1982年から1996年の間に再建され、2002年以来、ドイツ連邦議会の展示会場として使用されている。 「東北東」MAPLay. C ![]() |
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コンサートホール (車窓から) (15:40) 写真の右側に見えている建物の一部はコンサートホールで、もともとは18世紀にフランスのコメディハウスとしてフレデリック大王の要請で建てられた劇場であった。 19世紀初頭、ブランデンブルク門の設計も手がけた、建築家のカール・ゴッタルド・ランハンス [Carl Gotthard Langhans] が計画した場所に、より装飾的な新しい劇場が建設された。 しかし、ランハンスの新しい劇場は、わずか15年で火災に遭い、その後1821年にベルリンで最も有名な建築家カール・フリードリッヒ・シンケル [Karl Friedrich Schinkel] によってシャウシュピールハウス [Schauspielhaus Berlin] の名で劇場として再建れた。 第二次世界大戦で劇場は破壊されたが1984年に再建され、1994年以降はコンサートホール [Konzerthau Berlin] として使用されている。 「東」MAPLay. C ![]() |
フランス大聖堂 (車窓から) (15:40) ジャンダルメンマルクト広場内にある大きな教会のひとつが、フランス大聖堂。 フランス大聖堂は1705年に完成し教会だが、第2次世界大戦で崩壊し、1987年に復元された。 特徴的なドーム状の屋根のあるフランス大聖堂は、コンサート・ハウスを挟んで対面にあるドイツ大聖堂と対称となっている。 1701年、当時ベルリンの人口の25%を占めていたユグノー (カルヴァン派) のための教会として建設が始まった。 当時、フランスのユグノーは、プロテスタントの信仰の自由と政治的平等を定めたナントの勅令が1685年に廃止され、迫害を受けるようになったことから、ベルリンに亡命してきていた。 1817年、ルター派とカルヴァン派の統合を目指したフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の命により合同教会が成立し、フランス大聖堂も合同教会に所属を改めたが、実際にはカルヴァン派の教義や儀礼を継続することが尊重された。 現在、大聖堂内にはユグノー博物館が設置されている。 「東」MAPLay. C ![]() |
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ベルリン王宮 [Berliner Stadtschloss] (車窓から) (15:46) 城の橋 [Schloßbrücke] から見るベルリン王宮。 ベルリン王宮は、かつてドイツの首都ベルリンの中心部にあった宮殿。 1701年からはプロイセン王国国王の、1871年からはドイツ帝国皇帝の居城であった。 1918年のドイツ革命で君主制が滅びて以来、王宮は博物館として利用されてきたが、1945年の英米軍の空襲で焼失し、その廃墟は1950年にドイツ民主共和国 (東ドイツ) 政府によって取り壊された。 しかしドイツ再統一以来ベルリン王宮の再建が提案され続け、2013年から再建工事が本格的に始まった。 王宮の外観を復元した新しい複合文化施設の名称は、「フンボルト・フォーラム」[Humboldtforum] となる予定。 フンボルト・フォーラムは、アレクサンダーとヴィルヘルム・フォン・フンボルトにちなんで命名されている。 (1920年代の王宮) 「東南東」MAPLay. C ![]() ![]() |
ベルリン大聖堂 [Berliner Dom] 博物館群のあるシュプレー川の中州にあるベルリン大聖堂はプロイセン王やドイツ皇帝を輩出したホーエンツォレルン王家の記念教会でその起源は1465年。 地下には 400 年間のプロイセンとブランデンブルクの歴史上の 94の王族の墓、ホーエンツォレルン家の墓地がある。 この教会をヴィルヘルム2世の指示により ジュリアス・カール・ラシュドルフ [Julius Carl Raschdorff] の設計で1893〜1905年にルネサンスとバロックの融合した様式で建て替えられ、現在の形になっている。 その後第2次大戦で連合軍に破壊され1993年から復元、改築、修復が始まり完成したのは2002年で、高さ114m、幅73mのターコイズブルーの巨大なドームを持ち、その天蓋には聖書の「山上の説教」のモザイク画が描かれている。 270段の階段を上りモザイク画を間近に見ながら天蓋の外へ出るとベルリンの町を一望でき、また7000のパイプを持つドイツ国内最古のパイプオルガンが礼拝の時だけでなくコンサートでもその音色を響かせている。 この大聖堂は、1608年以来ルター派の礼拝が行われている。 ![]() |
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ベルリン大聖堂 [Berliner Dom] (15:51) 右手に見える再建中の建物はベルリン王宮 [Berliner Stadtschloss] で、ベルリン大聖堂は王宮に付属する宮廷教会として建てられた。 地下には、約100体のホーエンツォレルン王家一族の霊廟がある。 「東」MAPLay. C ![]() |
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ベルリン大聖堂 [Berliner Dom] (15:52) 嘗て、宮廷教会は、宮殿の南側に隣接していたが、ヴィルヘルム2世の指示により ジュリアス・カール・ラシュドルフ [Julius Carl Raschdorff] の設計で1893〜1905年にルネサンスとバロックの融合した様式で、現在の場所に建て替えられた。 (↓) 「東北東」MAPLay. C ![]() |
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1688年の地図![]() ![]() 地図出典:Wikimedia Commons |
2019年の地図![]() ![]() 地図出典:Googleマップ |
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ベルリン大聖堂 [Berliner Dom] (15:52) 「東北東」MAPLay. C ![]() |
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ベルリン大聖堂 [Berliner Dom] (15:52) 「東北東」MAPLay. C ![]() |
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旧博物館 [Altes Museum] (15:53) 博物館島に建てられた最初の博物館で、もともとはプロイセン王国の王室コレクションの収蔵と展示が目的で、建築家カルル・フリードリッヒ・シンケルの設計をもとに1823年から1830年にかけて新古典主義様式で建設された傑作。 第2次世界大戦で破壊されたが、1966年に再建され、以来、ベルリン国立博物館群のなかでもアンティーク・コレクション [Antikensammlung Berlin] を専門として収蔵している。 正面は18本の円柱が並んだ長さ87mの柱廊になっている。 1845年まで王立博物館 [Königliches Museum] と呼ばれていたこの歴史的に由緒ある建物は、新古典主義様式建造物のなかでも最も評価されているものの一つで、シンケルの代表作とされている。 1999年には博物館島のその他の歴史的建造物とともに、ユネスコの世界遺産に登録されている。 「北北西」MAPLay. C ![]() |
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旧博物館 [Altes Museum] (15:54) 「北北西」MAPLay. C ![]() |
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ルストガルテンの噴水 [Springbrunnen im Lustgarten] (15:55) 「東北東」MAPLay. C ![]() |
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旧博物館 [Altes Museum] (15:56) ドイツの彫刻家アウグスト・キス [August Kiß] によるブロンズ彫刻、"馬に乗ったアマゾン" [Amazone zu Pferde] 。 (1842年作) 「北」MAPLay. C ![]() |
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新博物館 [Neues Museum] (15:58) ペルガモン博物館へ行く途中、ボーデン通り [Bodestraße] から見た "新博物館" [Neues Museum] 。 新博物館内には現在、エジプト博物館と先史博物館が入っている。 「西北西」MAPLay. C ![]() |
ペルガモン博物館 [Pergamonmuseum] 博物館島は、ベルリン市内を流れるシュプレー川の中洲であり、かつての東ベルリンに位置する。中洲の北半分にペルガモン博物館のほか、ボーデ博物館 [Bodemuseum] 、旧国立美術館 [Alte Nationalgalerie] 、旧博物館 [Alte Museum] 、新博物館 [Neue Museum] の計5館の国立博物館が集中している。 この地は19世紀半ば、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世によって「芸術と科学のための地域」に定められたものである。 ペルガモン博物館は、壮大なスケールで古代都市 の一部を再現した、ドイツが 世界に誇る一大考古学博物館。 中央の扉から入ると、左翼が古代ローマ・ギリシアのコレクシヨン "Antikensammlung" 、 右翼が古代西アジア博物館 "Vorderasiatisches Museum" になつており、階上はイスラム文化の展示 "Museum für Islamische Kunst" となっている。 最大のみどころは、博物館の名称の由来にもなっているペルガモンのゼウスの大祭壇 "Pergamon-Altar" である。 古代ギリシアのペルガモン (現在はトルコ領内) (MAP) から発掘された紀元前2世紀 (紀元前180〜160年) に建てられたというゼウスの祭壇で、博物館中央に復元されている。 高さ9.66m、一辺35mもあり、台座部分のオリンポスの神々の彫刻も見ごたえ充分。 実際に祭壇の階段を上ることもできる。 新バビロニア王国 (現在はイラク領) のイシュタール門 "Ischtar Tor" (MAP) も、ネブカドネザル2世時代 (紀元前603~562年) の貴重なコレクシヨン。 これもやはり実際の市壁の北門を再現したスケールの大きい展示物。 青を基調にした釉薬塗りの石を積み建てたもので、ライオンの浮き彫りのあるデザインが特徴的だ。 その門に向かってのびる行列大通り "Prozessions Str." も再現されている。 ペルガモン博物館は、1999年ドイツの世界文化遺産として登録された「博物館島」の構成資産の一つとなっている。 因みに現在、5つの博物館を地下道で繋ぐ工事が進められており、見学できなくなっている箇所がある。 ![]() |
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ペルガモン博物館の見取り図 [Pergamon Museum floor plan] |
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0 階-Entrans Information , Audio guide 前 (16:05) MAPLay. Z ![]() |
0 階-Entrans 右 Information , 左 Cloakroom 前 (16:06) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-1 ミレトスのオルフェウスモザイク [Orpheus Mosaic from Miletus] (2世紀頃) (16:21) このモザイクの床 (正確には右上の小さいモザイク) はオルフェウスモザイクと呼ばれ、以前は小アジアのミレトス [Milet] (MAP) にあるローマの民家の食堂の一部だった。 オルフェウスのモザイクは、ローマ帝国全体、通常はローマの大きな別荘にあった。 通常描かれているのは、オルフェウス [Orpheus] が彼の琴を演奏し、彼の周りに多くの種類の鳥や動物が集まるシーンで、オルフェウスは古典芸術で人気のある主題であった。 初期キリスト教芸術でもキリストの象徴として使用されていた。 左の大きい長方形のモザイクは "Venatio" のシーンを描いたモザイク。 "Venatio" は、ローマ帝国の遠方からのエキゾチックな野生の獣がローマに連れて行かれ、剣闘士の決闘のメインイベントの前にプレイベントとして狩りが行われていた。 MAPLay. Z ![]() |
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1 階-1 ミレトスの市場門 [Market Gate of Miletus] (16:21) ミレトスの市場門 [ドイツ語:das Markttor von Milet] は、2世紀にミレトス (MAP) に建設され、10世紀または11世紀に地震で破壊された。 1900年代初頭、ドイツの考古学チームによって発掘、再建され、ベルリンのペルガモン博物館に展示されている。 破片だけが残っており、何世紀にもわたって基礎部と下階のほとんどが失われいる。 再建には、追加材料として、レンガ、セメント、鋼が含まれ、門は、その背後の壁に鉄桁で固定されている。 そのため、オリジナルとの隔たりを指摘され、博物館に対する批判が生じた (↓) 。 ゲートは第二次世界大戦で破損し、1950年代に修復された。 21世紀の最初の10年間に、さらなる修復作業が行われている。 MAPLay. Z ![]() |
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ミレトスの市場門 [Market Gate of Miletus] 再組み立て後まもないゲート。 異なる色の部分は、オリジナルに対する復元の不完全さを示唆している。 写真出典:Wikimedia Commons |
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1 階-2 トラヤヌム・ホール [Trajaneum hall] (16:22) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-1 ミレトスのオルフェウスモザイク [Orpheus Mosaic from Miletus] (2世紀頃) (16:22) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-1 ミレトスの市場門とオルフェウスモザイク (16:22) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 トラヤヌム・ホール [Trajaneum hall] (16:24) トラヤヌム [Trajaneum] は、ローマ皇帝トラヤヌスと"ゼウス・フィリオス" [Zeus Philios]* のために、ペルガモン (MAP) のアクロポリスの最高地点に建てられた寺院。 トラヤヌム・ホールでは、寺院ゆかりの美術品が展示されている。 左端の展示物は、木星ヘリオポリタヌス [Jupiter Heliopolitanus] 聖域の壁構造の一部で、エディクラ [Aedicula] の上部。 発掘地はレバノンのバールベック (MAP) で石灰岩で出来ている。 (2世紀) MAPLay. Z ![]() * ゼウスは、古代ギリシャの宗教における空と雷の神であり、オリンポス山の神々の王として君臨していた。 ゼウスは多くの神々を育て、その中に "友情の神" である "ゼウス・フィリオス" [Zeus Philios] がいた。 |
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1 階-2 トラヤヌム・ホール [Trajaneum hall] (16:24) 中央の石柱は、ミレトス、市庁舎 (ブリューテリオン) からの三脚記念碑。 元の断片の再建 (紀元前2世紀の大理石) 左端のレリーフは、花輪を運ぶエロス [Eros Carrying Garlands] 。 (大理石、西暦120-130年) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 トラヤヌム・ホール [Trajaneum hall] (16:24) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 トラヤヌム・ホールから見るミレトスの市場門 (16:25) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 トラヤヌム・ホール [Trajaneum hall] (16:25) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-9 ミレトスの市場門 (左) と トラヤヌム・ホール(右) (16:25) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-1 トラヤヌム・ホール [Trajaneum hall] (16:25) オルフェウスのモザイク 越に見るトラヤヌム・ホール。 トラヤヌム [Trajaneum] は、ローマ皇帝トラヤヌスと"ゼウス・フィリオス" [Zeus Philios]* のために、ペルガモン (MAP) のアクロポリスの最高地点に建てられた寺院。 トラヤヌム・ホールでは、寺院ゆかりの美術品が展示されている。 MAPLay. Z ![]() * ゼウスは、古代ギリシャの宗教における空と雷の神であり、オリンポス山の神々の王として君臨していた。 ゼウスは多くの神々を育て、その中に "友情の神" である "ゼウス・フィリオス" [Zeus Philios] がいた。 |
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1 階-9 バビロンのイシュタル門 [Ishtar Gate of Babylon] (16:26) 20世紀初頭に発掘されたイシュタル門は、バビロンにある8つの門の1つで、北側に位置していた (↓) 。 紀元前575年、新バビロニアのネブカドネザル2世 [Nebuchadnezzar II] により、バビロニアの女神イシュタルに捧げるため建設された。それは都市に通じる "行列大通り " [Prozessions Str.] を形成する壁の一部だった。 青い釉薬瓦で、バビロンの女神イシュタル [Ištar]* と共に、ムシュフシュ [Mušḫuššu] 、オーロックス [Aurochs] の浅浮き彫りなどが描かれている。 イシュタル門周囲の発掘をもとに、1930年代にはベルリンのペルガモン博物館にモザイクで彩られたイシュタル門の復元が完成した。 またバビロンにも門と一部モザイクのレプリカが完成したが、イラク戦争で被害にあっている。 MAPLay. Z ![]() * 女神イシュタルの聖獣はライオン。 ムシュフシュは守護神マルドゥクの聖獣。 オーロックスは嵐と雨の神ハダッド [Hadad] の聖獣。 |
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都市の構造 二重構造の城壁で囲まれており、内側の塁壁は二列に並んでいて内側の壁は厚さ6.5メートル、外側の壁は厚さ約3.5メートルで、その外には南と北にユーフラテス川から水を引いた堀があり、城門が八つあったという。 またネブカドネザル2世によって付け加えられた外側の塁壁も二列に並んでいて、内側の壁の厚さは約7メートルあった。 東部にはもう一組の二重城壁があった。 いくつかの門から市内に街路が通っていて、主要な大通りの行列道路は舗装され両側の壁は神々の象徴であるライオンや竜ムシュフシュの像で飾られた。 出典:Wikipedia |
比較のための最近の地図 出典:Googleマップ |
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1 階-9 バビロンのイシュタル門 [Ishtar Gate of Babylon] (16:26) 浅浮き彫りで描かれているのは、オーロックス [Aurochs] と ムシュフシュ [Mušḫuššu] 。 オーロックスは古代メソポタミアの宗教で嵐と雨の神だったハダッド [Hadad] の聖獣。 ムシュフシュは古代メソポタミアとバビロン市の守護神マルドゥク [Marduk] の聖獣。 (↓) MAPLay. Z ![]() |
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イスタンブール古代オリエント博物館イシュタル門のオーロックス (雄牛) 。 写真出典:Wikimedia Commons |
イスタンブール古代オリエント博物館イシュタル門のムシュフシュ・ドラゴン。 写真出典:Wikimedia Commons |
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1 階-9 バビロンのイシュタル門 (16:26) 20世紀初頭に発掘されたイシュタル門。 MAPLay. Z ![]() |
2004年のバビロンのレプリカ イラクのサダムフセインのもとで、完成していない博物館への入り口として、小さな複製のゲートが建てられた。 ゲートは1987年に完成したが、元のゲートより遥かにかに小さく、完成度も低いものであった。 尚、2003年に始まり、約10年間に及んだイラク戦争によって、大きな被害を受けている。 写真出典:Wikimedia Commons |
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1 階-9 バビロンのイシュタル門 [Ishtar Gate of Babylon] (16:26) ミレトスの市場門 [Market Gate of Miletus] MAPLay. Z ![]() |
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1 階-9 バビロンのイシュタル門 [Ishtar Gate of Babylon] (16:27) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-8 バビロンの行列式の道 [Processional Way of Babylon] (16:27) バビロンの "行列式の道" は、バビロンの外側の都市と守護神を祀る マルドゥク神殿 [Marduk Temple] を結ぶ半マイルのレンガの道で。 入り口には、イシュタルの門があり、その道には、華やかなライオンが描かれたセラミックのガラス張りのレンガの壁が並んでいた。 ネブカドネザル2世 [Nebuchadnezzar II] は、紀元前6世紀後半に彼の個人的な力とバビロニア帝国の力の象徴として門の建設を依頼した。 年に一度、イシュタル門と接続する "行列式の道" は新年の行列に使用された。 新年のお祝いは、春分の日の大麦の収穫直後に始まった。 これは、古代月の4月の1日で、今日の3月20日または21日に相当する。 (バビロン遺跡は、2019年に世界遺産に登録されている) (↓) MAPLay. Z ![]() |
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バビロン遺跡の発掘現場の写真 (1930年代) 写真出典:Wikimedia Commons |
バビロン遺跡の壁の彫刻 (1950年) Photograph: Raymond Kleboe/Getty Images |
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1 階-8 バビロンの行列式の道 [Processional Way of Babylon] (16:27) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-7 古代イランのモニュメント (16:30) 左端のレリーフは、古代イランの記念碑スピアキャリア (槍持ち) のレリーフ。 (紀元前546年-紀元前482年) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-6 バビロニアの記念碑 (16:31) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-6 バビロニアの記念碑 (16:31) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-6 バビロニアの記念碑 (16:31) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-6 バビロニアの記念碑 (16:32) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-5 ウルクとハブバ・カビラからの発見 (16:32) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-5 ウルクとハブバ・カビラからの発見 (16:32) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-5 ウルクとハブバ・カビラからの発見 (16:32) 壁際に展示されているのは、ウルクの粘土コーンモザイク。 中央のケースの中に置かれている背の高い器は、ワルカ花瓶 [Warka Vase] 。 この花瓶は、1933年から1934年にかけてウルクで行われた6回目の発掘シーズンで、ドイツのアッシリア学者によって破片のコレクションとして発見された。 MAPLay. Z ![]() |
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1 階-5 ウルクとハブバ・カビラからの発見 (16:33) 壁際に展示されているのは、ウルクの粘土コーンモザイク。 MAPLay. Z ![]() |
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1 階-5 ウルクとハブバ・カビラからの発見 (16:33) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-5 ウルクとハブバ・カビラからの発見 (16:33) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-5 ウルクとハブバ・カビラからの発見 (16:33) ウルクのイナンナ (イシュタル) 寺院のファサードの一部で、焼いたレンガのレリーフ。 交互に並んだニッチには、男性と女性の神が立っており、それぞれ地球に水を注ぎ生命を与えるための水瓶を持っている。 レンガの楔形文字の碑文は、この寺院の建物を注文した人物として、カッシート [Kassite] の支配者カラインダシュ [Karaindash] の名前に言及している。 (約 紀元前1410年) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-5 ウルクとハブバ・カビラからの発見 (16:33) イナンナ (イシュタル) 寺院のファサードのレンガ。 (ウルク、紀元前15世紀後半) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-5 ウルクとハブバ・カビラからの発見 (16:34) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-5 ウルクとハブバ・カビラからの発見 (16:34) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-4 シュメール (人、語) のモニュメント、アッシリア王の墓へのアクセス (16:34) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-4 シュメール (人、語) のモニュメント、アッシリア王の墓へのアクセス (16:35) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-3 サマルからのエサルハドンの石碑 (16:35) エサルハドンの勝利の石碑。 MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:35) サムアル [Sam'al] の門から2頭のライオン。 MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:35) サムアル [Sam'al] 要塞の内側の門からのレリーフと2頭のライオン。 (紀元前10-8世紀) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:36) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:36) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:36) 紀元前750年頃のこのライオン狩りのシーンを示すオルソスタット (二輪戦車) のレリーフは、現代トルコの南東部にあるサムアル王国 [Kingdom of Sam'al] で作成され、現代トルコの村であるSakçagözü (MAP)で発見された。 MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:36) アラム語 [Aramaic] の碑文と共に王座に座るバラキブ [Barrakib] 王の姿が石碑に描かれている。 紀元前730年頃、トルコ南部のサムアル [Sam'al] /ジンチリ [Zincirli] の城塞にある北ホールの建物から発掘。(玄武岩) 左上のアラム語の碑文は「私はパナムワの息子バラキブです」と書かれており、月の円盤の右側にあるのは「私の主人、ハランのバアル」と書かれている。 これはハラン市の月の神を指している。 MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:36) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:36) ジンシル [ZIncirli] (MAP) 、宮殿のレリーフ。 (紀元前1000-800 年頃) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:36) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:37) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:37) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:37) サマル [Sam'al] のキラムワ王子の碑文。 MAPLay. Z ![]() |
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1 階-1 ヤズルカヤの岩のレリーフ (16:37) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:38) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:39) ヒッタイトアート。 天気神ハダッド [Hadad] の巨大な像。 Sma'al / Zincirli (トルコ) (MAP) の近くのGerdshinで発見。 玄武岩。 紀元前775年。 MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:39) 中央の背中が円盤状になった石像は、玄武岩で造られたスフィンクスを模った柱のベース。 シリア国境近くのトルコ南部で発見された、紀元前800年頃 の柱の土台石。 MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:39) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:39) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:39) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:40) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:40) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:40) トルコ、ジンシルリ、サマル城のスフィンクス。 紀元前8世紀、柱の柱脚として玄武岩で造られている。 MAPLay. Z ![]() |
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1 階-2 シリア、小アジア、メソポタミアの考古学的発見 (16:40) 左の背中が円盤状になった石像は、玄武岩で造られたスフィンクスを模った柱のベース。 シリア国境近くのトルコ南部で発見された、紀元前800年頃 の柱の土台石。 MAPLay. Z ![]() |
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1 階-8 バビロンの行列式の道 [Processional Way of Babylon] (16:41) バビロンの "行列式の道" は、バビロンの外側の都市と守護神を祀る マルドゥク神殿 [Marduk Temple] を結ぶ半マイルのレンガの道で。 入り口には、イシュタルの門があり、その道には、華やかなライオンが描かれたセラミックのガラス張りのレンガの壁が並んでいた。 ネブカドネザル2世 [Nebuchadnezzar II] は、紀元前6世紀後半に彼の個人的な力とバビロニア帝国の力の象徴として門の建設を依頼した。 年に一度、イシュタル門と接続する "行列式の道" は新年の行列に使用された。 新年のお祝いは、春分の日の大麦の収穫直後に始まった。 これは、古代月の4月の1日で、今日の3月20日または21日に相当する。 (バビロン遺跡は、2019年に世界遺産に登録されている) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-8 バビロンの行列式の道 [Processional Way of Babylon] (16:41) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-12 アッシリアからの考古学的発見 (16:42) アッシリア王、セナケリブ (在位:紀元前705-681年) の統治時、アシュール神殿 (アッスル)の儀式浄化のための水盤。 アッシュール遺跡の発掘は1900年にフリードリヒ・デーリッチュによって始められ、これは1903年-1913年にかけてDeutsche Orient-Gesellschaftのチームによって継続された。 このチームは当初はロベルト・コルデウェイ [Robert Koldewey] 、後にウォルターアンドレー [Walter Andrae] によって指揮された。 MAPLay. Z ![]() |
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1 階-12 アッシリアからの考古学的発見 (16:42) 右のレリーフは、ニネベェ [Nineveh] 、セナケリブ [Senacherib] 宮殿、アッシリアの兵士。 (紀元前705-681) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-12 アッシリアからの考古学的発見 (16:42) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-12 アッシリアからの考古学的発見 (16:42) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-11 アッシリア宮殿ホール (16:43) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-11 アッシリア宮殿ホール (16:43) 左のレリーフは、歴史的なアッシリアの ヒマラヤスギ* の Cone (松ぼっくり) を運ぶ、鳥の顔をした魔神のレリーフで、紀元前850年にニムルド [Nimrud] の宮殿のために造られた。 右のレリーフは、アッシュールナツィルパル2世 [Ashurnasirpal II] 王のアッシリアのレリーフ (紀元前883-859年)。 MAPLay. Z ![]() * ヒマラヤスギ や レバノンスギは杉の名が付いているが、マツ科に属する。 |
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1 階-11 アッシリア宮殿ホール (16:44) イラクのオリジナルから鋳造された、ライオンの足を持つ5本足のラマス [Lamassu] 。 ラマスはアッシリアの守護神であり、しばしば人間の頭と鳥の羽を持ち、足はライオンまたは雄牛の足として表現されている。 MAPLay. Z ![]() |
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1 階-11 アッシリア宮殿ホール (16:45) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-12 アッシリアからの考古学的発見 (16:45) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-12 アッシリアからの考古学的発見 (16:45) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-12 アッシリアからの考古学的発見 (16:45) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-12 アッシリアからの考古学的発見 (16:46) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-12 アッシリアからの考古学的発見 (16:46) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-12 アッシリアからの考古学的発見 (16:47) MAPLay. Z ![]() |
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1 階-11 アッシリア宮殿ホール (16:48) イラクのオリジナルから鋳造された、ライオンの足を持つ5本足のラマス [Lamassu] 。 ラマスはアッシリアの守護神であり、しばしば人間の頭と鳥の羽を持ち、足はライオンまたは雄牛の足として表現されている。 MAPLay. Z ![]() |
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1 階-12 アッシリアからの考古学的発見 (16:48) MAPLay. Z ![]() |
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2 階-15,16 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] アレッポ・ルーム [Aleppo room] (16:50) 1601 年頃に当時世界有数の商業都市だったアレッポ (MAP) で仲介業を営んでいた裕福なシリア商人イーサー・ブン・ブトルス(アラビア語で「ペトロの息子イエス」の意)がオスマン帝国領内だったアレッポのキリスト教地区に造らせたもので、その商人はキリスト教を信仰していた。 中央の扉の両側にイスラム写本芸術の様式で、キリスト教をモチーフにした「聖母マリアとその子」「最後の晩餐」「ヘロデの前で踊るサロメ」といった絵が描かれている。 この種の壁装飾としては、現存する最古のものと考えられている。 MAPLay. Z ![]() |
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2 階-15,16 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] アレッポ・ルーム [Aleppo room] (16:50) MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] オスマン帝国時代の絨毯 (16:51) MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] オスマン帝国時代の絨毯 (16:52) MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] オスマン帝国時代の絨毯 (16:53) MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] オスマン帝国時代の絨毯 (16:53) 左端のカーペットは、有名な「ドラゴンとフェニックスカーペット」で、神の不死と永遠の命の勝利を象徴している。 「S」型の「神」ドラゴンの上を飛ぶフェニックスは、強力で縁起の良い力の象徴。 オスマン帝国の初期の15世紀半ばに「ドラゴンとフェニックス」カーペットが織られたことが確認されている。 MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] オスマン帝国時代の絨毯 (16:54) MAPLay. Z ![]() |
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2 階-9 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] ムシャッタ・ホールとササニアン芸術 (16:55) カスル・ムシャッタ「冬の宮殿」のファサード。 おそらく短い統治時代 (743-744) にカリフ・アル=ワリッド2世によって委託されたウマイヤの冬の宮殿の遺跡と考えられている。 MAPLay. Z ![]() |
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2 階-9 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] ムシャッタ・ホールとササニアン芸術 (16:55) カスル・ムシャッタ「冬の宮殿」のファサード。 MAPLay. Z ![]() |
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2 階-9 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] ムシャッタ・ホールとササニアン芸術 (16:55) カスル・ムシャッタ「冬の宮殿」のファサード。 MAPLay. Z ![]() |
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2 階-9 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] ムシャッタ・ホールとササニアン芸術 (16:56) カスル・ムシャッタ「冬の宮殿」のファサード。 MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] (16:57) MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] (16:58) MAPLay. Z ![]() |
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2 階イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] (16:58) MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] (16:58) MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] (16:58) MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] (16:59) MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] Qusayr Amra Jordanの壁画の一部 (16:59) このフレスコ画は、8世紀前半(西暦730〜740年)の女性像で、現在のヨルダンのウマイヤ宮殿群であるクサイル・アムラ [Quṣair 'Amra] の浴場から来ている。 MAPLay. Z ![]() |
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2 階イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] 鳥を描いた光沢ボウル (16:59) イラク(サマラ)、9世紀の土器と金の光沢塗装。 MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] (16:59) MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] (17:00) MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] (17:00) MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] (17:00) MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] (17:00) MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] (17:00) MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] 彫刻された象牙の箱とホーン (17:01) ファチミドシチリア [Fatimid Sicily] または南イタリア、11〜12世紀 MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] 彫刻された象牙の箱とホーン (17:01) ファチミドシチリア [Fatimid Sicily] または南イタリア、11〜12世紀 MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] (17:01) MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] カシャン [Kashan] のミフラーブ [Mihrab] (17:02) MAPLay. Z ![]() |
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2 階 イスラム美術館 [Museum of lslamicArts] (17:02) MAPLay. Z ![]() |
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2 階 2階から1階へ下りる階段 (17:05) MAPLay. Z ![]() |
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1 階 1階から0階へ下りる階段 (17:05) MAPLay. Z ![]() |
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ペルガモン博物館の見学を終え、バスに向かう (17:17) 「南東」MAPLay. C ![]() |
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きむらや (17:43) 日本人が経営するベルリンのお土産さん。 MAPLay. C ![]() |
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きむらや (17:43) 日本人が経営するベルリンのお土産さん。 ユーロ、ドル、日本円、クレジットカードが使用できる。 MAPLay. C ![]() |
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きむらや (17:49) ドイツのお土産が買える日本人経営のショップ。 MAPLay. C ![]() |
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夕食のレストラン "Cabinett Café & Bistro" (18:29) 「北北東」MAPLay. C ![]() |
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夕食のレストラン "Cabinett Café & Bistro" (18:29) 「東北東」MAPLay. C ![]() |
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夕食のレストラン "Cabinett Café & Bistro" (18:30) MAPLay. C ![]() |
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夕食のレストラン "Cabinett Café & Bistro" (18:31) 一番上にはメルケル首相の写真が貼られている。 MAPLay. C ![]() |
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夕食のレストラン "Cabinett Café & Bistro" (18:31) MAPLay. C ![]() |
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夕食のレストラン "Cabinett Café & Bistro" (18:32) MAPLay. C ![]() |
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シンフォニオン [SYMPHONION] 製のディスクオルゴール (18:35) レストランに飾ってあった、シンフォニオン製のディスクオルゴールで、シンフォニオンは、多くの独特なオルゴールを生み出している。 会社は、ドイツ・ライプツィヒにあった。 (1885-1902) MAPLay. C ![]() |
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夕食のレストラン "Cabinett Café & Bistro" (18:36) MAPLay. C ![]() |
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夕食のレストラン "Cabinett Café & Bistro" (18:36) 店内には訪れた有名な方の写真が多数展示されていて、メルケルさん、ゴルバチョフさんなど有名な政治家も訪れている。 因みに、この近くに首相官邸があるとのこと。 MAPLay. C ![]() |
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夕食のレストラン "Cabinett Café & Bistro" (18:39) 家族で経営しているレストラン。 MAPLay. C ![]() |
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夕食のレストラン "Cabinett Café & Bistro" (18:45) MAPLay. C ![]() |
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夕食のレストラン "Cabinett Café & Bistro" (18:53) 右上にはゴルバチョフの写真が貼られている。 MAPLay. C ![]() |
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夕食のレストラン "Cabinett Café & Bistro" (18:53) 右上にはゴルバチョフの写真が貼られている。 MAPLay. C ![]() |
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夕食のレストラン "Cabinett Café & Bistro" (18:53) 有名人の写真が壁に沢山貼られている。 MAPLay. C ![]() |
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夕食のレストラン "Cabinett Café & Bistro" (18:57) 夕食後、宿泊ホテル "Tryp by Wyndham Berlin City East" へ戻る。 (連泊) MAPLay. C ![]() |